第137話 粘液魔法
リナの腕から伸びた蔓が、民家の脇に吊るされた街灯へ巻きついた。
その蔓に身体を預け、一気に前方へ飛ぶ。
地面一面に撒かれた粘液を、上空から避けた。
グレイソンが右手を振る。
三発の粘液が、同時に放たれた。
「《粘液弾》!」
三つの粘液は、小さな弾丸ほどの大きさに圧縮されていた。
その速度は恐ろしく速い。
鋭い風切り音を響かせながら、空気を貫いてリナへ迫る。
空中にいるリナは、完全には回避できない。
強引に身体を捻った。
――ブシュッ!
一発の《粘液弾》が腕へ命中した。
鮮血が飛び散り、鋭い痛みによって腕全体が大きく沈む。
残る二発は背後の石壁へ撃ち込まれ、表面に二つの浅い穴を穿った。
リナは地面へ降りる。
だが、着地した足が粘液を踏みかけた。
痛みに耐えながら身体を反転させ、掌に浮かんだ魔法陣から蔓を伸ばす。
その力を利用して、すぐさま横へ跳んだ。
グレイソンは、息を整える時間さえ与えない。
再び粘液の鞭を振るった。
今度は真っ直ぐではない。
横から大きく回り込み、蛇のようにリナの腰へ巻きつこうとする。
リナは手を持ち上げ、《碧葉飛刃》を形成した。
数枚の葉刃が、粘液の鞭へ切り込む。
しかし。
刃が粘液へ入り込んだ瞬間、その速度が急激に落ちた。
粘液の一部を切り裂くことには成功したものの、完全には断ち切れない。
分断された粘液は、逆に何本もの細い鞭へ変わり、そのままリナへ襲いかかる。
リナは奥歯を噛み、後方へ下がった。
「《荊棘槍》!」
地面が裂ける。
太く鋭い荊棘が石板の下から突き出し、グレイソンの胸へ迫った。
グレイソンの顔色が変わる。
両手を同時に前へ突き出した。
大量の粘液が噴き出し、正面に分厚い壁を作り上げる。
荊棘の槍が、粘液の壁へ突き刺さった。
穂先は粘つく壁を少しずつ突き進む。
だが、進めば進むほど粘液へ深く沈み込み、最後には完全に動きを封じられた。
グレイソンの額にも、僅かに汗が浮かんでいる。
リナは見逃さなかった。
簡単に防いだわけではない。
グレイソンの粘液魔法は厄介だった。
遠距離攻撃。
拘束。
そして、地形の封鎖。
どれも優れている。
だが、その分だけ魔力の消耗も大きい。
攻撃を続け、防御を強要し続ければ、グレイソンもいずれ耐えられなくなる。
問題は。
リナも同じだということだった。
ここまで追跡を続け、何度も蔓と《聖木盾》を使用している。
リナの魔力も、急速に減少していた。
さらに、今の地形はグレイソンに有利だった。
狭い路地では、地面へ粘液を撒かれるだけで自由に着地できなくなる。
壁。
木箱。
軒先。
あらゆる場所が、いつ粘液で覆われてもおかしくない。
一度でも身体を貼りつけられれば。
次に飛んでくる高圧縮の《粘液弾》を、回避することは難しい。
グレイソンも、それに気づいたらしい。
もう、必死に逃げようとはしなかった。
少しずつ後退しながら、地面と壁へ絶え間なく粘液を投げつけていく。
路地は、急速に通りにくくなっていった。
リナは一歩進むたび、蔓で地面を探り、安全な足場を確かめなければならない。
「俺には追いつけない」
グレイソンが荒い息を吐きながら笑った。
「バルカンがあの小僧を始末すれば、次はお前の番だ」
リナの目が僅かに沈む。
アーガも、今この瞬間にバルカンと戦っている。
ここで時間をかけるわけにはいかない。
そう判断した瞬間。
リナは一気に速度を上げた。
掌の魔法陣から次々と蔓を伸ばし、路地の左右にある壁の間を跳び移っていく。
グレイソンはすぐに片手を上げた。
五発の《粘液弾》が、連続して放たれる。
リナが腕を振る。
《碧葉飛刃》が飛び出し、空中で粘液弾と衝突した。
二発の軌道が逸れ、横の壁へ激突する。
しかし、残る三発はそのままリナの身体へ迫った。
「《聖木盾》!」
――ドンッ! ドンッ!
