第131話 衛兵隊長
「ああ」
アーガは数枚の写しを重ね直し、懐へ収めた。
「だから次は、本来こういう問題を取り締まるべき人間に会いに行く」
リナが一瞬、目を見開く。
「衛兵隊ですか?」
「ああ」
アーガは立ち上がった。
右脚の傷からは、今も鈍い痛みが伝わっている。
しかし、表情には出さなかった。
「戦斧商会が黒槌町で堂々と魔晶鉱粉を売れるのは、衛兵隊が見て見ぬふりをしているからだ」
「証拠が揃った以上、今度は連中にも動いてもらう」
リナは眉を寄せた。
「ですが、衛兵隊はすでに買収されています」
「私たちの話を聞いてくれるでしょうか?」
「聞かないだろうな」
アーガは平然と答えた。
「だから、聞かざるを得ない状況を作る」
◇ ◇ ◇
空は、まだ完全には明るくなっていなかった。
黒槌町の通りを歩いているのは、早朝から店の準備を始めた数人の商人だけ。
薄い霧が地面を這うように流れている。
遠くにある市場の天幕も、まだすべては組み上がっていない。
昨夜までの騒がしさが、灰色の布で覆われたかのようだった。
辺りには、重苦しい静けさだけが残っている。
アーガとリナは二本の通りを抜け、すぐに衛兵隊の詰所へ到着した。
四角い形をした石造りの建物。
入り口には、黒槌町衛兵隊の紋章が刻まれた鉄板が掲げられている。
二人の衛兵が扉のそばへ寄りかかり、大きな欠伸をしていた。
アーガたちが近づくと、すぐに眉を寄せて道を塞ぐ。
「何の用だ?」
アーガは銀貨を一枚取り出し、衛兵の掌へ置いた。
「隊長に会いたい」
衛兵は手元の銀貨へ視線を落とす。
僅かに態度が柔らかくなった。
「隊長はまだ寝ている」
アーガは、さらに銀貨を一枚取り出した。
同時に、懐から写しの端だけを覗かせる。
「今なら起きるはずだ」
衛兵は数秒間、アーガを見つめた。
やがて二枚の銀貨を懐へ入れ、詰所の中へ入っていく。
しばらくして。
扉の奥から、不機嫌そうな足音が聞こえてきた。
現れたのは、背の高い中年の男だった。
少しくたびれた衛兵用の外套を肩へ掛け、腰には長刀を下げている。
顔には、眠りを妨げられた苛立ちがはっきりと浮かんでいた。
見た目はややだらしない。
しかし、アーガには分かった。
男の体内に宿る魔力は、決して弱くない。
「俺を呼んだのは、お前か?」
衛兵隊長は、アーガを上から下まで眺めた。
若い顔を見た瞬間、さらに不機嫌そうに眉を寄せる。
「何の用だ?」
アーガはリナへ視線を向けた。
「お前は外で待っていてくれ」
リナが僅かに驚く。
「アーガ様……」
「大丈夫だ」
アーガは小さな声で続けた。
「さっき話したことを忘れるな」
リナはすぐに、その意味を理解した。
唇を結び、小さく頷く。
「分かりました」
衛兵隊長は二人のやり取りを見て眉を寄せたものの、何も尋ねなかった。
そのまま背を向ける。
「入れ」
アーガは一人で詰所へ入った。
◇ ◇ ◇
室内には、何台かの木製机が置かれていた。
壁には、黒槌町周辺を描いた粗い地図が掛けられている。
部屋の隅には、古い鎧と木盾が乱雑に積まれていた。
酒。
汗。
墨。
それらの匂いが混ざり合い、室内に染みついている。
衛兵隊長は机の後ろへ腰を下ろし、片手で眉間を揉んだ。
「それで?」
「何の話だ?」
アーガは余計な前置きをしなかった。
懐から数枚の写しを取り出し、机の上へ並べる。
衛兵隊長は、最初こそ興味のなさそうな表情をしていた。
だが、書かれている内容を見た瞬間。
その動きが僅かに止まった。
本当に、ほんの一瞬だけだった。
男は慌てた様子を見せなかった。
一枚を手に取り、数行だけ目を通す。
そして、鼻で笑った。
「何だ、これは?」
「出所も分からない紙切れではないか」
「戦斧商会の帳簿から写し取ったものだ」
アーガは答えた。
「衛兵隊長への定例金、三年間継続」
「北門での検査免除」
「東門からの商品通過」
「そして、魔晶鉱粉の管理記録の抹消」
「すべて、はっきりと記されている」
衛兵隊長は紙を机へ投げ戻した。
その声には、明らかな侮蔑が含まれていた。
「それで?」
アーガは目を細めた。
男は、想像以上に落ち着いていた。
無実だからではない。
こうしたことがあまりにも長く続いてきたため、誰かに追及される可能性すら考えなくなっているのだ。
「怖くないのか?」
「何を恐れる?」
衛兵隊長は椅子の背もたれへ身体を預け、冷笑を浮かべた。
「黒槌町のような場所では、毎日のように商会が金を持ってくる」
「毎日のように、さまざまな商品が町へ出入りする」
「数枚の紙切れで俺を脅せると思っているのか?」
「小僧」
「自分が誰に向かって話しているのか、分かっているのか?」
アーガは怒らなかった。
ただ静かに、男の顔を見つめる。
「三年前は戦争の影響で、辺境全体が混乱していた」
