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第141話 回復

「生きています」


そう言い終えた直後。


リナの身体は、ついに限界を迎えた。


どうにか立ち続けようとしたものの、足から力が抜ける。


そのまま。


全身がアーガの胸元へ倒れ込んだ。


「リナ!」


アーガは慌てて、その身体を抱き止める。


リナの呼吸は浅かった。


目も、すでに閉じている。


完全に意識を失ったわけではない。


ここまで無理を重ねてきたことで。


精神も肉体も、限界まで消耗していたのだ。


アーガは青白いリナの顔を見下ろし、強く眉を寄せた。


「無理をするなよ……」


小さく呟く。


それから、リナの背中と膝裏へ腕を回し、その身体を横抱きにした。


そこへ。


イータも駆けつけてきた。


アーガに抱えられたリナの姿を見た瞬間。


その白い耳が、力なく垂れ下がる。


「リナお姉ちゃん、どうしたんですか?」


「疲れすぎただけだ」


アーガは答えた。


「傷の手当ても、まともにできていない」


「まずは休ませよう」


リナを抱えたまま家屋へ入り、寝台の上へ慎重に寝かせる。


ほどなくして。


キャサリンが清潔な布と薬草を持ってきた。


リナの身体に巻かれていた応急処置用の布を外し、改めて傷の手当てを始める。


アーガは、その隣に立っていた。


《粘液弾》によって穿たれた傷。


強引に動き続けたことで開いた傷口。


それらを見つめる表情は、ずっと険しいままだった。


「アーガ様……」


イータが、小さな声で呼びかける。


アーガは我に返り、彼女へ視線を向けた。


「イータ」


「リナのことを見ていてくれるか?」


イータはすぐに大きく頷いた。


「はい!」


「リナお姉ちゃんのことは、私がちゃんと看ます!」


アーガは手を伸ばし。


イータの髪を、優しく撫でた。


「頼んだ」


イータの耳が、僅かに揺れる。


その表情が、真剣なものへ変わった。


「任せてください」


◇ ◇ ◇


リナを休ませたあと。


アーガは家屋の外へ出た。


村の入口付近では。


トムと陌狼村の族長が、向かい合って話していた。


二人の間には、どこか微妙な空気が流れている。


トムは相変わらず、寡黙な老人だった。


背中は僅かに曲がり。


朝日に照らされた顔には、深い皺が刻まれている。


対する陌狼村の族長は、背筋を真っ直ぐに伸ばしていた。


大柄な身体で老人を見つめる目には、複雑な感情が浮かんでいる。


少し前まで。


二つの村は、誤解と戦斧商会の扇動によって、本当に争いを始めようとしていた。


すべての真相が明らかになった今。


かえって、何を言えばよいのか分からないようだった。


先に口を開いたのは、トムだった。


「事情は、すべて分かった」


声は大きくない。


だが、落ち着いていた。


「陌狼村が俺たちを害そうとしていたわけじゃない」


「リンタ村も、お前たちを害そうとしていたわけじゃない」


「すべて戦斧商会が、裏で仕組んだことだった」


族長はしばらく黙っていた。


やがて、小さく頷く。


「こちらも、きちんと調べていなかった」


トムは片手を振った。


「俺たちも同じだ」


遠くの森へ目を向ける。


そして、ゆっくりと続けた。


「村へ戻ったら、今回のことを族長へ伝える」


「真相は、もう皆が知っている」


「数日もすれば、こちらの族長も人を寄越すだろう」


陌狼村の族長は、黙ってトムを見ていた。


トムが再び口を開く。


「これからは、うまくやっていこう」


族長の目が、僅かに揺れた。


少しの沈黙のあと。


力強く頷く。


「ああ」


二人が交わした言葉は、それほど多くなかった。


だが。


この二人にとっては、それだけで十分だった。


少し離れた場所で話を聞いていたアーガも。


胸の奥で、静かに息を吐いた。


少なくとも。


リンタ村と陌狼村の間にあった誤解は、これで解けた。


◇ ◇ ◇


トムは、すぐに村を出る準備を始めた。


馬車は村の入口に止められている。


