第130話 潜入
部屋へ入り、扉を閉める。
そこでようやく、リナは声を潜めて尋ねた。
「どうでしたか?」
「上等魔晶石はあったのですか?」
「あった」
アーガは外套を脱ぎ、机のそばへ腰を下ろした。
リナの瞳が明るくなる。
「では、どうやって手に入れるのですか?」
「今は手を出さない」
「えっ?」
アーガは杯へ水を注ぎ、一口飲んだ。
それから、ゆっくりと口を開く。
「今日はわざと、あの上等魔晶石に強い興味を示した」
「集魔石と夜光石を使って、交換も持ちかけた」
リナは少し考える。
「戦斧商会に、アーガ様があの魔晶石を欲しがっていると思わせるためですか?」
「ああ」
アーガは杯を机へ戻した。
「それに、二日後の受け渡し場所も、わざと東門に指定した」
「少し不自然に思わせるためにな」
リナは僅かに眉を寄せる。
「警戒されてしまうのではありませんか?」
「警戒させるのが目的だ」
アーガは顔を上げ、リナを見た。
「何の欲も見せず、何をしても完璧な人間を演じれば、かえって信用されない」
「だが、今は違う」
「俺があの貴重な上等魔晶石を欲しがっていると、連中は知っている」
「自分たちの手元に、俺を引き止めるための切り札があると思うだろう」
「そうすれば、これからも取引を続けられると考える」
リナも、少しずつ意図を理解した。
「つまり戦斧商会には、アーガ様が欲深い商人に見えているのですね」
「ああ」
アーガは小さく笑った。
「欲深い人間は利用しやすい」
「同時に、操りやすいと思われる」
リナはしばらく黙っていた。
やがて、別の問題を口にする。
「ですが、私たちには次の魔晶鉱粉がありません」
「陌狼村も、ずっと商品を用意してくれるわけではありませんよね?」
「だから、連中が本格的に次の商品を要求する前に、すべてを終わらせる」
「では、上等魔晶石は?」
リナは尋ねた。
「厳重に守られるはずです」
「間違いなくな」
アーガは頷く。
「今夜以降は、さらに警備が厳しくなるだろう」
リナはますます分からないという表情になった。
「それでは、どうやって取るのですか?」
アーガは手を伸ばし、リナの頭を軽く撫でた。
「心配するな」
リナは目を細める。
二度ほど撫でられたところで、その手を見上げた。
「アーガ様」
「また私をごまかそうとしていますね?」
「ごまかしてはいない」
アーガは立ち上がり、窓の外に広がる通りへ視線を向けた。
「今夜の目的は、最初から上等魔晶石ではないというだけだ」
◇ ◇ ◇
深夜。
黒槌町を包んでいた騒がしさは、すでに静まっていた。
通りに残る灯りも、僅か数個だけ。
酔った男が酒場の前をふらつきながら通り過ぎ、すぐに暗い路地へ消えていく。
遠くから聞こえる衛兵の足音も、気の抜けたものだった。
ただ仕事を終わらせるためだけに、決められた道を歩いているように聞こえる。
アーガは黒い夜装束へ着替え、外套を羽織った。
そして、《樫木亭》の裏窓から外へ出る。
右脚の傷は、まだ治っていない。
着地するたびに、包帯の下から鈍い痛みが響いた。
しかし、昼間のうちに戦斧商会の内部構造は把握している。
今夜、動かなければならなかった。
(衛兵を買収してから何年も経っている)
(ここは連中の本拠地だ)
(警戒しているつもりでも、どこかで油断しているはずだ)
実際、アーガの予想は当たっていた。
戦斧商会の外側には、夜でも多くの護衛が配置されている。
だが、昼間ほど緊張してはいなかった。
特に、裏庭から倉庫へ続く区域。
大半の護衛は火鉢の周りへ集まり、小さな声で雑談していた。
この時間に誰かが潜入するなど、考えてもいないらしい。
アーガは屋根が作る影の中を進んだ。
黄カード2《チーター》の力を短時間だけ脚へ流す。
傷口に痛みが走ったものの、足音はほとんど聞こえなくなった。
巡回中の護衛二人を避け、裏庭の荷台から二階の窓へ登る。
昼間、この場所を通ったとき。
アーガは気づかれないよう、赤カード3《草》の力を使っていた。