二発の粘液弾が、形成された木盾へ命中する。
残る一発は盾の脇を通り抜け、リナのふくらはぎを掠めた。
飛び散った粘液が、瞬く間に足首全体へ絡みつく。
リナの動きが、一瞬遅れた。
それを見たグレイソンの目が輝く。
「捕まえたぞ!」
右手を勢いよく引いた。
足首へ付着した粘液が縄のように伸び、リナの身体を強く引っ張る。
空中で体勢を崩したリナは、そのまま地面へ落下した。
だが。
グレイソンは近づかなかった。
慎重な男だった。
リナが落ちるのと、ほぼ同時。
左手を持ち上げ、これまでよりも小さく、明るく輝く粘液弾を形成する。
極限まで圧縮された一撃。
狙いは、リナの胸だった。
リナは片手を上げ、防ごうとする。
しかし、負傷した右腕にはまだ粘液が残っており、動きが明らかに遅れていた。
グレイソンの口元に、笑みが浮かぶ。
「《粘液弾》!」
その瞬間。
リナが顔を上げた。
その瞳は、冷静だった。
追い詰められた者の目ではない。
グレイソンの胸に、強い不安が走る。
(まずい!)
だが。
気づくのが遅すぎた。
リナの足が粘液に捕らわれた場所。
その石板の隙間から、細い根が伸びていた。
根は粘液を引き剥がそうとしているのではない。
粘液そのものを伝い。
グレイソンの足元まで、密かに伸びていた。
先ほどの《粘液弾》を避けきれなかったのではない。
リナは、わざと自分の足を捕らえさせた。
そうすれば、グレイソンは粘液を通じて彼女を引っ張る。
そして。
確実に仕留められると判断し、次の一撃へ意識を集中させる。
「《藤蔓絞殺檻》」
リナが静かに告げた。
グレイソンの足元で、石板が爆発する。
数十本もの蔓が地中から飛び出した。
檻を形成するように、四方から上へ向かって閉じていく。
グレイソンの顔色が一変した。
すぐに粘液を放ち、蔓を弾き飛ばそうとする。
しかし、蔓の成長速度はあまりにも速かった。
すでに、その指へ巻きついている。
「くそっ!」
両足。
手首。
腰。
グレイソンの身体が、次々と太い蔓に拘束された。
リナは口元の血を手の甲で拭う。
ふくらはぎに走る痛みへ耐えながら、ゆっくりと立ち上がった。
そして、一歩ずつグレイソンへ近づいていく。
掌に集まった緑色の魔力が、急速に膨れ上がった。
やがて細長く伸び、鋭い槍の穂先へ変わっていく。
グレイソンは必死に身体を揺らした。
しかし、指まで蔓にきつく縛られている。
簡単な魔法の動作さえ行えない。
灰白色の粘液が掌から溢れ続ける。
だが、形を作ることはできず、力なく地面へ滴り落ちるだけだった。
「ま、待て!」
グレイソンの声が震える。
先ほどまでの余裕は、完全に消えていた。
「魔晶石は渡す!」
「商会が他の物を隠している場所も知っている!」
「殺さないでくれ! 俺が案内する!」
リナは止まらない。
何も答えず、一歩ずつ距離を縮める。
手の中で、緑色の槍がさらに明確な形を取った。
槍身に細かな荊棘が生え、鋭い穂先が冷たい光を放っている。
グレイソンの呼吸が、ますます激しくなった。
「リ、リナさん!」
「俺が悪かった! 本当に悪かった!」
「全部、バルカンに命令されたんだ!」
「商会にやらされた! 俺の意思じゃない!」
リナの表情は変わらない。
毒に苦しんでいた獣人の子供たちを思い出す。
力なく背中を丸めていたトムの姿を思い出す。
そして今も。
別の場所で、バルカンを一人で食い止めているアーガを思い浮かべる。
この男の言い訳を聞いている時間などなかった。
《藤蔓絞殺檻》が、突然左右へ開いた。
グレイソンの瞳に、一瞬だけ希望が浮かぶ。
しかし。
次の瞬間。
「《荊棘槍》」
――ブシュッ。
鋭い穂先が、グレイソンの胸を貫いた。
鮮血が一気に噴き出し、胸元の服を赤く染める。
グレイソンの身体が、大きく硬直した。
口を開き、何かを言おうとする。
だが、漏れたのは意味を持たない掠れた息だけだった。
リナが手を離す。
《荊棘槍》は無数の緑色の光へ変わり、空中へ消えていった。
支えを失ったグレイソンの身体が、重い音を立てて地面へ倒れる。
路地が、一瞬だけ静かになった。
遠くから響く怒号と。
空を染める炎だけが。
戦いがまだ終わっていないことを告げていた。
リナは小さく息を切らしながら、壁へ手をついて身体を支えた。
ふくらはぎの傷は、今も痛んでいる。
腕も《粘液弾》を受けた影響で、僅かに痺れていた。
それでも休まない。
グレイソンのそばまで歩き、その場へ膝をつく。
懐から、あの木箱を取り出した。
蓋を開けた瞬間。
幽青色の光が、リナの顔を照らす。
上等魔晶石は、まだ中に入っていた。
リナは木箱の蓋を閉じ、胸元へ強く抱き締める。
そして。
自分が来た方向へ振り返った。
「アーガ様……」
奥歯を噛み締める。
負傷した脚を手早く布で縛ると、最も炎が激しく燃えている方角へ走り出した。