車輪には、黒槌町から急いで走ってきた道中の泥が、まだ大量に付着していた。


トムが馬車へ向かい、御者台へ乗ろうとしたとき。


アーガが、その背中を呼び止める。


「トムさん」


トムが振り返った。


アーガは正面から老人を見る。


「リナを助けてくれて、ありがとうございました」


トムはアーガを一度見た。


それから。


リナが休んでいる家屋の方角へ視線を向ける。


「あの娘も、自分で必死に生き延びた」


そう言ってから。


僅かに間を置いた。


「だが、これからは」


「あまり若い娘一人に、あんな危険なことをさせるな」


アーガはしばらく沈黙した。


「分かっています」


続いて。


懐から、数枚の折り畳まれた紙を取り出した。


紙の端は、少し皺になっている。


長い間、アーガが身につけたまま持ち歩いていたのだろう。


そこには。


戦斧商会と衛兵隊長リーインとの取引記録が、書き写されていた。


賄賂を受け取った者の名前。


そして、渡された金額。


トムは紙へ目を落とし、眉を寄せる。


「これは……」


「リーインが賄賂を受け取っていた証拠です」


アーガは答えた。


「最初は、これを使ってあの男を牽制するつもりでした」


「ですが、少し甘く考えすぎていたようです」


黒槌町の方角を見る。


その目が、冷たく細められた。


「リーインは、すぐに商会に残っている原本を処分するはずです」


「黒槌町の衛兵隊も信用できません」


トムは証拠の紙を受け取った。


その表情も、次第に険しくなる。


アーガは続けた。


「リンタ村へ戻ったら、これを族長へ渡してください」


「その後、村の人に機会を見つけてもらい」


「暮星城まで届けてほしい」


「黒槌町を本当に取り締まれる立場の人間へ」


トムはすぐには返事をしなかった。


手の中にある証拠を、静かに見下ろす。


やがて。


丁寧に紙を折り畳み、懐へ収めた。


「必ず届ける」


アーガは頷いた。


トムはそれ以上何も言わず。


御者台へ上がった。


手綱を握りながら、アーガを見る。


「戻って、少し眠れ」


「お前も、今にも倒れそうな顔をしている」


アーガは苦笑した。


「確かに」


トムは片手を軽く上げる。


そのまま馬車を走らせ、陌狼村をあとにした。


アーガは村の入口に立ち。


馬車が少しずつ遠ざかるのを見送る。


やがて。


林の中へ続く道の奥に、その姿が完全に消えた。


そこでようやく。


アーガも家屋へ戻った。


◇ ◇ ◇


本当に、疲れ切っていた。


黒槌町での戦闘。


夜通しの移動。


そして。


子供たちへの解毒。


アーガは、ほとんど一度も休んでいない。


全身の傷は青カード1《治癒体》によって、どうにか悪化を防いでいる。


しかし。


肉体と精神に蓄積した疲労までは、簡単には消えなかった。


家屋へ戻ったアーガは。


イータと数言話す暇すらなく。


隣に置かれていた小さな寝台へ倒れ込んだ。


そして。


そのまま深い眠りへ落ちた。


◇ ◇ ◇


再び目を覚ましたとき。


外は、すでに夜になっていた。


家屋の中には油灯が灯されている。


薄暗い橙色の光が木壁を照らし、部屋全体を静かな雰囲気で包んでいた。


アーガは何度か瞬きをする。


しばらくの間。


自分がどこにいるのかさえ理解できなかった。


「起きたか?」


すぐそばから、ケインの声が聞こえる。


アーガが顔を向ける。


ケインは椅子へ身体を預け、片手に木製の杯を持っていた。


寝台の脇には、イータも座っている。


白い耳は朝よりも元気に立ち。


尾も小さく左右へ揺れていた。


そして。


反対側にある寝台には、リナが背中を預けて座っている。


顔色はまだ少し青白い。


だが。


すでに意識を取り戻していた。


「アーガ様!」


目を覚ましたことに気づき。


イータがすぐに近くへ寄ってくる。


リナも、柔らかな笑みを浮かべた。


「ようやく、お目覚めになりましたね」


アーガは寝台へ手をつき、ゆっくりと身体を起こす。


重く感じる額を片手で揉んだ。


「どれくらい眠っていた?」


「朝から今までだ」