「王国にも、ここまで手を回す余裕はなかった」
「黒槌町は王都から遠く、荒れ地にも近い」
「お前たちが何をしても、確かに調べる者はいなかっただろう」
衛兵隊長の笑みが、少しずつ消えていく。
アーガは続けた。
「だが、今は違う」
「戦争は終わりかけている」
「凛冬王国の軍も、すでに撤退を始めている」
「前線が安定すれば、灰崖王国にも辺境を調べる余裕が生まれる」
「グルバート家が潰れたあと、最初に粛清されるのは、こうした辺境の腐敗だ」
アーガは机の上にある写しを指さした。
「そのとき、お前だけが無事でいられると思うか?」
衛兵隊長の目つきが、ついに変わった。
「随分と詳しいな」
「お前、王都から来た人間か?」
アーガは答えず、僅かに身体を前へ傾けた。
声を低くする。
「ここから最も近い都市は《暮星城》だ」
「この証拠を持って、俺が城の役人へ訴え出たらどうなる?」
「それでも、この席へ座り続けられると思うか?」
衛兵隊長は何も言わない。
アーガの声は平静だった。
だからこそ、言葉が残酷なほど明確に響いた。
「収賄」
「管理物資の不正通過」
「魔晶鉱粉が獣人の村へ流れ込むのを黙認し、リンタ村と陌狼村の争いを悪化させた」
「運がよければ、牢へ入るだけで済む」
一度、言葉を切る。
「運が悪ければ、赤骸城送りだ」
――ドンッ!
衛兵隊長が勢いよく机を叩き、立ち上がった。
机の上にあった杯が倒れ、飲み物が床へ流れ落ちる。
「小僧!」
「俺を脅しているのか!」
男の体内から、一気に魔力が溢れ出した。
重い圧力が室内へ広がる。
壁に掛けられた地図が、風を受けたように激しく揺れた。
外にいる衛兵たちも異変へ気づいたらしい。
扉へ近づく足音が聞こえてくる。
それでも、アーガは椅子から動かなかった。
一歩も後退しない。
「やめておいた方がいい」
衛兵隊長の手が、腰の刀へ伸びる。
瞳には殺意が浮かんでいた。
「俺がお前を殺せないと思っているのか?」
「見れば分かるだろう」
アーガは淡々と答えた。
「これは原本ではなく、写しだ」
衛兵隊長の動きが止まる。
「一緒に来た少女も、同じ証拠を持っている」
「俺に何かあれば、彼女はすぐに《暮星城》へ向かい、お前を告発する」
部屋の中が静まり返った。
衛兵隊長はアーガを睨みつけている。
今の言葉が真実なのか、虚勢なのかを見極めようとしていた。
しかし、アーガは考える時間を与えなかった。
「もちろん、賭けてもいい」
「城の外に、三人目や四人目の協力者がいないか」
「すでに別の人間へ証拠を預けていないか」
「好きな方へ賭けろ」
衛兵隊長の顔が、完全に険しくなった。
賭けることはできない。
アーガが普通の少年であれば、今すぐ後ろの庭へ引きずり込み、穴へ埋めることもできただろう。
だが、目の前にいる少年はあまりにも冷静だった。
虚勢を張っている人間には見えない。
「……お前は、何を望んでいる?」
衛兵隊長はゆっくりと椅子へ座り直した。
声は、先ほどよりも明らかに低くなっている。
アーガは、脅しは十分に効いたと判断した。
次に必要なのは、相手が逃げ込める道だった。
「俺は、お前を破滅させるために来たわけではない」
アーガは言った。
「少なくとも、今のところはな」
衛兵隊長が冷たく笑う。
「それはありがたい話だ」
「礼は必要ない」
アーガは机の上の写しを回収した。
「一つ、理解してほしいだけだ」
「このまま戦斧商会に従い続ければ、お前もいずれ連中と一緒に沈む」
「だが、適切な時期に立場を変えれば、話はまったく違ってくる」
衛兵隊長は眉を寄せた。
「どういう意味だ?」
アーガは顔を上げた。
そして、自分がこの事件について推測している内容を、静かに語り始める。
すべての手札を見せたわけではない。
しかし、相手を動かすには十分な情報だった。
リンタ村と陌狼村の争い。
意図的に大量販売された魔晶鉱粉。
毒に侵された二人の獣人の子供。
偽造された匿名の手紙。
争いが激しくなるほど利益を得る戦斧商会。
そして、その背後に隠れ、《一号》という符号を使っている人物。
衛兵隊長は最初、嘲るような笑みを浮かべて聞いていた。
しかし、話が進むにつれ。
その表情は少しずつ変わっていった。
単純な驚きではない。
自分と一部の人間しか知らないと思っていた秘密を、目の前で暴かれたような表情だった。
「お前……」
「そこまで知っているのか?」
アーガは何も答えない。
衛兵隊長は、さらに問いかけた。
「バルカンから聞いたのか?」
「違う」
「なら、グレイソンか?」
「それも違う」
「では、誰から聞いた?」
アーガは平静な声で答えた。
「自分で考えた」
衛兵隊長は、長い間黙っていた。
やがて。
喉の奥から、低い笑い声を漏らす。
「……面白い」




