第 145 話 冒険者ギルド
イータは背負っていた荷物を床へ下ろした。
そのまま寝台へ身を乗り出し、敷布団をそっと手で押してみる。
「柔らかい……」
アーガは扉の閂をしっかりとかけると、二人の方へ振り返った。
「感動するのはまだ早いぞ」
アーガは言った。
「まだ夕飯を食べていない」
その言葉を聞いた瞬間、イータの耳が勢いよく立ち上がった。
「焼いたお肉を食べてもいいですか?」
「さっきから、ずっとあの屋台を見ていただろ。目が飛び出しそうだったぞ」
「に、匂いがしただけです……」
「なら、少しくらい食べてもいい」
アーガは小さく笑った。
「ただし、あまり高い物は頼むなよ」
イータの表情が一瞬で明るくなる。
リナも微笑みながら、荷物へ手を伸ばした。
「先に荷物を片づけます。すぐに終わりますから」
三人は簡単に荷物を整理したあと、再び階下へ降りた。
宿の周辺を歩き、比較的値段の安そうな小さな食堂を見つける。
◇ ◇ ◇
食事をしながら、アーガは店内の様子を観察していた。
数人の冒険者が麦酒を飲んでいる。
腰には剣や短斧が下げられ、使い込まれた革鎧には何度も修理した痕が残っていた。
窓際には、商人らしい服装をした二人の男が座っている。
声を潜めながら、荷物の運送や山道の状態について話していた。
店の隅では、灰色の外套をまとった老人が一人でスープを飲んでいる。
まるで、この街の夜にはすっかり慣れているようだった。
三人へ注意を向ける者はいない。
それでいい。
食事を終えると、三人は《灰鳩亭》へ戻った。
◇ ◇ ◇
外はすでに完全な夜を迎えていた。
部屋には小さな油灯が一つだけ灯されている。
決して明るくはなかったが、その淡い光は不思議と心を落ち着かせた。
身体を洗い終えたイータは寝台の端へ座り、自分の白い尻尾を抱えながら、丁寧に毛並みを整えている。
リナは今日着ていた服を綺麗に畳み、椅子の背へ掛けて乾かしていた。
アーガは机の前へ座ると、懐から革製の金袋を取り出した。
袋の口を開き、中身を一枚ずつ机へ並べていく。
銅貨、銀貨、そして僅かな小金貨。
硬貨同士が触れ合い、小さな金属音を響かせた。
その音に気づいたリナが、アーガのそばへ歩いてくる。
「アーガ様?」
「残りがいくらあるか確認している」
イータも尻尾を抱えたまま、興味深そうに近づいてきた。
アーガは硬貨を種類ごとに分け、机の上へいくつかの山を作る。
宿に泊まるには金が必要だ。
食事にも金がかかる。
旅の補給品を揃えるためにも必要になる。
今後、さらに別の街へ向かうのなら、旅費だけでなく、薬や保存食も準備しなければならない。
場合によっては、新しい装備も必要になるだろう。
すべてを数え終えたアーガの眉間に、少しずつ皺が寄った。
「少ないな……」
リナは机の上に並べられた硬貨を見つめ、しばらく考えた。
「暮星城は、これほど大きな街です。仕事を受けられる場所もあるのではないでしょうか?」
「ある」
アーガは窓の外へ視線を向けた。
今日、中央通りを歩いていたとき、すでにそれらしい建物を一つ見つけていた。
正面には、剣と盾を組み合わせた紋章が掲げられていた。
建物へ出入りする者の多くは武器を持っている。
中には、治療を受けたばかりらしい傷を残した者もいた。
ああいう場所は、どの街にあっても役割はほとんど変わらない。
冒険者ギルド。
イータの耳が小さく動いた。
「アーガ様は、冒険者になるのですか?」
「正確には、いくつか依頼を受けるだけだ」
アーガは机の硬貨を集めながら答える。
