第140話 解毒
アーガは馬車の荷台へ座り、腕の中に抱えた木箱を見下ろした。
蓋を開く。
中には、幽青色に輝く上等魔晶石が静かに収められていた。
アーガは迷うことなく、魔晶石を口へ入れて飲み込んだ。
続いて、カードケースから一枚のカードを取り出す。
青カード5《浄化场》。
魔晶石から溢れた幽青色の光が、ゆっくりとカードの中へ流れ込んでいく。
カード表面に刻まれた紋様が、一筋ずつ輝き始めた。
薄暗かった青色も、次第に深く鮮やかな色へ変わっていく。
全身を襲う痛みによって、アーガの手は絶え間なく震えていた。
「早くしろ……」
低い声で呟く。
馬車は、夜道をひたすら疾走していた。
冷たい夜風が荷台へ吹き込み、露出した傷口から体温を奪っていく。
アーガは荷台の壁へ背中を預けた。
青カード1《治癒体》で傷の悪化を抑えながら、上等魔晶石の力を《浄化场》へ注ぎ続ける。
二人の狼人族は、何も尋ねなかった。
ただ、必死に馬を走らせている。
道は激しく揺れた。
馬車が窪みを踏むたび、アーガの身体が荷台から投げ出されそうになる。
そのたびに歯を食いしばり、痛みに耐えた。
やがて。
東の空が、僅かに灰白色へ染まり始める。
遠方に、陌狼村の輪郭が見えてきた。
◇ ◇ ◇
まだ夜が明けきらない頃。
馬車が勢いよく陌狼村へ飛び込んだ。
村の入口を守っていた戦士たちが、すぐに目を覚ます。
「アーガだ!」
その声を聞き。
族長と数人の隊長たちも、急いで駆けつけてきた。
馬車から降りたアーガの姿を見た瞬間。
族長の顔色が変わった。
「その傷はどうした?」
アーガは馬車の縁へ手をつき、どうにか身体を支える。
「その話はあとだ」
「まず、子供たちとイータを助ける」
族長の表情が険しくなった。
しかし、それ以上は何も尋ねなかった。
「ついてこい」
一行はすぐに、中毒した子供たちが収容されている木造家屋へ向かった。
扉を開いた瞬間。
重く淀んだ臭いが、アーガの鼻を突く。
数人の獣人の子供たちが、今も寝台の上へ横たわっていた。
顔色は青黒い。
呼吸も弱く、胸が僅かに上下しているだけだった。
一番奥には、イータの姿がある。
白い耳は力なく垂れ下がり。
普段なら絶えず動いている尾も、完全に止まっていた。
その姿を見た瞬間。
アーガの胸が、何かに強く押し潰されたように痛んだ。
だが。
今は立ち止まっている時間などない。
アーガは部屋の中央へ立った。
青いカードを、正面へ掲げる。
「青カード5――《浄化场》」
足元から、青い光が広がった。
薄い水面のような光が床の上を滑り、瞬く間に部屋全体を覆っていく。
子供たちの身体に残っていた幽青色の毒素が、青い光へ引き寄せられた。
皮膚。
口元。
そして、吐き出される息。
あらゆる場所から、毒が少しずつ体外へ抜け出していく。
魔晶鉱粉によって生じた濁った力は、青い光の中で黒青色の小さな粒子へ変化した。
そして。
《浄化场》によって、一粒ずつ分解されていく。
族長と隊長たちは、言葉を失ったまま光景を見つめていた。
ケインが思わず呟く。
「すごい……」
アーガの額には、冷たい汗が浮かんでいた。
声も掠れている。
「簡単な毒を取り除けるだけだ」
青い光が、さらに強くなる。
「毒がもっと強かったり……」
「すでに身体そのものが深く傷ついていたりすれば、症状を和らげることしかできない」
そうは言っても。
子供たちの顔色は、目に見えて回復していた。
青黒く変色していた肌に、少しずつ血色が戻っていく。
イータの弱々しかった呼吸も。
次第に安定してきた。
アーガは、最後の一人から毒素が完全に取り除かれるまで《浄化场》を維持した。
そして。
すべてが終わった瞬間。
その場へ力なく倒れ込んだ。
部屋を覆っていた青い光が消える。
キャサリンはすぐに眉を寄せ、アーガを見下ろした。
「それで?」
「どうしてあなたは全身傷だらけなの?」
アーガは、しばらく黙っていた。
やがて、黒槌町で起きたことを簡単に説明し始める。
戦斧商会。
魔晶鉱粉。
グレイソン。
バルカン。
リーイン。
そして。
戦斧商会がリンタ村と陌狼村の対立を煽っていたこと。
話が進むにつれて。
室内の空気が、少しずつ冷たくなっていく。
第二隊長ブラクの表情も、目に見えて険しくなった。
他の隊長たちの視線が。
ゆっくりと、ブラクへ向けられる。
アーガは懐へ手を入れ、一通の手紙を取り出した。
そのまま、近くの机へ置く。
「これは、戦斧商会で見つけたものだ」
「今回の毒は、おそらくブラクが商会へ持ちかけ、商会の人間に仕込ませた」
族長が手紙を取り、内容を確認する。
数行読んだだけで。
その表情が、完全に沈んだ。
室内が、恐ろしいほど静かになる。
ブラクの喉が動いた。
「あり得ない……」
無理やり声を絞り出す。
「偽物だ」
「そいつが作った偽の手紙に決まっている!」
アーガは椅子の背へ身体を預けていた。
弱々しい声で告げる。
「無駄だ」
ブラクがアーガを見る。
アーガは、ゆっくりと顔を上げた。
「戦斧商会は、もう終わった」
「お前を守る者は、どこにもいない」
ブラクの表情が、一瞬で歪んだ。
次の瞬間。
「貴様ァ!」
床を蹴り、突然アーガへ襲いかかる。
その身体は、砲弾のような速度で飛び出した。
鋭い爪が。
アーガの喉元へ迫る。
今のアーガには、回避する力が残っていない。
それでも。
動こうとはしなかった。
すでに族長が、正面へ立っていたからだ。
――ガシッ!