窓枠の四方へ細い芽を伸ばし、隙間の奥へ潜り込ませる。
その芽を葉刃へ変え、窓枠と壁を固定していた箇所を、すでに切断していたのだ。
アーガは窓枠へ両手を掛け、静かに力を込めた。
――カチッ。
窓は壊れることなく、枠ごと綺麗に外れた。
アーガは身体を滑り込ませ、二階の廊下へ着地する。
昼間とは違い、内部は静まり返っていた。
遠くで獣脂灯が燃える、微かな音だけが聞こえる。
壁際を進み、昼間に上等魔晶石が保管されていた倉庫の近くまで来る。
予想どおり。
扉の前には、新たに二人の護衛が立っていた。
それだけではない。
錠前は、昼間よりも分厚い鉄製の物へ交換されている。
扉の横には、小型の警報装置まで追加されていた。
強引に扉を開けば、商会全体へ侵入者の存在が知らされるだろう。
アーガは暗がりへ身を隠し、その扉を見つめた。
口元が僅かに引きつる。
(本当に警戒しているな)
上等魔晶石を入れた箱だけでなく、倉庫の扉にまで護衛と仕掛けを追加している。
もし今夜、本当に上等魔晶石を盗みに来ていたなら。
間違いなく、面倒なことになっていた。
しかし――。
アーガは扉から視線を外した。
(残念だったな)
(俺の目的は、そこではない)
気配を殺したまま、別の廊下へ戻る。
向かう先は帳場だった。
戦斧商会は、アーガが上等魔晶石を欲しがっていると思っている。
だからこそ、貴重品の倉庫を厳重に守る。
一方で、帳簿のような物には、それほど危険を感じていないはずだ。
黒槌町の衛兵は、すでに戦斧商会へ買収されている。
帳簿に何が書かれていようと、調べようとする者などいない。
アーガは、昼間に印をつけた扉の前へ到着した。
扉の下側には、ほとんど透明な糖膠がまだ残っている。
誰かが扉を開けた形跡はなかった。
アーガはその場へしゃがみ込み、袖から細い針を取り出す。
数回、錠前の中を探る。
やがて。
――カチリ。
小さな音とともに、錠が外れた。
アーガは、すぐには入らなかった。
扉の前で動きを止め、しばらく内部の音へ耳を澄ませる。
呼吸音はない。
人の気配も感じられなかった。
アーガは扉を僅かに開き、帳場へ入る。
すぐに背後の扉を閉じた。
◇ ◇ ◇
帳場の中は暗かった。
窓には厚い布が掛けられ、外からの光を完全に遮っている。
室内には、紙と墨。
そして、古い木製棚の匂いが満ちていた。
左右には二列の書棚。
中央には、大きな木製の机が置かれている。
机の上には算盤、墨壺、整理されていない伝票の束が並んでいた。
アーガは懐から夜光石を取り出す。
指で表面を覆い、放たれる光を限界まで弱めた。
夜光石から広がるのは、淡い白色の光だけ。
扉の隙間から外へ漏れるほど強くはない。
それでも、近くの文字を読むには十分だった。
「こういう物は、厳重に守る必要がないと思っているんだろうな」
アーガは小さく呟いた。
まず、机の上にある伝票を確認する。
書かれているのは、大半が普通の商品取引だった。
鉄器。
薬草。
革鎧。
食料。
鉱石粉。
どの記録も綺麗に整理され、一見すれば普通の帳簿にしか見えない。
だが、アーガはすぐに違和感へ気づいた。
何冊かの帳簿だけ、紙の色が僅かに違っている。
角の傷みも少ない。
ほかの帳簿より後から加えられた物らしい。
アーガは、そのうちの一冊を抜き取った。
表紙を開く。
最初の数ページには、やはり通常の取引記録しか書かれていない。
しかし、中ほどまで読み進めると。
いくつもの不自然な符号が現れ始めた。
『東部巡回隊――銀貨三十枚』
『衛兵隊副官――金貨五枚』
『口止め料――六名』
『北門検査――免除』
アーガの瞳が、少しずつ冷たくなっていく。
さらにページをめくった。
記されているのは、衛兵へ渡した賄賂だけではない。
魔晶鉱粉の流通先を示す記録も残されていた。
リンタ村周辺。
陌狼村外縁部。
黒槌町東市場。
中には、『獣人向け商品・値上げ』や『衝突期間・追加分』と記された取引まである。
そして、最も重要な一文。
