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第142話 リナの想い

外を吹く夜風は、とても穏やかだった。


陌狼村の夜は、黒槌町のように騒がしくない。


遠くから時折聞こえてくる虫の声と。


見回りをする狼人族が、土の道を踏む足音。


木造家屋の間には、いくつかの松明が立てられている。


その炎が風を受け、静かに揺れていた。


アーガとリナは、村の外れにある小道を並んで歩いていた。


最初は、二人とも何も話さなかった。


リナは外套を羽織り、足元の道を見つめている。


歩く速度は遅い。


傷の手当ては済んでいたが、ふくらはぎにはまだ痛みが残っていた。


アーガはそれに気づき、自分も歩調を緩めた。


「傷はまだ痛むのか?」


リナは小さく首を横へ振る。


「もう、かなりよくなりました」


アーガはリナを一度見た。


「無理をするなよ」


リナは唇を軽く結ぶ。


「本当によくなりました」


小さな声で、もう一度答えた。


アーガはそれ以上追及せず、ただ小さく息を吐いた。


「今回は、よくやったな」


「えっ?」


リナの足が、僅かに止まる。


「グレイソンのことだ」


アーガは前を向いたまま言った。


「お前が上等魔晶石を取り戻してくれなければ、イータや子供たちは助からなかったかもしれない」


リナは顔を伏せる。


その声が、少しだけ小さくなった。


「でも、アーガ様もいろいろなことを考えていました」


「俺が?」


「はい」


リナは顔を上げ、アーガを見る。


「最初に魔晶鉱粉の異変へ気づいたことも」


「黒槌町へ行って、商会を調べたことも」


「リンタ村と陌狼村の人たちを、南門で待たせていたことも」


「アーガ様は、最初からすべて考えていたように見えました」


アーガは苦笑した。


「そんなに大したものじゃない」


「ほとんど、その場で賭けただけだ」


「でも、最後には成功しました」


「失敗寸前だったけどな」


アーガは前方の暗い道を見つめる。


「バルカンがもう少し強かったら」


「リーインが、もう少し早く動いていたら」


「俺たちは二人とも、黒槌町から出られなかったかもしれない」


リナは何も答えなかった。


外套の端を、指先でそっと握り締める。


夜風が二人の間を通り抜けた。


松明の光によって。


二人の影が、地面へ長く伸びている。


アーガが再び何かを話そうとしたとき。


リナが突然、足を止めた。


「リナ?」


次の瞬間。


リナは、そのままアーガの胸へ飛び込んだ。


アーガの身体が固まる。


リナは両手で、アーガの服を強く握っていた。


その肩が、小さく震えている。


最初は、僅かな嗚咽だけだった。


しかし。


やがて、抑えきれなくなった涙が次々と零れ始める。


「リナ……」


「怖かったです……」


リナはアーガの胸へ顔を埋めた。


声には、はっきりと涙が混じっていた。


「本当に、怖かったです……」


アーガは片手を上げた。


だが、どうすればよいのか分からず、しばらく宙で止まる。


やがて。


その手を、リナの頭へ優しく置いた。


それをきっかけに。


リナは、もう我慢しなくてよいと感じたのかもしれない。


涙はさらに激しく溢れ出した。


「初めて、一人で戦いました……」


「グレイソンの粘液魔法は、すごく厄介で……」


「攻撃も受けて……」


「脚も痛くて、腕も痛くて……」


言葉は、何度も途切れた。


「もし、私が負けたらどうしようって……」


「魔晶石を取り戻せなかったら、アーガ様はどうなるんだろうって……」


「イータは……」


「子供たちは、どうなるんだろうって……」


アーガは何も言わず、静かに聞いていた。


リナが泣きすぎて、上手く息を吸えなくなり始める。


そこでようやく。


アーガは、その髪を優しく撫でた。


「お前は、もう十分すぎるほど頑張った」


リナはアーガの服をつかんだまま、離そうとしない。


アーガは低い声で続ける。


「初めて一人で遊侠級の魔法使いと戦って」


「それでも勝って、上等魔晶石まで持ち帰ったんだ」


「十分にすごい」


「本当ですか?」


リナは鼻を小さくすすった。


「本当だ」


アーガは一度言葉を止める。


そして。


少し考えてから付け加えた。


