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第135話 戦闘開始

アーガは即座に後退した。


黄カード2《チーター》の力を再び両脚へ流し込み、屋根の反対側へ滑るように移動する。


――轟ッ!


巨大な戦斧が投げつけられた。


屋根の端へ激突し、木板と瓦が一瞬で砕け散る。


石片と木屑が、雨のように周囲へ降り注いだ。


次の瞬間。


地面へ落ちるはずだった戦斧が空中で向きを変え、バルカンの方へ飛び戻っていく。


近くにいた見物人たちが悲鳴を上げ、慌てて後方へ逃げた。


通りの混乱が、さらに大きくなる。


アーガは崩れた屋根の上を一度転がり、どうにか体勢を立て直した。


そして、もう一度衛兵隊長を見る。


「リーイン隊長!」


「何を待っている!」


しかし、衛兵隊長は動かなかった。


夕焼けと周囲の灯りが、その顔を照らしている。


中年の男の表情に、驚きも焦りもない。


むしろ、口元には薄い笑みが浮かんでいた。


冷たい笑み。


そして、僅かな得意げな色さえ含まれている。


その目を見た瞬間。


アーガの胸の奥が、大きく沈んだ。


(そういうことか)


理解した。


リーインは、アーガについて調べていたのだ。


衛兵隊の詰所を出た直後。


あるいは、それよりも前から。


アーガの周囲にいるのが、リナとイータだけだということ。


イータが今、黒槌町にいないこと。


そして、アーガが口にした三人目や四人目の協力者など、最初から存在しないことまで。


あの日。


アーガは証拠と《暮星城》の名を使い、リーインを怯ませた。


しかし、それはリーインが賭けに出られなかったからにすぎない。


今は状況が違う。


関係者は全員、この場所へ集まっている。


証拠を持っているのも、アーガとリナだけ。


アーガとバルカンが互いに傷つけ合えば、衛兵隊は最後に残ったアーガを堂々と捕らえられる。


リナは、戦斧商会の人間に始末させればいい。


混乱の中でリナが死ねば、残された証拠も消える。


そのあとリーインは、黒槌町の治安を守るため、戦斧商会と騒ぎを起こした少年の双方を鎮圧したと主張できる。


戦斧商会を倒した功績まで、自分のものにできるだろう。


(どこまでも欲深い奴だ)


アーガは奥歯を噛み締めた。


だが、バルカンは考える時間を与えない。


「おおおおっ!」


怒号を上げ、両手で戦斧を振るう。


巨大な戦斧が、再びアーガへ投げつけられた。


アーガは正面から受けなかった。


折れた梁へ左足を掛け、身体を大きく後ろへ倒す。


戦斧の刃が、鼻先すれすれを通り過ぎた。


巻き起こった風が頬を切りつける。


数本の黒髪が斧風に切断され、空中へ散った。


その様子を見て。


リーインの笑みが、さらに深くなる。


次の瞬間。


ようやく腰の長刀を引き抜いた。


「全隊、突撃!」


衛兵隊長の声が、通り全体へ響き渡る。


「戦斧商会には、管理物資の違法販売、住民の殺害、黒槌町の秩序を乱した疑いがある!」


「全員、捕らえろ!」


衛兵たちが一斉に動き出した。


盾で群衆を押し退け、構えていた長槍を同時に突き出す。


戦斧商会の護衛たちは顔色を変えた。


すぐに武器を抜き、衛兵たちへ応戦する。


「ふざけるな!」


グレイソンが怒鳴った。


「リーイン!」


「我々を裏切るつもりか!」


リーインは冷たく笑うだけで、何も答えなかった。


◇ ◇ ◇


通りは、完全な混乱に陥った。


衛兵と商会の護衛が正面から激突する。


刃と刃がぶつかる音。


魔法が炸裂する轟音。


逃げ惑う者たちの悲鳴。


あらゆる音が混ざり合った。


見物していた者たちは、四方へ散っていく。


露店が倒され、陶器の壺が地面へ落ちて砕けた。


混乱に乗じて、戦斧商会の正門に置かれた商品箱を奪おうとする者もいる。


怒りを抑えきれず、衛兵に加勢して商会の者たちへ石を投げる者もいた。


その隙に。


グレイソンが身体を翻し、すぐそばの路地へ駆け込んだ。


アーガの目つきが鋭くなる。


追いかけようと足を動かした瞬間。


再び、バルカンの戦斧が飛んできた。


アーガは側方へ跳び、斧刃をかわす。


――轟ッ!


屋根の一部が、また大きく崩れ落ちた。


アーガは砕けた梁を足場にし、隣の屋根へ跳ぶ。


同時に、向かいの窓へ向かって叫んだ。


「リナ!」


「グレイソンを追え!」


リナは、ちょうどトムを安全な場所へ避難させたところだった。


アーガは飛来した戦斧をかわしながら、息を切らして叫び続ける。


「上等魔晶石を持っている!」


その言葉を聞いた瞬間。


リナの目つきが変わった。


理由を尋ねることも、迷うこともなかった。


「分かりました!」


言葉が終わると同時に。


両手から大量の蔓が伸びた。


蔓を建物の壁や屋根へ絡ませ、その力で身体を前方へ引き上げる。


金色の長い髪が、炎と煙の中で鮮やかな弧を描いた。


そのまま、グレイソンが消えた路地へ向かっていく。


リナが無事に追跡を始めたのを確認し、アーガは僅かに息を吐いた。


だが。


その息を吐き終える前に、背後から重い風切り音が迫った。


アーガは、ほとんど本能だけで頭を下げる。


戦斧が頭上を通過し、反対側の軒先を粉砕した。


さらに、戦斧は空中で不自然なほど鋭く軌道を変える。


まるで目に見えない縄で引かれたように、再びバルカンのもとへ戻っていった。


――パシッ。


バルカンが斧の柄をつかむ。


腕の太い筋肉が、僅かに盛り上がった。


アーガの表情が険しくなる。


(ただ投げているだけじゃない)


