第144話 暮星城
夏の風が、荒野の果てから吹いてくる。
日差しに乾かされた草葉の匂いが、風の中に混じっていた。
道の両側には、背の高い野草が生い茂っている。
荷車の轍は深く土へ刻まれ、そのまま遠方まで続いていた。
アーガは、三人の先頭を歩いている。
風が吹くたび、外套の裾が僅かに持ち上がった。
その後ろには、小さな荷物を背負ったリナ。
さらに隣では、木の棒を抱えたイータが歩いている。
イータの白い耳は、右を向いたかと思えば、すぐに左へ向く。
風に混じる小さな音さえ、聞き逃したくないようだった。
三人は、すでに長い時間歩き続けていた。
陌狼村を離れてから、道は少しずつ広くなっている。
最初のうちは、道沿いに点在する木造家屋や畑を見ることができた。
しかし、進むにつれて畑も減っていき、今では起伏のある丘陵と、遠方に浮かぶ山影だけが残っている。
それは、どこまでも連なる巨大な山脈だった。
灰青色の壁のように、天地の間を横切っている。
山麓は夏の薄い霧に覆われ、細かな景色までは見えない。
上へ行くほど、その色は濃くなっていく。
だが、最も高い山頂だけは、反対に目が眩むほど白く輝いていた。
頂上には分厚い雪が積もり、太陽の光を受け、冷たい輝きを放っている。
イータが突然、足を止めた。
顔を上げ、長い間、その山を見つめる。
「アーガ様」
「何だ?」
「今は、夏ですよね?」
「夏だな」
「それなのに、あの山には、どうして雪があるんですか?」
アーガも、イータの視線を追って遠方を見る。
最も高い雪峰までは、実際にはかなりの距離があった。
暮星城のすぐそばにそびえている山ではない。
ただ、あまりにも高かった。
手前にある低い山々も、その周囲を覆う雲や霧も越え、白い刃のような山頂だけが静かに空へ突き立っている。
「高いからだ」
アーガは答えた。
「高い場所ほど、気温は低くなる。山の麓が夏でも、頂上には一年中雪が残ることもある」
「一年中……」
イータは小さく繰り返した。
尾が、ゆっくりと左右へ揺れる。
「すごいです」
リナも顔を上げ、遠くの雪峰を見つめていた。
イータのように声を上げることはない。
ただ、静かにその景色を目へ焼きつけている。
風に吹かれた金色の髪が、頬へかかった。
リナは片手で髪を耳の後ろへ掛ける。
深青色の瞳の中に、遠くにある白い山頂が映り込んでいた。
「私も、このような山を見るのは初めてです」
小さな声で言った。
アーガは、リナを一度見た。
彼女は以前、赤骸城の奴隷商人が用意した檻の中へ閉じ込められていた。
その後も、アーガとともに休む暇もなく旅を続けている。
鉱山、闘技場、荒れ果てた辺境の村、黒槌町の混乱した市場。
様々な場所を見てきた。
だが、これほど広く開けた山脈と、夏にも雪を抱く高峰を見るのは初めてなのだろう。
イータは言うまでもなかった。
その目はずっと輝いている。
遠くにあるものすべてを、一つ残らず瞳へ収めようとしているようだった。
◇ ◇ ◇
夕方。
暮星城が、ついに三人の前へ姿を現した。
黒槌町とは比べものにならないほど、大きな都市だった。
巨大な城壁が、平原に沿って緩やかに左右へ広がっている。
積み重ねられた分厚い石は、夕日に照らされ、暗い金色へ染まっていた。
遠くから眺めると、沈黙した炎が町を一周しているようにも見える。
城壁の内側には、高さの異なる屋根が隙間なく並んでいた。
その屋根の群れから、数本の尖塔が高く突き出している。
塔の先端には細長い旗が掛けられ、風を受け静かに揺れていた。
さらに遠方には、連なる山々が変わらず空の下へ横たわっている。
金色の夕暮れが、暮星城の城壁へ降り注ぐ。
そして同時に、遠方の雪峰も照らしていた。
一方は温かく、もう一方は冷たい。
遠く離れた二つの景色が、まるで一枚の絵の中に同時に描かれているようだった。
イータの歩みが、自然と遅くなる。
「これが……暮星城」
その声は、とても小さかった。
何かを驚かせないよう、息を潜めているようにも聞こえる。
リナも道の端で立ち止まり、城壁を見つめた。
「大きいですね。赤骸城よりも、居心地がよさそうです」
イータが小さく付け加える。
アーガは、すぐには答えなかった。
赤骸城も大きな都市ではあった。
しかし、あの町の城壁は巨大な鉄の檻のようだった。
空気には常に血と焼けた土の匂いが染みついている。
通りを吹く風さえ、闘技場や鉱山の奥から流れてきたもののように感じられた。
暮星城は違う。
少なくとも、遠くから見える景色は清潔で静かだった。
どこか穏やかささえ感じられる。