「俺が思っていたより、ずっとすごかった」


リナの肩は、少しずつ震えなくなっていった。


顔を上げる。


目元には、まだ涙の跡が残っている。


深青色の瞳も。


松明の光を映し、濡れたように輝いていた。


アーガはその顔を見て、思わずため息をつく。


「ほら」


「ずっと立っているのもよくない」


「向こうに石の台がある。少し座ろう」


リナは素直に頷いた。


二人は村の外れに置かれた、低い石台のそばへ歩いていく。


木柵に近い場所だった。


その向こうには。


闇に沈んだ森林が広がっている。


夜は深く。


黒い木々の影が、風に合わせて静かに揺れていた。


◇ ◇ ◇


少し離れた木造家屋の裏側。


ケインとイータが、揃って身を屈めていた。


イータの耳は、真っ直ぐ上へ立っている。


その顔には、緊張がはっきりと浮かんでいた。


「ケインさん……」


声を限界まで抑える。


「やっぱり、こんなことをするのはよくないですよ」


ケインも小声で答えた。


「しっ。声が大きい」


「でも、アーガ様とリナお姉ちゃんを覗くなんて……」


「これは、人間同士の交流を観察しているんだ」


ケインは真剣な表情で言った。


「とても重要なことだ」


イータは何度か瞬きをする。


「そうなんですか?」


「もちろんだ」


ケインは石台の方角を見る。


その口元が、僅かに持ち上がった。


「それにしても」


「あの二人は、本当に仲がいいな」


イータも、その視線を追った。


白い耳が、小さく動く。


◇ ◇ ◇


石台のそば。


リナはアーガの隣へ座っていた。


涙はすでに止まっている。


袖で目元を拭いながら。


少し恥ずかしそうに顔を伏せていた。


「アーガ様」


「ん?」


リナは顔を上げた。


先ほどよりも、少し明るい声で尋ねる。


「私、すごかったですよね?」


アーガは一瞬呆気に取られた。


だが、すぐに笑う。


「ああ。すごかった」


リナの瞳が、少しだけ輝いた。


「それなら……」


わざと、言葉を長く伸ばす。


「ご褒美をいただいてもいいですか?」


アーガは、すぐには意味を理解できなかった。


「ご褒美?」


「はい」


リナは頷く。


その目で、真っ直ぐアーガを見つめた。


「今回はとても頑張りましたし」


「上等魔晶石も取り戻しました」


「だから、少しだけご褒美が欲しいです」


アーガは、少しおかしそうに笑った。


「何が欲しいんだ?」


リナはすぐに答えなかった。


身体を、僅かに前へ寄せる。


「先に、約束してください」


アーガはリナを見つめた。


目の前の少女は、まだ顔色が少し青白い。


目元にも。


拭いきれていない涙の跡が残っている。


悪いことを企んでいるようには見えなかった。


むしろ。


菓子を欲しがる子供のように見える。


アーガはリナを警戒していなかった。


これまでずっと、自分のそばにいた少女だ。


何か裏の意図があるとも考えていない。


アーガは笑いながら頷いた。


「分かった」


「約束する」


リナの心臓が、大きく跳ねた。


アーガの顔を見つめる。


松明の光が、その輪郭を柔らかく照らしていた。


身体には、まだ多くの傷が残っている。


目元にも、疲労が浮かんでいた。


それでも。


アーガはこうして、リナを慰めるために隣へ座っている。


リナは、ふと赤骸城のことを思い出した。


汚れた奴隷市場。


そこで。


アーガが自分を買った日のこと。


リナは、ずっと分かっていた。


アーガが自分を買った理由は。


単純に、可哀想だと思ったからだけではないのかもしれない。


自分は騎士長の娘。


リサ・ベルマンの妹でもある。


王城へ戻り。


父や姉と会うことができれば。


アーガはきっと、自分をベルマン家へ返すのだろう。


それが、最も正しい選択だった。


リナも本来なら。


父と姉のもとへ帰るべきなのだ。


それでも。


リナは視線を伏せた。


指先で、外套の端を強く握る。


帰りたくない。


今はただ。


ずっとアーガのそばにいたかった。


この先。


同じような機会があるかは分からない。


アーガがいつか突然。


自分を家族のもとへ送り返してしまうかもしれない。


だから。


せめて今だけは。


