第136話 森林形態
アーガが右手を持ち上げる。
指先に、鋭く尖った数発の荊棘弾が形成された。
変身を告げる声が途切れた、その瞬間。
バルカンはすでに目の前まで迫っていた。
アーガは地面を軽く蹴る。
黄カード2《チーター》の速度が爆発し、身体が壁に沿って横へ流れた。
直後、バルカンの戦斧が空を切る。
――轟ッ!
斧刃が地面へ叩きつけられ、路地の石板に長い亀裂が走った。
アーガは振り返らない。
走りながら、右手だけを後方へ向ける。
――ヒュヒュヒュッ!
三発の荊棘弾が放たれた。
バルカンは左腕を持ち上げて防ぐ。
荊棘弾は革鎧へ突き刺さり、その下の腕に数本の血筋を刻んだ。
深い傷ではない。
だが、鬱陶しくはある。
バルカンの顔が険しくなる。
「そんな小細工が、俺に通用すると思ったか!」
戦斧を勢いよく投げつけた。
アーガは《チーター》の速度を利用し、壁を蹴って隣の木製のひさしへ跳び上がる。
戦斧は足元を通過し、ひさしを支えていた柱を切断した。
足場が崩れ、アーガの身体が落下する。
左手を頭上へ向けた。
緑色の蔓が掌から飛び出し、向かい側にある二階の窓枠へ巻きつく。
アーガは蔓を支点に大きく身体を振り、さらに細い別の路地へ着地した。
同時に、右手を再び持ち上げる。
――ヒュヒュヒュヒュッ!
曲がり角の向こうから、四発の荊棘弾が飛び出した。
狙いは、バルカンの両目と膝。
「おおおっ!」
バルカンは怒号を上げた。
戦斧で最初の二発を弾き、身体を捻って三発目をかわす。
しかし、四発目がふくらはぎを掠めた。
細かな荊棘が傷口へ食い込み、バルカンの動きが一瞬だけ止まる。
その一瞬で。
アーガの姿は、すでに曲がり角の向こうへ消えていた。
バルカンはすぐにあとを追う。
進むほど、路地は狭くなっていった。
この場所では、巨大な戦斧を十分に振り回せない。
斧を振るたびに、長い柄が左右の壁へぶつかる。
投げたとしても、両側に並ぶ石壁や木柱を避けなければならず、飛行速度も落ちてしまう。
アーガが狙っていたのは、まさにそれだった。
バルカンとは正面から戦わない。
曲がり角から飛び出し、荊棘弾を撃つ。
蔓を使って距離を取り、方向を変えて再び走る。
荊棘弾そのものに、致命的な威力はない。
だが、その狙いはどれも厄介だった。
目。
手首。
膝。
足首。
バルカンが無視できない場所ばかりを、正確に狙っている。
バルカンは何度も強引に距離を詰めようとした。
しかし、そのたびに狭い地形に動きを阻まれる。
再び、暗闇の中から三発の荊棘弾が飛んできた。
バルカンは戦斧を横薙ぎに振り、二発を弾く。
だが、残る一発が肩へ突き刺さった。
荊棘が傷口の中で弾ける。
革鎧の隙間から、鮮血が流れ落ちた。
「このクソガキが!」
バルカンが激怒し、戦斧を投げ放つ。
今度の戦斧は、真っ直ぐには飛ばなかった。
狭い路地の中で、何度も不規則に軌道を変える。
最初に左側の壁へ激突し、その反動を利用するかのように右側へ折れた。
そして最後には。
アーガの斜め後方から、首を狙って飛来する。
風切り音を聞いた瞬間、アーガは頭を下げた。
斧刃が後頭部すれすれを通過する。
緑色の魔力装甲が切り裂かれ、背中に焼けるような痛みが走った。
それでも、アーガは止まらない。
勢いを利用して前方へ転がり、右手を地面へ押しつける。
石板の隙間から蔓が伸び、戦斧の柄へ絡みついた。
しかし、《森林形態・二一二号》が重点的に強化しているのは射撃能力だ。
蔓の拘束力は、それほど高くない。
戦斧を止められたのは、ほんの一瞬だけだった。
バルカンが腕を引く。
戦斧は蔓を強引に引きちぎり、再びバルカンの手元へ戻っていった。
だが、その一瞬で十分だった。
アーガは地面から跳ね起きる。
左手を振り抜いた。
十数発もの荊棘弾が、一斉に放たれる。
距離が近すぎる。
バルカンは戦斧を持ち上げ、頭と顔を守ることしかできなかった。
――ドドドドッ!
