第153話 三つの夜
最初の夜は何の成果も得られないまま終わった。
空が明るくなっても、アーガはすぐに町へ戻ろうとはしなかった。
リナとイータを連れ、西門の外に広がる山の麓を引き続き捜索する。
朝霧は、なかなか消えなかった。
草葉には露が残っている。
その上を歩くたび、三人の靴はすぐに濡れていった。
イータは先頭を歩いている。
時折、鼻先を小さく動かし、白い耳も絶えず周囲の音を探っていた。
しかし、見つかるのは小型魔物や野生動物の残した匂いだけだった。
それ以外には、何もない。
◇ ◇ ◇
昼が近づいた頃。
山道の方角から、一組の冒険者たちが下りてきた。
全部で五人。
背中には、仕留めた獲物や薬草を詰めた袋を背負っている。
どうやら山での仕事を終え、町へ戻る途中らしい。
先頭を歩くのは、三十代半ばほどの男だった。
短く切った髪。
頬から顎には、剃り残した無精髭が生えている。
腰には狩猟用の短刀。
背中には、使い込まれた古い弓を背負っていた。
道端に立つ三人を見つけると、まず胸元の冒険者徽章へ視線を向ける。
続いて、まだそれほど汚れていない装備を確認した。
「登録したばかりの新人か?」
アーガは頷く。
「ああ」
男は小さく笑い、片手を差し出した。
「カーロだ。D級冒険者で、普段はこの山の麓周辺で薬草採取や狩猟の依頼を受けている」
アーガも手を伸ばし、短く握手を交わした。
「ジャヤだ」
カーロはリナとイータを一度見た。
「この辺りで依頼か? 町に近いから、低級の依頼ならいくらでもある。ただし、これ以上山の奥へ入るなら、あまり深くまで進まない方がいいぞ」
「この辺りに、少し強い魔物がいないか調べている」
アーガが答えた。
カーロの眉が僅かに上がる。
「強い魔物? この近くにか?」
「ああ」
カーロは振り返り、自分たちが下りてきた山道を見た。
そして、首を横へ振る。
「少なくとも、この数日は見ていないな。山の麓にいるのは、灰背蜥蜴や短尾猿、地鼠の魔物みたいな小物ばかりだ。人間を噛むことはあるが、わざわざ集団を襲うような魔物じゃない。本当に強い魔物が西門へ近づいているなら、巡回隊か、俺たちのように山道を何度も通る冒険者がとっくに気づいている」
「最近、妙な音を聞いたことは? あるいは、怪しい痕跡を見つけたことはないか?」
アーガは尋ねた。
カーロは少し考えた。
「特にはないな。昨夜、もっと北の方で狼型魔物が何頭か鳴いていたが、ここからはかなり離れている。それに、あの種類は普通、城門の近くまでは来ない」
アーガは頷いた。
「助かった」
「気にするな」
カーロは片手を振った。
「新人なら、依頼を受けるときは慎重にな。暮星城の近くは安全に見えるが、山の中まで安全とは限らない」
冒険者たちは、それ以上立ち止まらなかった。
そのまま西門の方角へ歩いていく。
午後になると、さらに二組の冒険者たちが道を通った。
一組は薬草採取へ向かう者たち。
もう一組は、商人を護衛しながら山道の状態を確認していた者たちだった。
どちらの隊も、最近この周辺で特別な魔物は見ていないと答えた。
行方不明の子供についても、誰一人見かけていなかった。
この道は、確かに人通りが少ない。
だが、誰も通らない道ではなかった。
もし本当にノアが町の外へ連れ出され、そのまま山の奥へ入っていないのなら、誰か一人くらい何かを見ていてもよいはずだった。
しかし、誰も見ていない。
◇ ◇ ◇
二日目の夜。
三人は再び、低い丘の裏側へ作った野営地で見張りを続けた。
夜風は前夜よりも冷たかった。
草むらから、時折細かな物音が聞こえてくる。
そのたびに、イータは勢いよく顔を上げた。
だが、すぐに耳を垂らしてしまう。
野兎、あるいは小型の魔物。
夜も半ばを過ぎた頃、一匹の灰背蜥蜴が岩のそばを這って通った。
リナの動かした蔓に驚き、すぐに向きを変えて草むらへ逃げ込んでいく。
それ以外には、やはり何も起こらなかった。
◇ ◇ ◇
三日目の昼。
アーガは、さらに捜索範囲を広げた。
三人は山の麓の奥へ進む。
そこでは、いくつかの古い焚き火跡を見つけた。
狩人が目印を残すため、短刀で樹皮を削った痕跡もある。
近くには小さな川が流れていた。
水辺の泥には、魔物の爪跡がいくつも残っている。
だが、どれもそれほど大きくはなかった。
イータは川辺へしゃがみ込み、長い間匂いを嗅いだ。
やがて、力なく首を横へ振る。
「子供の匂いはありません」
リナはイータを見た。
「少しも残っていませんか?」
「はい」
イータの声が小さくなる。
「二日前の時点でも、かなり薄くなっていました。それから、さらに何日も経っています。もう……本当に見つけられません」
アーガは川辺に立ち、石の隙間を流れていく水を見つめた。
手掛かりは、時間が経つほど少なくなっている。
このまま捜索が長引けば、たとえ以前は何かが残っていたとしても、風、雨、魔物、そして行き交う人間たちによって、完全に消されてしまうだろう。
◇ ◇ ◇
三日目の夜も、何事も起こらなかった。
焚き火が消えかけた頃。
イータは炎のそばで、両膝を抱えて座っていた。
耳は垂れ、尾にもいつもの元気がない。
「アーガ様」
「何だ?」
