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第149話 休息日

翌朝。


イータは、いつもよりも早く目を覚ました。


アーガが外套を着終えたときには、すでに寝台の端へ座っている。


白い尻尾が背後でゆっくりと揺れていた。


その瞳は、今起きたばかりとは思えないほど輝いている。


アーガはそんなイータを見て、思わず笑った。


そのまま手を伸ばし、柔らかな耳を軽く撫でる。


「ひゃっ……」


イータの耳が、一瞬で真っ直ぐに立ち上がった。


リナは寝具を畳んでいたが、その様子を見て小さく笑った。


アーガは二人を見回し、ため息をつく。


「今日は何も考えず、ゆっくり休め」


「まずは服を買いに行くぞ」


「服、ですか?」


リナが僅かに目を見開いた。


アーガは彼女の袖口を指さす。


リナが自分の服へ目を落とした。


袖口の布は擦り切れ、細い糸が何本も飛び出している。


イータの服は、さらに酷かった。


上着の裾には、排水路の泥水で汚れた跡が残っている。


何度洗っても、元の色には戻らなかった。


ズボンの裾にも、小型魔獣に噛みつかれたときの破れがある。


「この先も旅を続けるんだ」


アーガは言った。


「いつまでも、その格好で歩くわけにはいかないだろう」


リナは擦り切れた袖口を指で押さえた。


「ですが、まだ着られます」


「着られることと、買い替えるべきかどうかは別の話だ」


イータも自分の服を見下ろした。


それから、少し心配そうにアーガを見る。


「高くありませんか?」


「あまり高い物を選ばなければ問題ない」


アーガは金袋を懐へ入れた。


「行くぞ」


◇ ◇ ◇


三人は《灰鳩亭》を出ると、西区にある仕立屋通りへ向かった。


暮星城には、黒槌町よりも遥かに多くの仕立屋があった。


通りの両側には、色とりどりの布地が並べられている。


厚く丈夫な旅装。


軽く、見た目の美しい長裙。


魔物の皮を一部に使った外套や、貴族向けの礼服まであった。


一軒の仕立屋の前で、リナが足を止める。


店内に並ぶ服を見ながら、僅かに躊躇しているようだった。


店主は、少しふくよかな中年の女性だった。


三人が店へ入ると、すぐに笑顔で近づいてくる。


「そちらのお嬢さん方のお洋服ですか?」


アーガはうなずいた。


「動きやすくて、丈夫な物がいい」


「あまり目立たない物を頼む」


リナがすぐに付け加える。


「普通の物で十分です」


イータも隣でうなずいた。


「私も、普通ので大丈夫です」


店主は二人を見比べ、にこやかに笑った。


「それなら、あちらに旅装がありますよ」


「長旅に向いた裙装もございます」


リナは並べられた服を、一着ずつ真剣に見ていた。


だが、選び方はひどく控えめだった。


指が止まるのは、色の地味な安い服ばかり。


少し質の良い布地を見つけても、すぐに視線を逸らしてしまう。


まるで、アーガに気づかれることを恐れているようだった。


しかし。


アーガは、しっかりと気づいていた。


「その服も試してみろ」


リナの手が止まった。


「必要ありません、アーガ様」


「こちらの服で十分です」


「試着するだけなら、金はかからないだろ」


アーガが店主を見る。


店主はすぐに服を取り、笑顔でリナへ差し出した。


「よくお似合いになると思いますよ」


それは、淡い青色の上着だった。


豪華な布地ではない。


だが、仕立ては丁寧だった。


袖口や腰回りにも余裕があり、身体を動かしやすいように作られている。


しばらくして。


試着用の幕の奥から、リナが姿を現した。


淡い青色の上着。


肩へ流れる金色の長い髪。


普段よりも、その雰囲気が遥かに柔らかく見えた。


イータの目が明るくなる。


「リナお姉ちゃん、綺麗です」


「そ、そうでしょうか……」


リナは落ち着かない様子で、自分の袖を触った。


「少し目立ちませんか?」