数発の荊棘弾が、腕、肩、脇腹へ突き刺さる。
傷口の中で荊棘が弾け、血飛沫が一気に噴き出した。
「ぐっ……!」
バルカンが低く呻く。
その足が、ついに半歩だけ後ろへ下がった。
だが、アーガも無傷ではない。
先ほどの無理な動きによって、治りきっていない傷が強く引きつった。
胸の奥を、何かに力任せに捻られたような痛みが襲う。
アーガは壁へ手をついた。
喉の奥に血の味が広がり、危うく咳き込みそうになる。
青カード1《治癒体》の温かな魔力は、今も体内を流れている。
しかし、回復する速度が消耗に追いついていなかった。
アーガは顔を上げ、バルカンを見る。
バルカンの身体には、すでに十数か所もの傷が刻まれていた。
肩。
ふくらはぎ。
両腕。
どこからも血が流れている。
顔にも、荊棘によって切り裂かれた一本の傷があった。
どれも深い傷ではない。
だが、その一つ一つが。
バルカンの怒りを、着実に積み重ねている。
アーガは壁にもたれ、ゆっくりと呼吸を整えた。
バルカンは戦斧の柄を強く握り締める。
その目から、完全に笑みが消えていた。
狭い路地の中へ、血の匂いが少しずつ広がっていく。
砕けた石板と、引きちぎられた蔓を挟み。
二人は互いを睨み合った。
アーガにも分かっていた。
先ほどまでの攻防は、確かに効果があった。
バルカンへ傷を負わせ、体力も削っている。
だが。
倒すには、まだ遠く及ばない。
◇ ◇ ◇
一方。
リナが蔓の力を借りて路地へ飛び込んだとき、グレイソンはすでにかなり先まで逃げていた。
商会の人間とは思えないほど、その動きは軽い。
走る速度も速く、黒槌町の地形にも精通していた。
何度か角を曲がった頃には、通りの喧騒は遠くへ消えている。
聞こえるのは、遠方から届くぼんやりとした怒号と戦闘音だけだった。
建物の向こう側では、炎の光が夜空を赤く照らしている。
リナは壁際の木箱を踏み台にして跳び上がった。
掌から伸ばした蔓を前方の軒先へ絡ませ、そのまま身体を振り子のように前へ運ぶ。
地面へ降り立つと同時に、右手を上げた。
「《碧葉飛刃》!」
リナの周囲に、翠緑色の葉刃が何枚も形成される。
高速で回転しながら、グレイソンの背中へ飛んでいった。
しかし、グレイソンは予想していたかのように振り返る。
右手を勢いよく振った。
灰白色の粘液が掌から噴き出す。
空中で広がり、粘つく網へと変化した。
葉刃が粘液の網へ衝突する。
その瞬間、飛行速度が急激に落ちた。
やがて完全に動きを封じられ、空中へ貼りついたまま小刻みに震える。
リナが眉を寄せた。
グレイソンは冷たく笑う。
「本当に追いついてくるとはな」
そう言いながらも、走る足は止めていなかった。
リナは答えない。
足元から再び蔓を伸ばした。
蛇のように石板の上を這い、グレイソンの足首へ迫る。
グレイソンは片手を振る。
いくつもの粘液の塊が地面へ叩きつけられた。
蔓が粘液へ触れた瞬間。
沼へ沈んだように動きを奪われ、石板へ強く貼りつけられる。
続けて、グレイソンが右手を後方へ引いた。
地面へ撒かれていた粘液が、突然一本につながる。
長い鞭へと変わり、リナへ襲いかかった。
リナはすぐに手を前へ向ける。
「《聖木盾》!」
太い木が急速に成長し、リナの正面へ巨大な盾を形成した。
表面には、淡い緑色の魔力紋様が広がっている。
――バシンッ!
粘液の鞭が《聖木盾》へ激突した。
重い衝撃音が響く。
盾そのものは破壊されなかった。
しかし、表面へ付着した粘液によって、完全に絡め取られてしまう。
グレイソンが手首を強く引いた。
《聖木盾》が、無理やり横方向へ引きずられる。
次の瞬間。
木の盾は粘液の鞭によって吹き飛ばされ、横の壁へ激突した。
大量の木片となって砕け散る。
グレイソンは、路地の突き当たりでようやく足を止めた。
その背後には、別の脇道がある。
そして彼の正面。
リナとの間にある石板には、すでに薄い半透明の粘液が撒かれていた。
暗い路地の中では、ほとんど見分けがつかない。
注意せずに踏み込めば、足を取られるだろう。
リナの足が止まった。
グレイソンが笑う。
「どうした?」
「もう追ってこないのか?」
懐から、あの木箱を取り出した。
見せつけるように、リナの前で軽く振る。
箱の隙間から、幽青色の光が僅かに漏れていた。
上等魔晶石。
それを見た瞬間。
リナの眼差しが冷たくなる。
「粘液魔法ですか」
「厄介な能力ですね」
「ハハハッ!」
グレイソンは勝ち誇ったように笑った。
「この程度の実力がなければ、商会の副会長など務まらないのでね!」
リナとグレイソンは、どちらも遊侠級下位。
だが、戦闘経験ではグレイソンの方が上だった。
リナは何も言わない。
ただ、ゆっくりと片手を持ち上げる。
グレイソンの顔から、笑みが僅かに消えた。
次の瞬間。
二人は、ほぼ同時に動き出した。