「私たちは……もう、あの子を見つけられないんでしょうか?」
リナが顔を上げ、イータを見た。
だが、何も言わなかった。
アーガも、しばらく黙っていた。
「まだ、結論を出す段階ではない」
「でも……」
イータは俯いた。
「もし、あの子が本当に町の外にいるなら、もう何日も経っています」
その先の言葉を、イータは口にしなかった。
七歳の子供。
食べ物もない、水もない。
町の外にある山地で一人きりになっている。
そんな状態で、何日も生き延びられる可能性は、確かに低かった。
リナの指が、僅かに握り締められる。
「依頼人は、今も私たちからの知らせを待っています」
「ああ」
アーガは、遠方に広がる漆黒の山影へ目を向けた。
この感覚が、アーガは嫌いだった。
敵がいない。
痕跡もない。
進むべき方向もない。
強大な魔物と戦うよりも、何一つ掴むことのできないこの空白の方が、ずっと苛立たしかった。
夜明け前、風が止んだ。
遠方にそびえる雪峰が、灰白色の空の中へ僅かに輪郭を現す。
冷たく硬い、巨大な骨のようだった。
◇ ◇ ◇
四日目の朝。
アーガは立ち上がり、外套に付着した草屑を払い落とした。
「戻るぞ」
イータが顔を上げる。
「もう捜さないんですか?」
「ここで見張りを続けても、意味はない。今のところ、町の外に異常は見つからない。一度戻って、町の人間たちへもう一度話を聞く。どこかに見落としていることがあるかもしれない」
リナは頷いた。
「分かりました」
三人は野営地を片づけ始めた。
焚き火へ土をかけ、残った干し肉やパンを袋へ戻す。
イータが水袋を腰へ掛けた。
そのとき、白い耳が不意に動いた。
イータは勢いよく顔を上げ、東側にある灌木へ目を向ける。
「何かが来ます」
アーガは即座に身構えた。
灌木の向こう側から、低く荒い呼吸音が聞こえる。
次の瞬間、複数の灰黒色の影が草むらを突き破って飛び出してきた。
狼型の魔物。
全部で四頭だった。
普通の狼よりも一回りほど大きい。
背中には、暗い青緑色をした硬い毛が生えている。
口元からは、粘り気のある涎が垂れていた。
その中で、最も大きな一頭。
濁った黄色い瞳をしている。
牙の隙間には、まだ血の付いた肉片が挟まっていた。
イータの表情が突然変わった。
その狼型魔物が口に咥えているものを、目を見開き凝視する。
人間の腕だった。
手首から先には、千切れた肉と骨が露出している。
袖口には、引き裂かれた布が僅かに残っていた。
イータの鼻先が小さく動く。
次の瞬間、その顔から完全に血の気が引いた。
「アーガ様……」
「どうした?」
イータは顔を上げた。
声が強く震えている。
「この匂い……依頼人の、隣の家の匂いです」
アーガの瞳孔が僅かに縮んだ。
「何だと?」
リナも息を呑んだ。
狼型魔物たちは、三人の様子が変わったことを察したらしい。
すぐに身体の向きを変え、逃げようとする。
アーガの目が鋭くなった。
「逃がすな!」
リナが片手を上げる。
地面を割り、何本もの蔓が飛び出した。
先頭を走る二頭の脚へ絡みつく。
狼型魔物は鋭い爪を振るい、蔓を引き裂いた。
しかし、ほんの一瞬だけ動きが鈍る。
アーガは、その僅かな隙を逃さなかった。
地面を蹴り、一気に距離を詰める。
短剣が、最初の一頭の前脚を切り裂いた。
狼型魔物は体勢を崩し、勢いよく地面へ転がる。
イータが側面から回り込み、両手で持った木の棒を振り下ろした。
――ゴッ!
狼型魔物の頭蓋へ、鈍い音が響く。
別の一頭は、蔓を飛び越えてリナへ襲いかかった。
リナは後退しない。
指先を強く握り込む。
狼の背後を通り過ぎた蔓が、突然逆方向へ折れ曲がった。
首へ巻きつき、その身体を横へ強引に引きずる。
アーガが振り返り、短剣を狼の脇腹へ深く突き刺した。
血が噴き出し、草地を赤く染める。
残された二頭は、勝てないと判断したらしい。
後方へ退き始めた。
しかし、そのうちの一頭は、まだ人間の腕を口に咥えている。
アーガの目が冷たくなる。
「イータ!」
「はい!」
イータが地面を強く踏み込んだ。
足元の草葉へ、瞬く間に白い霜が広がっていく。
冷気は地面を這い、逃げる狼型魔物へ迫った。
先頭の狼が振り返った瞬間、その四肢が完全に凍りつく。
身体を動かすこともできず、その場へ固定された。
◇ ◇ ◇
しばらくして、周囲には再び静けさが戻った。
草地に残るのは、濃い血の臭いだけだった。
イータは、倒れた狼型魔物たちを見ようとはしなかった。
視線はずっと、地面へ落ちた人間の腕へ向けられている。
「間違いありません。隣の……ダニーの家の匂いです」
アーガは、切断された腕を見下ろした。
袖口の布は血に染まり、元の色すら分からない。
だが、切断面は新しかった。
流れ出た血も、まだ完全には固まっていない。
数日前に死んだ人間の、古い死体から持ってきたものではない。
この腕の持ち主は、つい先ほどまで生きていた。
山の麓から風が吹く。
草葉が、ゆっくりと揺れた。
遠方には、暮星城の城壁が変わらず静かに立っている。
まるで、何も起きていないかのように。
アーガの表情が険しくなる。
低い声が、静かな草地へ落ちた。
「一体……何が起きている?」