「目立たない」


アーガは即答した。


「これにしよう」


「ですが……」


「次の服を選ぶぞ」


リナは何かを言おうと口を開いた。


しかし、最後には何も言わず、言葉を飲み込んだ。


◇ ◇ ◇


イータの服選びは、もっと簡単だった。


彼女は服に対して、あまり強いこだわりを持っていないらしい。


それよりも、何度も店の窓から外を見ていた。


仕立屋の向かい側には、小さな露店がある。


鉄板の上では、甘い焼き菓子が焼かれていた。


香ばしく甘い匂いが、通りを越えて店の中まで漂ってくる。


イータが三度目に窓の外を見たとき。


アーガは、とうとう口を開いた。


「お前は服を買いに来たのか?」


「それとも、焼き菓子を見に来たのか?」


イータは勢いよく振り返った。


「ぬ、布を見ていました!」


「布は左側にありますよ」


リナが静かに教えた。


「……」


イータの耳が、ゆっくりと垂れ下がった。


店主は笑いを堪えながら、イータに合いそうな服を何着か持ってくる。


選ばれたのは、動きやすい短い上着と長ズボンだった。


腰の後ろには、尻尾を自由に動かせるよう、専用の切れ目が作られている。


着替えを終えたイータは、その場で一度身体を回した。


白い尻尾を左右へ振る。


旧い服よりも、明らかに動きやすそうだった。


「この服で大丈夫ですか?」


「ああ」


アーガはうなずいた。


「それにしよう」


最終的に。


アーガはリナへ二組。


イータにも二組の服を買った。


さらに、厚手の靴下を何足か。


予備の手袋も購入する。


代金を支払うとき。


リナはアーガの横へ立ち、少し不安そうな表情をしていた。


アーガはその顔を見た。


「そんな顔をするな」


「ですが、かなりお金を使ってしまいました」


「服も装備の一つだ」


アーガは店主へ硬貨を渡した。


「破れた服で旅を続けて、足を擦りむいたり、身体を冷やしたりすれば、あとで余計に金がかかる」


リナは少し黙った。


やがて、静かにうなずく。


「……分かりました」


イータは新しい服の入った紙袋を両腕で抱えていた。


「ありがとうございます、アーガ様」


◇ ◇ ◇


仕立屋通りを出たあと。


アーガは結局、向かいの露店で焼き菓子を買った。


イータは温かい焼き菓子を両手で持っている。


一口食べた瞬間、目が幸せそうに細くなった。


リナも小さく切り分けた物を受け取り、ゆっくりと口へ運んでいた。


三人は通りの脇に置かれた空いている卓を見つけ、腰を下ろす。


近くには茶や焼肉を売る露店が並び、多くの人々が行き交っている。


冒険者ギルドとは違い、周囲の空気は穏やかだった。


アーガは今日の新聞を一部購入した。


焼き菓子を食べながら、紙面を広げる。


一面には、大きな見出しが書かれていた。


『慈善商人サミュエル・グラント氏と、エルフ族のエラ嬢が親密な関係。正式な婚約も間近か』


その下には、白黒の魔法転写画が掲載されている。


正装した若い商人が、階段の上に立っていた。


その隣には、長い髪を持つ女性。


耳の先が僅かに尖っている。


整った立ち姿からは、白黒の画であっても、特別な気品が感じられた。


イータが新聞を覗き込む。


「エルフ族?」


画に描かれた女性を指さした。


「この人、前に会ったお姉さんですよね?」


「ああ」


アーガもうなずいた。


「俺も、こんな人物だとは思わなかった」


新聞の記事へ視線を落とす。


「自分のパーティーを率いて、南側の山へ薬草を採取しに行くことも多いらしい」


「エルフ族は珍しいのですか?」


「この辺りでは珍しい」


アーガは新聞を読みながら答える。


「この国に暮らすエルフ族は、基本的に王都周辺へ集まっている」


「それに、エルフ族の多くは北方大陸で暮らしているらしい」


「ほかの国へ移り住んだ者も、大半は大きな都市にいる」


アーガは新聞の画へ指を置いた。


「暮星城のような地方都市で見かけることは、確かに少ないだろうな」