城門の外には、入城を待つ者たちが列を作っていた。
荷物を積んだ商隊、狩猟弓を背負う冒険者、小さな荷車を押す農民。
城門の両側には衛兵が立っている。
身につけた鎧も、きちんと手入れされていた。
長槍をそばへ立て、静かに列を見張っている。
赤骸城の衛兵たちのような、近づくだけで不快になる悪意も感じられなかった。
「行こう」
アーガが言った。
「暗くなる前に、町へ入る」
三人は列へ加わり、城門へ向かって進んだ。
入城時の確認は、それほど厳しくなかった。
衛兵は三人の荷物を簡単に確認する。
続いて、イータの獣耳と尾へ目を向けた。
その視線は、ほんの少しだけ長く止まった。
だが、特に何かを言うことはなかった。
「どこから来た?」
「黒槌町の方角からです」
アーガが答える。
衛兵は手元の木板へ数文字を書き込んだ。
「暮星城へ来た目的は?」
「しばらく滞在します。その後は、さらに北へ向かう予定です」
「名前は?」
「ジャヤ」
アーガは答えた。
それから、背後にいる二人を示す。
「リナと、イータです」
衛兵は顔を上げ、リナとイータを順番に見る。
リナは僅かに頭を下げた。
イータは緊張した様子で、木の棒を強く抱き締めている。
白い耳は真っ直ぐに立ち、尾も硬く伸びていた。
しかし、衛兵は三人を止めることなく片手を振った。
「入っていい。最近は町に人が多い。騒ぎだけは起こすなよ」
アーガは頷いた。
「ありがとうございます」
三人は城門の下を通り抜けた。
城壁の内側へ入った瞬間、無数の音が一気に三人を包み込んだ。
通りは黒槌町よりも遥かに広い。
左右には商店と民家が隙間なく並んでいた。
軒下からは木製の看板が突き出している。
宿屋、仕立屋、武器店、薬剤店、パン屋。
そのほかにも、冒険者用品を示す印を掲げた店が何軒も並んでいた。
空気の中には、焼いた肉、麦酒、馬糞、香辛料、そして一日中日差しを浴びて熱くなった石畳の匂いが混ざっている。
決して清涼な空気ではない。
だが、不快というほどでもなかった。
少なくとも、赤骸城に染みついていた消えることのない血の臭いはない。
イータは、どこを見ればよいのか分からないほど周囲へ目を向けていた。
「アーガ様、あれは何ですか?」
「高級魔法灯だ」
「では、あちらは?」
「乾燥果実を売っている屋台だな」
「あの赤い服の人は、何をしているんですか?」
「おそらく、路上芸人だ」
アーガは道端で一度足を止めた。
小さな屋台で、焼いた平パンと蜂蜜を絡めた乾燥果実をいくつか買う。
それを二人へ渡した。
「少し食べておけ」
イータは受け取ると、すぐに一口かじった。
その目が嬉しそうに細められる。
「甘いです!」
食べながら、そのまま前へ歩き始めた。
リナも乾燥果実を小さくかじる。
「美味しいですね」
アーガは特に答えず、そのまま先頭を歩いた。
通りは想像していた以上に安全だった。
あまりにも普通で、かえって三人とも少し落ち着かないほどだった。
イータは食べ歩きを続けている。
口元には僅かに砂糖の粉が付いていた。
完全に緊張が解けたらしい。
やがて、調子の外れた小さな鼻歌まで歌い始めた。
次の瞬間、その足元が不意に滑った。
「わあっ!」
イータの身体が前方へ大きく傾く。
手に持っていた平パンと乾燥果実が、同時に宙へ投げ出された。
そのまま石畳へ落ちようとする。
アーガが手を伸ばしかけた。
だが、その前に、横から伸びてきた片手が落下する食べ物を確実に受け止めた。
塵一つ付いていない。
イータは驚いたように瞬きをする。
そして顔を上げた。
そこに立っていたのは、緑色の髪を持つエルフ族の女性だった。
服装は飾り気のない淡い色の外衣。
しかし、その雰囲気はとても清らかだった。
長い髪は薄い緑色に銀色を混ぜたような色をしている。
日差しを受けると、僅かに透き通っているようにも見えた。
女性は身体を屈め、受け止めた食べ物をイータへ返した。
その動作は、とても穏やかだった。
「大丈夫ですか、小さなお嬢さん?」
柔らかな声だった。
イータは何度か目を瞬かせたあと、慌てて姿勢を戻す。
「だ、大丈夫です! ありがとうございます!」
緑髪のエルフは優しく微笑んだ。
「歩くときは気をつけてくださいね。この辺りの石畳は、時々緩んでいることがありますから」
「はい!」
イータは力強く頷いた。
そばに立っていたアーガは、その女性を一度見た。
攻撃的な雰囲気はない。
魔力を外へ放っている様子もなかった。
それでも、なぜかアーガはもう一度その姿へ目を向けた。
緑髪のエルフも、その視線へ気づいたらしい。