今の攻撃で、はっきりと見えた。


バルカンの能力は、投げた戦斧の軌道を操るものだ。


一度手から離れれば、戦斧はただの武器ではなくなる。


曲がり。


戻り。


逃げる相手を追い続ける怪物となる。


(二級カードの能力――飛行道具を操る魔法か)


(屋根のような開けた場所では、こちらが圧倒的に不利だ)


アーガは迷わなかった。


バルカンへ背を向け、屋根の上を走り出す。


「逃げるつもりか?」


バルカンが冷笑した。


手にした戦斧を、再び投げる。


戦斧は大きな弧を描き、アーガの右側から回り込んできた。


アーガは屋根を強く蹴る。


身体を前へ投げ出し、そのまま屋根の端から飛び降りた。


耳元で、激しい風音が鳴る。


狭い路地へ着地した。


両足が濡れた石板を踏む。


着地の衝撃で膝が大きく沈んだ。


陌狼村で負った右脚の傷は、まだ完全には治っていない。


包帯の下で傷口が裂けるような痛みが走り、脚から一瞬だけ力が抜けた。


(黄カード2《チーター》を使えば、逃げ切ること自体はできる)


(だが、こいつにはまだ余力がある)


(俺が馬車へ乗れば、間違いなく追ってくる)


(やはり、ここで倒すしかないか)


アーガは歯を食いしばり、身体を支えた。


止まることなく、路地の奥へ走り続ける。


――轟ッ!


戦斧が上空から落ちてきた。


先ほどまでアーガが立っていた石板を、真っ二つに砕く。


細かな石が周囲へ飛び散った。


壁にも斧刃が触れ、深い亀裂が刻まれる。


続いて。


バルカン自身が、屋根から路地へ降りてきた。


巨大な身体が着地した瞬間。


狭い路地全体が揺れたように感じられた。


「随分と足が速いな」


バルカンは戦斧を肩へ担ぎ、獰猛な笑みを浮かべる。


「だが、いつまで逃げ続けられる?」


アーガは答えなかった。


身体を翻し、さらに狭い脇道へ駆け込む。


◇ ◇ ◇


黒槌町の路地は、複雑に入り組んでいた。


両側には、背の低い木造家屋と石壁が並んでいる。


頭上には洗濯物を干す縄が張られ、壁際には木桶、籠、壊れた箱が積み上げられていた。


この狭さなら、少なくとも戦斧の飛行経路を制限できる。


しかし。


制限できるだけだった。


バルカンが、再び戦斧を投げる。


斧は石壁すれすれを飛んできた。


刃が壁を削り、赤い火花が連続して弾ける。


アーガは身体を横へ向け、民家の裏口付近にある窪みへ滑り込んだ。


戦斧が目の前を通過する。


木製の扉が、音を立てて真っ二つに割れた。


アーガが再び走り出そうとした、その瞬間。


戦斧が空中で向きを変えた。


バルカンの手元へ戻るのではない。


アーガの背後から、もう一度襲いかかってくる。


「――ッ!」


アーガの瞳孔が縮む。


即座に身体を前へ投げ出し、地面を転がった。


――ザシュッ!


斧刃が肩を掠める。


鮮血が空中へ飛び散った。


アーガは呻き声を押し殺し、壁際の木桶へ激突する。


桶が倒れ、中に溜まっていた汚水が路地へ広がった。


冷たい水が肩の傷へ染み込み、鋭い痛みが走る。


アーガの目元が僅かに引きつった。


バルカンは、ゆっくりと近づいてくる。


「遊侠級中位か?」


戦斧についた血を振り落とした。


「ここまで耐えたことは褒めてやる」


アーガは壁へ手をつき、立ち上がった。


呼吸が乱れている。


実力の差は明らかだった。


正面から戦えば、十回も攻撃を交わすことなく倒される可能性が高い。


さらに厄介なのは、今のアーガが負傷していること。


普段より、速度も反応も僅かに落ちていた。


その僅かな差が。


この戦いでは、十分に致命傷となる。


アーガは腰元へ視線を落とした。


次の瞬間。


魔力が腰の周囲へ集まり始める。


四つの色を帯びた、見慣れた魔力腰帯が形成された。


バルカンが、その光景を見て眉を寄せる。


「何だ、それは?」


アーガは答えない。


カードケースから、四枚のカードを引き抜いた。


赤カード3《草》。


黄カード2《チーター》。


青カード1《治癒体》。


緑カード2《射術》。


四枚のカードを、順番に腰帯のスロットへ差し込む。


腰帯の中央に刻まれた紋様が、強烈な光を放った。


四枚のカードから緑色の魔力が同時に溢れ出す。


無数の蔓のように絡み合い、アーガの全身を包み込んでいく。


肩。


胸。


両腕。


そして両脚。


流れる緑色の光が、次々と半透明の魔力装甲へ変わった。


体表へ密着する装甲は、形を保ちながらも微かに透き通っている。


その下では、力を込めるたびに動く筋肉の輪郭が、僅かに浮かび上がっていた。


アーガは顔を上げる。


「融合変身――」


緑色の魔力が、狭い路地へ爆発的に広がった。


「《森林形態・二一二号》!」


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