『衛兵隊長への定例金――三年継続』
隣には、受取人を示す符号と日付も書かれていた。
「見つけた」
アーガは静かに息を吐く。
帳簿そのものは持ち出さなかった。
一冊丸ごと消えれば、すぐに侵入を知られてしまう。
アーガは準備していた薄い紙を取り出した。
重要な数ページへ重ね、素早く内容を写し取っていく。
急ぎながらも、帳簿の位置を乱さないよう慎重に作業する。
必要な記録を写し終えると、帳簿を元の場所へ戻した。
角度も向きも、取り出す前と同じにする。
さらに調べていると。
書棚の最下段から、封をされた別の書類を見つけた。
表面に戦斧商会の名はない。
書かれているのは、ただ一つの符号だけだった。
『一号』
アーガの指が止まる。
封を慎重に外し、中の書類へ目を通した。
記されている文章は、一行だけ。
『衝突を継続させれば、魔晶鉱粉の売上は倍増する。必要ならば、事情を知る者を始末せよ。さもなくば、私の地位が危うい』
署名はない。
アーガは、この書類も薄紙へ写し取った。
そのあと、封を元の状態へ戻し、書棚へ置く。
(地位が危うい……)
毒に侵された二人の狼族の子供。
陌狼村で高熱に苦しんでいるイータ。
その姿が、脳裏をよぎる。
アーガの目から、完全に温度が消えた。
写し取った紙を懐へ入れる。
夜光石の光を消し、室内を元の状態へ戻した。
外へ出る前に、扉や床をもう一度確認する。
目立つ痕跡はない。
アーガは静かに帳場から出ると、錠前も元どおりに閉じた。
廊下は、今も静まり返っている。
上等魔晶石の倉庫を守る二人の護衛は、大きな欠伸をしていた。
帳場へ誰かが侵入したとは、まったく気づいていない。
アーガは来た道を戻った。
外していた二階の窓から外へ出る。
赤カード3《草》の力を使い、窓枠の周囲を再び固定した。
そして、裏庭の暗がりへ静かに着地する。
そのまま立ち去ろうとしたとき。
遠くから、グレイソンの声が聞こえてきた。
「今夜は気を抜くな」
「会長からも、ここ数日は問題を起こすなと言われている」
アーガは屋根の影へ身を伏せ、呼吸を止めた。
護衛の一人が、小声で尋ねる。
「ガイアという男のためですか?」
グレイソンが喉の奥で笑った。
「あの男は欲深いが、商品は本物だ」
「会長も、今は泳がせておけと言っている」
「上等魔晶石は、あいつを引き止めるには最高の餌だからな」
護衛がさらに尋ねた。
「東門の方は、どうします?」
「予定どおりに人を向かわせろ」
グレイソンは答えた。
「人数は多めに用意して、あいつが何を企んでいるのか確かめる」
「本当に安定した仕入れ先を持っているなら、今後も利用する」
「だが、戦斧商会を騙そうとしているのなら……」
その先は口にしなかった。
ただ、冷たい笑い声だけが聞こえた。
やがて、足音が少しずつ遠ざかっていく。
アーガは暗がりの中で、しばらく動かなかった。
周囲が完全に静かになったことを確認する。
それから塀を越え、夜の黒槌町へ姿を消した。
◇ ◇ ◇
《樫木亭》へ戻った頃。
空はまだ暗かった。
リナは眠らず、外套を羽織ったまま窓辺に座っていた。
窓から小さな音が聞こえた瞬間。
すぐに立ち上がる。
「アーガ様!」
アーガが窓を越え、部屋へ入った。
静かに床へ着地する。
しかし、右脚から力が抜け、身体が大きく傾いた。
リナは慌てて駆け寄り、その身体を支える。
「傷が……!」
「大丈夫だ」
アーガは声を落として答えた。
「必要な物は手に入った」
懐から数枚の薄紙を取り出し、机の上へ並べる。
小さな灯りに照らされ、写し取られた文字が少しずつ浮かび上がった。
衛兵隊長への定例金。
北門の検査免除。
魔晶鉱粉の追加供給。
衝突期間中の値上げ。
リナは記録を一つずつ読み進めた。
その表情が、次第に冷たくなっていく。
「これは……」
「戦斧商会が衛兵を買収していた証拠だ」
アーガは答えた。
「それだけではない」
「リンタ村と陌狼村の争いを利用して、大量の魔晶鉱粉を売りつけていた記録も残っている」




