第151話 消えた子供
女性の名は、マーサ・フォスターといった。
三人を家の中へ案内する間も、その手はずっと震えていた。
家はそれほど広くない。
しかし、室内は綺麗に片づけられていた。
壁際には、小さな木製の寝台が置かれている。
枕元には布を縫い合わせて作った熊の人形。
その隣には、何度も読み返されたらしい、古びた童話の本が数冊並んでいた。
卓上には、一杯の水が置かれている。
すでに完全に冷めており、水面には僅かに埃が浮かんでいた。
誰も、そんなものを片づける余裕がなかったのだろう。
「ノアがいなくなったのは、二日前の夕方です」
マーサは椅子へ腰を下ろした。
声は酷く掠れていた。
「あの子は普段から、とても聞き分けの良い子でした」
「一人で遠くへ行くようなことはありません」
「あの日は、近所の子供と遊んでくると言って……」
マーサは震える指を膝の上で組んだ。
「西側にある草地で遊ぶだけですし、家からもそれほど遠くありません」
「だから、行かせてしまったんです」
アーガは卓のそばに立ったまま、椅子には座らなかった。
「一緒に出かけたのは誰だ?」
「隣の家の子です」
マーサは答える。
「ダニーという子で、二人はいつも一緒に遊んでいました」
「ダニーは戻ってきたのですが、ノアだけが帰ってこなかったんです」
リナが静かに尋ねた。
「ダニーは、何があったのか話していませんか?」
マーサは首を横に振った。
赤く腫れた目に、再び涙が浮かぶ。
「ノアは球を拾いに行って、そのままいなくなったと……」
「何度聞いても、それしか言わないんです」
イータは扉のそばに立っていた。
白い耳が、僅かに垂れている。
寝台の上に置かれた熊の人形を見たあと、すぐに視線を逸らした。
アーガは質問を続ける。
「いなくなった場所は?」
「城の西側にある草地です」
マーサは手を上げ、窓の外を指さした。
「西門から、少し進んだところにあります」
「普段から子供たちが遊んでいますし、大人が通りかかることもあります」
「人通りが多い場所ではありませんが、それでも誰にも気づかれずに消えるなんて……」
マーサの声が震えた。
「あの先は山地です」
「でも、ノアが自分から街の外へ出るはずがありません」
「西門には衛兵がいますし、あの子は山にいる魔物をとても怖がっていましたから」
「時間は?」
「夕方です」
マーサは答えた。
「日が沈みかけていた頃でした」
「怪しい人物を見た者は?」
「いません」
マーサは強く首を振った。
「近くにいた人たちにも聞きました」
「ですが、誰も何も見ていないと……」
アーガは、しばらく黙って考えた。
「その場所へ案内してくれ」
マーサはすぐに椅子から立ち上がった。
まるで、少しでも遅れれば三人が依頼を放棄してしまうと恐れているようだった。
「はい」
「私が案内します」
◇ ◇ ◇
城西の草地は、白楡通りからそれほど離れていなかった。
西門近くに広がる空き地。
草丈は低く、中央には子供たちが何度も踏みつけたらしい、土の剥き出しになった場所がいくつかある。
端には、幹が途中から大きく曲がった一本の木が立っていた。
木の下には、丸い石がいくつか転がっている。
さらに向こうには、西門を抜け、街の外へ続いていく道が見えた。
ここから顔を上げれば、城壁と門楼もよく見える。
西門には、確かに衛兵が配置されていた。
通行人はそれほど多くない。
それでも、人の目がまったくない場所ではなかった。
アーガは草地の中央でしゃがみ込み、地面を観察した。
ノアがいなくなってから、すでに二日が経過している。
草地には、その後につけられた新しい足跡がいくつも残っていた。
子供の足跡。
大人の足跡。
荷車の車輪跡。
犬らしき獣の足跡もある。
何度も踏み荒らされた土は混ざり合い、どれがノアのものなのか判別できなかった。
イータは草地の端へしゃがみ込む。
鼻先を僅かに動かした。
曲がった木の根元を一周する。
それから、土が剥き出しになった場所まで歩き、再び匂いを嗅いだ。