この瞬間だけは。


リナは顔を上げた。


アーガの唇を見る。


心臓の鼓動が、ますます速くなっていく。


周囲の風の音さえ。


もう、ほとんど耳に入らなかった。


アーガはリナの視線に気づき、僅かに首を傾げる。


「リナ?」


次の瞬間。


リナはアーガの服の端をつかんだ。


そのまま身体を前へ傾ける。


柔らかな感触が。


アーガの唇へ重なった。


アーガの頭の中が。


一瞬で真っ白になった。


◇ ◇ ◇


木造家屋の裏側。


ケインが目を大きく見開く。


イータも、その場で完全に固まった。


白い耳が。


――ピンッ!


と音が聞こえそうなほど、真っ直ぐ立ち上がる。


顔も一瞬で赤く染まった。


「リ、リナお姉ちゃ――!」


ケインは慌てて、その口を塞いだ。


「しーっ!」


◇ ◇ ◇


石台のそば。


アーガの身体は、完全に固まっていた。


リナがゆっくりと離れてから。


ようやく、呼吸の仕方を思い出したように息を吸う。


リナの顔も、真っ赤になっていた。


それでも。


逃げようとはしない。


顔を上げ。


輝く瞳で、アーガを見つめている。


まるで。


とても大切なことを、ついに成し遂げたかのようだった。


アーガは勢いよく立ち上がった。


「リナ、お前……」


顔を横へ向ける。


耳まで僅かに赤くなっていた。


「何をしているんだ?」


リナは石台に座ったまま。


両手を、行儀よく膝の上へ置いている。


声は、とても小さかった。


「アーガ様が、いいと言ったではありませんか」


アーガはリナを見下ろした。


リナも顔を上げたまま、アーガを見つめ返す。


その瞳には。


恥ずかしさ。


緊張。


そして。


決して引き下がろうとしない、僅かな頑固さが浮かんでいた。


アーガは、何かを言おうとした。


だが。


口元まで出かかった言葉を、結局飲み込む。


最後には。


深く息を吸い、どうにか一言だけ告げた。


「今回だけだからな」


リナは一瞬、目を見開いた。


その直後。


表情が、一気に明るくなる。


「はい!」


アーガは顔を逸らしたまま、小さく咳払いをした。


「もう戻るぞ」


「まだ傷も治っていないんだ」


「夜風に当たりすぎるのはよくない」


「はい」


リナは石台から立ち上がる。


そして、ごく自然にアーガの腕へ手を回した。


いつものように。


身体を少し近づける。


二人は、来たときと同じ小道を歩いて戻り始めた。


リナの機嫌は、明らかによくなっている。


泣いたあとの目元は、まだ少し赤い。


それでも。


口元には、ずっと笑みが浮かんでいた。


「アーガ様」


「今度は何だ?」


「何でもありません」


「何でもないなら、何度も呼ぶな」


「でも、呼びたいです」


「……」


「アーガ様」


「また呼んだな」


「はい」


二人の声が。


少しずつ遠ざかっていく。


◇ ◇ ◇


木造家屋の裏側。


ケインはようやく、イータの口から手を離した。


イータの顔は、まだ真っ赤だった。


白い耳も、何度も細かく震えている。


「ケ、ケインさん……」


「さっきのは……」


ケインは顎へ手を当てる。


その表情は、とても複雑だった。


しばらく考えてから。


最後には、意味深な笑みを浮かべる。


「人間というのは、本当に面白いな」


イータは自分の足元を見た。


それから。


アーガとリナが去った方角へ視線を向ける。


尾が、無意識に僅かに揺れた。


「リナお姉ちゃん……」


「すごいです」


ケインは危うく、声を上げて笑いそうになった。


「それは確かにな」


そして。


イータの肩を軽く叩く。


「ほら、戻るぞ」


「早くしないと、覗いていたことがばれる」


「えっ?」


イータは目を瞬かせる。


「でも私たちは、二人が迷わないか心配していたのでは?」


ケインの足が、一瞬止まった。


「……そうだ」


「そのために来た」


二人は、こっそりと木造家屋の裏から離れていく。


一方。


リナはすでにアーガの腕へ身体を寄せたまま。


楽しそうに笑いながら。


彼とともに、家屋の明かりの中へ入っていった。


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