ケインが答える。


そして、木杯へ口をつけながら笑った。


「人間」


「今回は、よくやったな」


アーガはケインを見た。


「お前が人を褒めるなんて、珍しいな」


ケインは鼻を鳴らす。


「俺だって、道理くらいは分かる」


「子供たちを助けて、あのクズのブラクまで引きずり出したんだ」


「それくらいは褒めて当然だろ」


イータも、何度も大きく頷く。


「アーガ様は、本当にすごいです!」


リナも静かに口を開いた。


「今回、アーガ様がいなければ」


「事態は、もっと悪い方向へ進んでいたと思います」


アーガは片手を振る。


「俺一人で全部やったように言うな」


リナへ視線を向ける。


「お前も、随分無茶をしただろ」


リナは僅かに顔を伏せた。


だが。


口元には、抑えきれないような小さな笑みが浮かんでいる。


「はい」


その後。


四人はしばらく、簡単に言葉を交わした。


イータは。


目覚めてから随分と具合がよくなったが、まだ身体に力が入りにくいと話した。


ケインによれば。


中毒していた子供たちも、全員が目を覚ましたらしい。


族長は今。


それぞれの家族へ事情を説明し、落ち着かせている。


ブラクは拘束されたまま牢へ入れられ。


これから族長自身が、詳しい事情を問いただすという。


すべてを聞いたアーガは、静かに頷いた。


少なくとも。


この村で起きていた問題は、ひとまず解決した。


そのとき。


リナが、アーガへ視線を向けた。


「アーガ様」


「どうした?」


リナは掛け布の端を、指先で軽くつまんでいた。


その声は。


普段よりも少しだけ小さい。


「外で、少しお話ししませんか?」


アーガは一瞬、呆気に取られた。


「今から?」


「はい」


リナが顔を上げる。


油灯の光を映した深青色の瞳は。


とても静かだった。


「少しだけで構いません」


アーガはリナの様子を確認する。


ある程度は回復しているように見えた。


「分かった」


そう答え。


寝台から降りようとする。


すると。


イータも、すぐに立ち上がった。


「それなら、私も一緒に行きます!」


しかし。


リナが片手を伸ばし、彼女の前を遮った。


イータは目を瞬かせる。


「リナお姉ちゃん?」


リナはイータへ身体を向け。


人差し指を唇の前へ立てた。


「しーっ」


イータは、その場で固まった。


リナは小さく微笑む。


「今回は」


「アーガ様と二人で歩かせてください」


イータは首を傾げた。


「えっ?」


どういう意味なのか、まるで理解できていない様子だった。


アーガは立ち上がる。


「それじゃあ、行こうか」


「はい」


リナは外套を肩へ掛ける。


そして。


アーガのあとに続き、家屋の外へ出た。


木の扉が、静かに閉じる。


室内に。


僅かな沈黙が訪れた。


閉じられた扉を眺めていたケインが。


突然、意味深な笑みを浮かべる。


「へえ……」


「面白くなってきたな」


イータがケインへ顔を向ける。


「何が面白いんですか?」


ケインは木杯を机へ置き。


椅子から立ち上がった。


「あとをつけてみるか?」


イータの目が大きく見開かれる。


「えっ?」


「駄目ですよ、そんなの……」


「何が駄目なんだ?」


ケインは、すでに扉の前まで歩いていた。


「俺はただ」


「夜の村で、あの二人が迷わないか心配なだけだ」


イータは小さな声で言った。


「でも、アーガ様は……」


「ほら、行くぞ」


ケインは、それ以上迷う時間を与えなかった。


イータの腕をつかみ。


半ば引きずるようにして、外へ連れ出す。


「えっ? ちょっと待ってください……」


イータは慌てながら、声を押し殺した。


「本当に、こんなことをしていいんですか?」


ケインは歯を見せて笑った。


「もちろんだ」


そう言い終える頃には。


すでにイータを連れ。


アーガとリナのあとを、こっそり追い始めていた。


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