次第に、その眉が寄っていく。
「匂いが多すぎます」
イータは低い声で言った。
「それに、もう二日も経っています」
「風が吹いて、ほとんどの匂いが消えています」
「ノアの匂いは分かるか?」
アーガが尋ねる。
イータは首を横に振った。
「子供の匂いなら、少しだけ残っています」
「でも、ここではいつも子供たちが遊んでいるので、誰の匂いなのか分かりません」
リナは西門の方向へ歩き、衛兵たちの姿を確認した。
「もしノアがここから街の外へ出たのなら、門の衛兵が気づくはずです」
アーガはうなずいた。
そのまま草地の周囲を一周する。
血痕はない。
何かを引きずった跡もない。
争った形跡も見当たらなかった。
木の裏。
草むら。
石の周囲。
どこにも異常はない。
付近の壁や地面にも、罠や仕掛けらしき痕跡は見つからなかった。
あまりにも綺麗だった。
まるで、子供が突然その場から消えてしまったかのように。
マーサは少し離れた場所に立ち、両手を強く握り締めていた。
「ガイア様」
不安そうに尋ねる。
「何か分かりましたか?」
アーガは、すぐには答えなかった。
顔を上げ、西門の外を見る。
城門を越えた道は、山地へ向かって伸びていた。
遠くには低い林。
そのさらに向こうには、薄い山影が見える。
あの辺りに魔物がいる可能性は十分にある。
しかし。
もし魔物が城門付近まで侵入していたのなら、何の騒ぎも起きないとは考えにくい。
「先にダニーから話を聞く」
アーガは言った。
マーサは一瞬戸惑ったが、すぐにうなずいた。
「分かりました」
◇ ◇ ◇
隣家は、白楡通り二十一番地にあった。
扉を開けたのは、疲れた顔をした男だった。
マーサの家で起きたことは、すでに知っているらしい。
冒険者ギルドから調査に来たと聞くと、すぐに三人を中へ招き入れた。
ダニーは、小柄で痩せた少年だった。
年齢は七歳か八歳ほど。
部屋の隅に座り、手の中で古い木製の球を強く握っている。
マーサの姿を見ると、すぐに顔を伏せた。
「ダニー」
マーサの声が震える。
「もう一度、ガイア様に話して」
「あの日、本当は何があったの?」
少年の肩が小さく縮こまった。
アーガはダニーの前まで歩いた。
だが、威圧しないよう、少し距離を空けたまま足を止める。
「緊張しなくていい」
穏やかな声で言った。
「いくつか聞くだけだ」
「覚えていることを、そのまま話してくれ」
ダニーは小さくうなずいた。
アーガは、少年が握っている木製の球を指さす。
「あの日は、それで遊んでいたのか?」
「うん」
ダニーは小さな声で答えた。
「草地で、球を蹴って遊んでた」
「ノアが強く蹴りすぎて、球が木の後ろまで飛んでいったんだ」
「それから?」
「ノアが拾いに行くって言った」
ダニーの声が、さらに小さくなる。
「僕は、その場で待ってた」
「でも、しばらくしても戻ってこなくて……」
「名前を呼んだけど、返事もなかった」
「木の後ろは確認したか?」
「うん」
ダニーは答えた。
「球は地面に落ちてた」
「でも、ノアはいなくなってた」
「何か音は聞こえなかったか?」
アーガは一つずつ確認するように尋ねる。
「足音」
「馬車の音」
「知らない人間の声」
「それか、ノアの叫び声」
ダニーは懸命に思い出そうとした。
しばらく考えたあと、首を横に振る。
「何も聞こえなかった」
「近くに誰かいなかったか?」
「分からない」
ダニーは俯いたまま答える。
「もう暗くなりかけていて、人も少なかったから……」
「風が吹いてたのだけ覚えてる」
「草が、ずっと揺れてた」
「ノアが一人で街の外へ出ることはあるか?」
「ないよ」
ダニーはすぐに首を横へ振った。
「あいつ、すごく怖がりなんだ」
「前に城門で、魔物の死体を背負った狩人を見たときも、泣いちゃったくらいだから」
マーサは口元を手で覆った。
目から涙が零れ落ちる。
アーガはマーサを一度見たあと、質問を続けた。
「家へ戻ってから、最初に誰へ話した?」
「お母さん」
ダニーは答える。