「捜し物、護衛、魔物の討伐。金になるなら、仕事の内容は何でもいい。まずは当面の資金を稼ぐ。そのあとのことは、それから考える」
リナは素直にうなずいた。
「分かりました」
イータも力強くうなずく。
「わ、私も頑張ります! 捜し物なら、私の鼻も役に立つと思います!」
真剣な表情で胸を張るイータを見て、アーガは思わず笑った。
「なら、頼りにしているぞ」
「はい!」
イータの白い尻尾が、嬉しそうに左右へ揺れた。
窓の隙間から夜風が入り込み、油灯の炎を小さく揺らす。
遠くにある鐘楼から、低い鐘の音が聞こえてきた。
その音は街道と屋根の上を越え、暮星城の夜へゆっくりと溶けていく。
アーガは硬貨を金袋へ戻し、懐へ収めた。
それから顔を上げ、窓の外を見る。
街の明かりが、一つ、また一つと灯されていた。
まるで、暮れゆく空に浮かぶ星のようだった。
アーガはしばらくその光景を見つめたあと、小さな声で呟く。
「明日は、冒険者ギルドへ行ってみるか」
◇ ◇ ◇
翌朝。
暮星城の鐘が七度鳴った頃には、街道はすでに多くの人で賑わっていた。
《灰鳩亭》の一階にある扉を開く。
外から差し込んだ朝日が、石畳の道を明るく照らしていた。
昨夜の冷気は、まだ完全には消えていない。
それでも街道沿いでは、パンを売る露店がすでに窯へ火を入れていた。
焼け始めた小麦の香りが、朝の空気に混ざって漂ってくる。
三人は中央通りを歩き始めた。
昼間の暮星城は、夜に見たときよりも遥かに広く感じられる。
通りには多くの人が行き交っていた。
大きな荷箱を背負う商人、馬車の手綱を引く御者、鎧を身につけて武器を持って歩く冒険者。
遠くにある鐘楼の影が、いくつもの屋根の上へ伸びていた。
通りの先から差し込む朝日が、宙を漂う細かな塵を金色に輝かせている。
イータは歩きながら、何度も周囲へ視線を向けていた。
「アーガ様、冒険者ギルドとは、どのような場所なのですか?」
「依頼を受けて、達成すれば報酬をもらえる場所だ」
アーガは前を向いたまま答える。
「身分の登録もできる。それから、街の中で最も面倒事に巻き込まれやすい場所の一つでもある」
「どうしてですか?」
「自分は強いと思っている連中が、大勢集まっているからだ」
イータはしばらく考えたあと、首を傾げた。
「それなら、闘技場と少し似ているのですか?」
アーガの足が、一瞬だけ止まった。
リナもアーガの横顔へ視線を向ける。
短い沈黙のあと、アーガは再び歩き始めた。
「違う」
静かな声だった。
「闘技場は、人間を獣のように扱って見世物にする場所だ。冒険者ギルドなら、少なくとも自分で受ける依頼を選べる」
「なるほど……」
イータは完全には理解していない様子だったが、とりあえずうなずいた。
◇ ◇ ◇
二つの交差点を越えたところで、目的の建物が見えてきた。
冒険者ギルドは、周囲に並ぶ商店よりも一回り大きかった。
正面玄関の上には、厚い木板で作られた看板が掲げられている。
刻まれているのは、剣と盾が交差した紋章。
縁は長年の風雨に晒され、少しずつ削れていた。
それでも、遠くから見てすぐに分かるほど目立っている。
入り口には、多くの人が出入りしていた。
獣皮の外套をまとい、背中に長弓と矢筒を背負った狩人。
鎖帷子を身につけ、乾ききっていない泥を長靴につけた冒険者。
商隊の護衛たちは数人で集まり、荷物の一覧が書かれた紙を確認している。
その中には、貴族に仕えていると思われる私兵の小隊までいた。
「黒槌町とは、まったく違いますね」
リナが小さな声で言った。
「ああ」
アーガはうなずく。