顔を上げ、アーガへ軽く頭を下げる。
笑みは最後まで自然なままだった。
そのまま背を向け、人の流れの中へ入っていく。
まるで、偶然そばを通りかかっただけの通行人のように。
イータは食べ物を改めて受け取り、今度は大切そうに両手で抱えた。
数歩進んだところで、ようやく安心したように息を吐く。
「さっきは驚きました……」
再び平パンを一口かじった。
すると、すぐに目を輝かせる。
もう完全に元気を取り戻したらしい。
「でも、あのお姉さん、とても優しかったです」
リナも振り返り、すでに人混みへ消えた緑色の後ろ姿を探した。
「そうですね……とても静かな雰囲気の方でした」
アーガは何も言わなかった。
ただ、通りの奥へ一瞬だけ目を止める。
その後、すぐに視線を戻した。
「行こう」
三人は再び通りを歩き始めた。
だが、アーガが先へ進もうとしたとき、城門の脇にある掲示壁が目へ入った。
壁には、新しく釘で打ちつけられた羊皮紙が十数枚並んでいる。
その前には何人かの通行人が集まり、紙を指差しながら何かを話していた。
「手配書ですか?」
イータが興味深そうに、つま先立ちになった。
三人は掲示壁へ近づく。
最も目立つ場所には、数枚の人相書きが貼られていた。
一枚目には、大きな文字でこう書かれている。
『指名手配――アーガ』
その下には、墨で描かれた少年の似顔絵があった。
アーガは二秒ほど黙って絵を見つめた。
そして、堪えきれずに笑い声を漏らす。
「……」
リナも呆気に取られていた。
絵の中の少年は、滅茶苦茶に乱れた黒髪をしている。
両目の大きさも違った。
顔は異常に細長く、目鼻は中央へ押し込まれたように歪んでいる。
下に名前が書かれていなければ、誰を描いたものなのかまず分からない。
その隣にも、数枚の手配書が並んでいた。
ロック、ケイス、さらに赤骸城から一緒に脱出したほかの者たち。
しかし、どの似顔絵も同じように酷い出来だった。
ロックの顔はまるで熊のように描かれている。
ケイスに至ってはさらに酷かった。
本来はそれなりに整っていた顔が、無数のあばたを持つ中年の男へ変えられている。
アーガは腕を組んだ。
笑いを堪えながら言う。
「赤骸城も、随分と動きが早いな」
赤骸城を脱出してから、まだ二十日ほどしか経っていない。
それにもかかわらず、手配書はすでに暮星城まで届いていた。
赤骸城が相当な労力を使っていることは間違いない。
だが、アーガはもう一度自分の人相書きを見た。
口元の笑みを、どうしても抑えることができない。
「心配する必要はなさそうだ」
似顔絵を指差す。
「これを見ても、俺だとは絶対に分からない」
イータは人相書きと、目の前にいるアーガを何度も見比べた。
そして、真剣な表情で頷く。
「まったく似ていません」
リナも思わず小さな笑みを浮かべた。
「似顔絵は……確かに、かなり実物と違いますね」
アーガは笑いながら首を振る。
「赤骸城には、まともに絵を描ける人間がいないらしい」
三人は顔を見合わせて笑った。
長い道のりで溜まっていた疲れも、その瞬間だけはかなり軽くなった。
「まずは宿を探すぞ」
アーガが言った。
「食事は、落ち着いてからだ」
「はーい……」
三人は主通りをしばらく進んだ。
明らかに料金が高そうな宿を何軒か避ける。
そして、少し静かな通りに入ったところで、飾り気のない看板を掲げた小さな宿屋を見つけた。
看板には『灰鳩亭』と書かれている。
アーガが扉を押し開けた。
帳場の奥には中年の女性が座っている。
俯いたまま帳簿の計算をしていた。
扉の音を聞き、女性は顔を上げる。
三人を一度見た。
その視線はイータの獣耳へ僅かに止まったが、すぐに離れた。
部屋を取ったあと、三人は階段を上がった。
木製の階段は、足を乗せるたび小さな軋み声を立てる。
廊下は広くない。
だが、掃除はそれなりに行き届いていた。
壁際には、少し萎れかけた鉢植えが一つ置かれている。
三階の一番奥にある部屋は、それほど大きくなかった。
扉を開ける。
中には二つの寝台、古びた木の机、三脚の椅子、そして通り側へ向いた一枚の窓があった。
窓を開くと、夕方の風が部屋の中へ流れ込んでくる。
リナは窓辺へ歩き、外に広がる暮星城を眺めた。
通りでは、魔法灯が次々と明かり始めている。
一つ、また一つ。
まるで、誰かが空から星を取り、軒先や通りの角へ掛けていくようだった。
遠方には、一つの時計塔が黒い輪郭となって見えている。
ほどなくして、低い鐘の音が一度響いた。
その音は、暮れ始めた町の中へ静かに広がっていった。