イータは何度か目を瞬かせた。


「それなら、この人は強いのですか?」


「新聞の書き方を見る限り、かなり有名らしい」


そのとき。


隣の卓に座っていた客たちの会話が聞こえてきた。


「エラ様は、ずっと孤児院で暮らしているんだろう?」


「ああ。自分で子供たちにパンや服を配ったらしいぞ」


「やっぱりエルフ族は違うな」


「美人なだけじゃなく、心まで綺麗だ」


「サミュエル様も立派な方だ」


「あの人が金を出して孤児院を建てなかったら、身寄りのない子供たちは、今頃どこで暮らしていたことか」


新聞をめくろうとしたアーガの手が、僅かに止まった。


そのまま記事の続きを読む。


サミュエル・グラント。


暮星城を拠点とする商人。


主に薬草、食糧、慈善基金を取り扱っている。


一か月前。


彼は身寄りのない子供たちを保護するため、小規模な孤児院を建設した。


その名は――。


《暁星の家》。


エラはエルフ族としての身分と、個人の名声を利用し、孤児院への寄付を募っている。


慈善活動にも頻繁に出席しているらしい。


「《暁星の家》……」


アーガは、その名前を小さく読み上げた。


リナも新聞へ視線を向ける。


「昨日、あの白い犬が向かった場所ですね?」


「ああ」


アーガはうなずいた。


イータは焼き菓子を口に入れたまま言った。


「ふぉこ、孤児院だったのですね」


「食べてから話せ」


「……はい」


アーガは、すぐには何も言わなかった。


脳裏に浮かんだのは、右耳の一部を失った白犬だった。


あの犬は、孤児院の子供たちを見たとき。


普通の犬が見知らぬ人間へ向ける警戒とは、少し違う反応を見せていた。


明らかに怯えていた。


だが。


以前、子供たちから悪戯をされた可能性もある。


一頭の犬の反応だけでは、何も判断できない。


アーガは新聞を折り畳んだ。


焼き菓子の続きを食べようとした、そのとき。


通りの向こう側から、大きな騒ぎ声が聞こえてきた。


「エラ様!」


「本当にエラ様だ!」


「エラ様、こちらを向いてください!」


周囲にいた多くの人々が、一斉に立ち上がる。


通りの先へ視線を向けた。


イータも椅子の上で身体を捻り、騒ぎの方向を見る。


集まっていた人々が、自然と左右へ分かれた。


道の中央に、一本の通路が作られる。


その向こうから、一人のエルフ族の女性がゆっくりと歩いてきた。


隣にいるのは、婚約者と噂されているサミュエルだった。


エラの顔立ちは、精巧な彫刻のように整っていた。


穏やかな表情。


真っ直ぐに伸びた背筋。


周囲の騒がしさとは馴染まない、上品で落ち着いた雰囲気をまとっている。


何人かの子供が道端へ駆け寄った。


「エラ様!」


名前を呼ばれると、エラは優しく微笑んだ。


腰を屈め、その中の一人の頭をそっと撫でる。


周囲の人々から、小さな感嘆の声が上がった。


リナはエラを見つめた。


「綺麗な方ですね」


イータもうなずく。


「絵の中の人みたいです」


アーガも、それを否定しなかった。


エラは確かに美しかった。


だが、単に顔立ちが美しいだけではない。


長い時間をかけて礼儀作法を学んだ者だけが持つ、自然な落ち着き。


優しさ。


清潔さ。


そして、人々との間に薄い壁を作るような、僅かな距離感。


それらすべてが、彼女の存在を特別なものにしていた。


エラが露店の前を通り過ぎる。


周囲の人々が、次々と声をかけた。


彼女は一人一人へ丁寧に応じていく。


声は決して大きくない。


それでも、聞いた者を安心させるような響きがあった。


アーガは、エラを取り囲む人々を見た。


続いて、卓の上に置かれた新聞へ目を向ける。


新聞をもう一度綺麗に折り畳み、卓の端へ置いた。


「どうやら、あのエルフ族は本当に暮星城の有名人らしいな」


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