黒槌町の市場は、騒がしく、荒々しかった。
人々の欲望が、そのまま地面へ並べられ、大声で売り買いされているような場所だった。
それに比べて、暮星城の冒険者ギルドには一定の秩序がある。
この街は、黒槌町よりも遥かに上品だ。
そして、遥かに複雑でもある。
アーガは正面の扉を押し開けた。
◇ ◇ ◇
建物へ入った瞬間。
木材、酒、革、そして金属。
それらが混ざり合った独特の匂いが、三人を迎えた。
ギルドの大広間は、外から見た印象以上に広かった。
正面には長い受付台が設置され、その奥では何人もの職員が書類を整理している。
左側の壁は、すべて依頼掲示板になっていた。
大量の羊皮紙が隙間なく貼りつけられている。
依頼の難易度は、羊皮紙の色と押されている印章によって分けられているようだった。
右側には、いくつもの長机が並んでいる。
多くの冒険者が椅子へ腰掛けていた。
麦酒を飲む者、布を使って武器を磨く者、地図を広げて小声で依頼の道順を相談する者。
広間の中央には、一つの大きな石碑が立っている。
そこには、冒険者ギルドで使用される等級が刻まれていた。
G、F、E、D、C、B、A。
Aより上には、さらに特別な称号が存在するらしい。
だが、石碑には詳しい説明は書かれていなかった。
最下部に、小さな文字が一行だけ刻まれている。
『特殊等級は、王国冒険者総本部によって認定される』
イータは石碑を見上げ、目を輝かせていた。
「すごい人の数です……」
一方、リナの視線は広間の隅や扉へ向けられている。
無意識のうちに、逃げ道や周囲の危険を確認しているのだろう。
アーガは受付台へ歩いていった。
受付の奥に座っていたのは、二十代ほどの茶髪の女性だった。
丸い縁の眼鏡をかけている。
彼女は依頼書の束を整理していたが、三人の足音に気づくと顔を上げた。
仕事用の穏やかな笑みを浮かべる。
「暮星城冒険者ギルドへようこそ。三名様は、依頼の申し込みでしょうか? それとも、冒険者登録をご希望ですか?」
「登録だ」
アーガは答えた。
「三人とも頼む」
「かしこまりました」
受付嬢は棚から三枚の用紙を取り出し、受付台の上へ並べた。
「冒険者登録は初めてでしょうか?」
「ああ」
「では、こちらへお名前、年齢、得意とする能力をご記入ください」
受付嬢は用紙の下側を指さす。
「それから、固定パーティーを結成するかどうかも選んでいただきます。固定パーティーとして登録する場合は、パーティー名も必要です」
アーガは羽根筆を受け取った。
名前を書こうとしたところで、その手が止まる。
「パーティー名?」
「はい」
受付嬢がうなずいた。
「固定パーティーで依頼を達成した場合、実績はパーティー名義で記録されます。今後の昇格や、複数人向けの依頼、パーティー限定の依頼を受ける際にも便利ですよ」
イータが目を瞬かせた。
「私たちにも、パーティー名ができるのですか?」
リナもアーガへ視線を向ける。
アーガは黙り込んだ。
そんなものを考えたことはなかった。
パーティー名。響きだけを聞けば少し面倒で、どこか子供っぽい。
だが、登録に必要だと言われた以上、空欄のまま提出するわけにもいかない。
そのとき、アーガの脳裏に前世の記憶にある一つの言葉が浮かんだ。
この世界では使われていない、奇妙でありながら、どこか懐かしい名前。
それを思い出しただけで、なぜか少し笑いたくなった。
アーガは羽根筆を動かし、パーティー名の欄へ文字を書き込んだ。
隣から覗き込んだリナが、その文字をゆっくりと読み上げる。
「仮面……戦隊?」