族長の片手が、ブラクの手首をつかむ。
同時に。
強烈な威圧感が、室内全体へ広がった。
ブラクの顔色が変わる。
腕を引き抜こうとしたが、まったく動かない。
族長は一歩踏み込み。
肩をブラクの胸へ叩きつけた。
――ドンッ!
ブラクの身体が、後方へ吹き飛ぶ。
背中から木壁へ激突し、壁面に大きな亀裂が走った。
ブラクは呻きながら、起き上がろうとする。
しかし。
すでに族長が、目の前まで迫っていた。
その胸を、片足で強く踏みつける。
「ブラク」
族長の声は低かった。
怒鳴ってはいない。
それでも。
室内にいた誰もが、その怒りを感じ取った。
「お前には失望した」
ブラクが何かを言おうとした。
だが、その前に。
族長の拳が、腹部へ叩き込まれた。
「ぐっ……!」
ブラクはその場で身体を丸めた。
口から息を吐き出し。
それ以上、声を出せなくなる。
他の隊長たちも、複雑な表情でブラクを見ていた。
「本当に、お前だったのか……」
「子供たちは、死にかけていたんだぞ」
「どうして、こんなことができた?」
ブラクは顔を伏せた。
何も答えない。
族長が片手を振る。
「連れていけ」
数人の狼人族の戦士が前へ出た。
ブラクの両腕をつかみ、そのまま部屋の外へ引きずっていく。
扉が閉じると。
室内は、再び静かになった。
セリーナが、アーガの前へ歩いてくる。
そして。
深く頭を下げた。
「アーガ」
その声は、とても小さかった。
「以前、あなたを傷つけたことを謝る」
アーガはセリーナを見た。
すぐには何も答えない。
セリーナは顔を伏せたまま、言葉を続けた。
「あのときの私は、村を守ることしか考えていなかった」
「人間を信じてもいなかった」
「でも、今回……」
寝台に横たわる子供たちへ視線を向ける。
「あなたがいなければ、あの子たちは本当に助からなかったかもしれない」
族長も、アーガのそばへ歩み寄った。
「ありがとう」
ケインも隣で、強く頷く。
「本当にありがとう、アーガ」
アーガは疲れ切った様子で片手を振った。
「礼はまだ早い」
寝台の上にいるイータを見る。
「全員が目を覚ましてからにしてくれ」
まるで。
その声が聞こえたかのように。
一人の獣人の子供が、僅かに指を動かした。
続いて。
隣に寝ていた子供も、ゆっくりと目を開く。
「父さん……?」
「ぼ、僕は……」
室内に、押し殺した喜びの声が広がった。
族長はすぐに寝台へ駆け寄り、目覚めた子供の手を握る。
その目元が、僅かに赤くなっていた。
そして。
一番奥に横たわっていたイータの耳が、微かに動く。
ゆっくりと瞼を開いた。
その視線は、まだ焦点が定まっていない。
「アーガ……様?」
イータが目を覚ました姿を見て。
アーガは、ようやく胸の奥に溜め込んでいた息を吐き出した。
「目を覚ましたなら、それでいい」
イータは身体を起こそうとした。
しかし、すぐにキャサリンが肩を押さえる。
「駄目よ」
「目を覚ましたばかりなんだから、おとなしく寝ていなさい」
室内にいた者たちが、一斉に安堵の息を吐いた。
外の空も、少しずつ明るくなっていく。
遠くの山並みから朝日が姿を現し。
木造家屋の窓辺を、淡い金色に染めていた。
だが。
アーガに眠気はなかった。
一人で家屋の外へ出る。
入口に立ち。
黒槌町がある方角を、じっと見つめた。
朝の風が吹き抜ける。
僅かに冷たい。
リナは、まだ帰ってきていない。
彼女が簡単に倒れるような人間ではないことは分かっている。
それでも。
胸の奥から、少しずつ不安が湧き上がってきた。
そのとき。
遠くの道から。
車輪が土を踏む音が聞こえてきた。
アーガは勢いよく顔を上げる。
朝霧の向こうから。
一台の馬車が、ゆっくりと姿を現した。
荷台には、二人の人影があった。
一人はトム。
そして。
もう一人は、リナだった。
リナは荷台の縁へ身体を預けている。
顔色は青白く。
傷の上には、簡単に巻かれた布が何本も見えた。
それでも。
意識はある。
アーガの心臓が、一瞬だけ止まったように感じられた。
次の瞬間。
馬車へ向かって駆け出していた。
リナもアーガに気づく。
疲れ切った顔に。
ほんの僅かな笑みを浮かべた。
御者台には、トムが座っている。
手綱を握るその顔は、相変わらず無口で疲れ切っていた。
トムを見た瞬間。
アーガは理解した。
この老人が、リナを助けたのだ。
彼がいなければ。
リナがこれほど早く黒槌町から脱出することはできなかっただろう。
馬車が止まる。
アーガはすぐに荷台のそばへ駆け寄った。
リナの身体に残る傷を見て。
声が僅かに詰まる。
「大丈夫なのか?」
リナは自分の身体を見下ろした。
それから、アーガへ視線を戻す。
「生きています」
そう答えた直後。
張り詰めていた糸が切れたように、身体から力が抜けた。
アーガはすぐに手を伸ばし。
倒れかけたリナを抱き止める。
遠くでは。
陌狼村を囲む木柵が、朝日に照らされ始めていた。