「それから、お母さんと一緒にマーサおばさんのところへ行った」
「本当に、ノアは球を拾いに行っただけなんだな?」
「うん」
ダニーは木製の球を強く握った。
「嘘じゃない」
アーガは数秒間、少年の顔を見つめた。
ダニーの恐怖は、演技には見えない。
恐ろしさのあまり、何か細かなことを忘れている可能性はある。
あるいは、言い出せないことを隠しているのかもしれない。
だが、少なくともノアの失踪に関わった者の反応には見えなかった。
アーガは立ち上がる。
「分かった」
◇ ◇ ◇
隣家を出たあとも、マーサは三人の後ろについてきた。
何か尋ねたそうにしている。
しかし、答えを聞くのが怖いのか、なかなか口を開けずにいた。
白楡通りへ戻ったところで。
マーサは、ようやく声を絞り出した。
「ガイア様」
「何か、手がかりはありましたか?」
リナもアーガを見る。
「アーガ様」
「何か分かりましたか?」
アーガは首を横に振った。
「手がかりは、まったくない」
その一言を聞き、マーサの顔色がさらに青白くなった。
イータが小さな声で言う。
「もしかしたら……」
「街の外がすぐ山なら、山から下りてきた魔物が、子供を連れ去った可能性はありませんか?」
「あり得ません!」
マーサが勢いよく顔を上げた。
声が急に鋭くなる。
「絶対にあり得ません」
「ノアは聞き分けの良い子です」
「勝手に街の外へ出たりしません」
「それに西門には衛兵がいるんですよ?」
「あんな小さな子供が、衛兵の目の前を通って外へ出られるはずがありません!」
アーガはマーサを見た。
「ノアが自分から出たんじゃないとしたら?」
「かなり力のある魔物が、街の中へ侵入していた可能性は?」
マーサは口を開いた。
しかし、何も言葉が出てこない。
しばらくして、力なく首を横に振った。
「分かりません……」
「もう、何も分からないんです」
声が次第に弱くなっていく。
「でも、この二日間……」
「何度も、あの子の夢を見るんです」
アーガの目が僅かに動いた。
「どんな夢だ?」
マーサは両手で顔を覆った。
指の隙間から、震える声が漏れる。
「あの子が泣いている夢です」
「目を覚ますたび、本当に泣き声が聞こえたような気がして……」
「ずっと私を呼んでいるんです」
「でも、どこを捜しても見つからない……」
イータは唇を強く結んだ。
何も言わなかった。
アーガはマーサを見つめる。
人は極度の悲しみや不安に晒されれば、幻覚や錯覚を起こすことがある。
子供が行方不明になった母親が、その子の泣き声を夢に見ること自体は、不思議ではない。
「今日はここまでにする」
アーガは言った。
「明日は西門の外を調べる」
マーサが顔を上げる。
「街の外を、ですか?」
「街の中で手がかりが見つからない以上、外を調べるしかない」
アーガは答えた。
「魔物が関係しているかどうかも含めて、一度確認する必要がある」
マーサは何度も大きくうなずいた。
「お願いします」
「どうか、よろしくお願いします」
アーガは、必ず見つけるとは言わなかった。
ただ依頼書をしまい、リナとイータを連れて白楡通りを離れた。
◇ ◇ ◇
夕日は、すでに建物の屋根の向こうへ沈みかけていた。
西門付近の城壁が、暗い赤色に染まっている。
遠くに見える山影は、暮れゆく空の下へ沈んでいた。
まるで、何頭もの獣が背を丸め、静かに横たわっているようだった。
イータは一度立ち止まり、マーサの家を振り返った。
「アーガ様」
「その子は、まだ生きているのでしょうか?」
アーガは、すぐには答えなかった。
少し時間を置いてから、静かに口を開く。
「今は、まだ判断できない」
リナが小さな声で言った。
「明日、街の外を調べれば、何か痕跡が見つかるかもしれません」
「ああ」
アーガは西門の外へ視線を向けた。
草地には、血もなかった。
足跡もなかった。
争った痕跡さえ残されていない。
子供は、夕暮れの風の中へ溶けるように消えていた。
もし、魔物の仕業でないのなら。
事態は、さらに厄介だった。




