表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
128/217

第128話 会長

夜も深まった頃。


陌狼村の炎は、少しずつ遠ざかっていった。


黒い布で覆われた二台の小型荷馬車が、森の中の細い道を静かに進んでいる。


車輪には何重もの布が巻かれており、土の上を走ってもほとんど音がしなかった。


荷馬車を護衛する数人の狼族戦士も、灰色の外套で耳と尻尾を隠している。


遠くから見れば、ごく普通の夜間商隊にしか見えないだろう。


アーガとリナは、一台目の荷馬車の荷台に座っていた。


イータは陌狼村に残してきた。


村の医師と、数人の女性の狼族が看病している。


村を出る直前。


リナは、イータの寝台のそばに長い間立っていた。


イータは今も昏睡している。


熱に浮かされた頬は赤く、呼吸も浅かった。


リナは小さな手を握り締め、静かに囁いた。


「私たちが戻るまで、待っていてください」


それからようやく、アーガとともに村を出た。


◇ ◇ ◇


道中、誰も言葉を発しなかった。


アーガは荷台の壁へ背中を預け、負傷した右脚へ手を置いている。


馬車が揺れるたび、傷口から鋭い痛みが伝わった。


それでも、僅かに眉を寄せるだけで声は出さない。


リナは何度もアーガの様子を窺っていた。


やがて耐えきれなくなったように、小さな声で言う。


「アーガ様」


「少しお休みになった方がよいのではありませんか?」


「今はまだ休めない」


「ですが、その脚では……」


「折れてはいない」


アーガは平然と答えた。


「まだ歩ける」


リナは唇を噛んだ。


アーガは彼女の表情を見ると、僅かに声を和らげる。


「心配するな」


「意地を張って、自分から死ぬような真似はしない」


リナは少し黙ったあと、ぽつりと言った。


「以前も、同じことを仰っていました」


「……」


アーガは何も返せなかった。


◇ ◇ ◇


夜明け前。


薄い霧の向こうに、ようやく黒槌町の輪郭が見えてきた。


町の門を守る兵士たちは、大きな欠伸をしている。


真夜中に入ってくる荷馬車を、細かく調べる気はないらしい。


アーガはあらかじめ、何枚かの銅貨を渡した。


門番は黒い布を僅かに持ち上げ、荷台の中を適当に確認する。


「通れ」


それだけ言って、二台の荷馬車を町へ通した。


荷馬車は市場を避け、裏通りを通って《樫木亭》の裏口へ向かった。


宿の女主人は、アーガが事前に起こしていた。


荷物を一時的に保管したいと説明し、重そうな金袋を見せる。


女主人はすぐに事情を察したらしい。


余計な質問はせず、地下室の扉を開けた。


狼族戦士たちは、封をされた獣皮袋を一つずつ地下へ運び込んでいく。


外見は何の変哲もない袋だった。


だが、布の隙間からは淡い青色の光が漏れている。


アーガは、そのうちの一袋を開けた。


中に入っていた魔晶鉱粉を指先で掬い、品質を確かめる。


粉末は細かく、色も澄んでいた。


黒槌町の市場で売られていた、雑物だらけの商品とは比べものにならない。


「ご苦労だった」


アーガは袋の口を結び直し、狼族戦士たちへ言った。


先頭に立つ戦士が、冷たい目を向ける。


しかし、その瞳に含まれる敵意は、以前よりも僅かに薄れていた。


「族長の命令に従っただけだ」


「分かっている」


アーガは立ち上がった。


「お前たちのために、上の階へ何部屋か用意してある」


「夜が明けるまでは、勝手に外へ出ない方がいい」


狼族戦士は、そのような手配までされているとは思っていなかったらしい。


少し意外そうな表情を見せたあと、頷いた。


「感謝する」


「それと、もう一つ頼みがある」


「何だ?」


「二日後の夜、馬車を借りて南門で待っていてくれ」


戦士は理由を尋ねなかった。


「分かった」


外套を着直し、仲間たちとともに地下室を出る。


そのまま宿の従業員に案内され、上の階へ向かった。


地下室に残ったのは、アーガとリナだけだった。


リナは並べられた獣皮袋を見つめる。


「この魔晶鉱粉を、本当に戦斧商会へ渡すのですか?」


「渡す」


アーガは迷わず答えた。


「餌を惜しんでいては、大物は釣れない」


「ですが、これを手に入れた戦斧商会が、また獣人たちへ売るかもしれません」


「だからこそ、今回は連中の奥まで入り込む」


アーガは懐から、戦斧の鉄札を取り出した。


地下室の小さな窓へ目を向ける。


外の空は、すでに僅かに白み始めていた。


「そろそろ取引の時間だ」


◇ ◇ ◇


空が明るくなり始めた頃。


黒槌町の通りでは、すでに商人たちが露店の準備を始めていた。


アーガは、以前ガイアを名乗ったときと同じ服装へ着替えた。


さらに黒槌町に住む人間の荷運び人を数人雇い、地下室の魔晶鉱粉を荷車へ積ませる。


荷運び人たちは、何袋も並ぶ商品へ好奇の目を向けていた。


だが、アーガは最初に十分な金を渡している。


さらに、余計なことを聞くなと冷たい声で警告した。


そのため、誰も袋の中身を尋ねようとはしなかった。


リナは外套を深く被り、目立たないよう隊列の最後尾を歩く。


アーガは先頭に立ち、荷車を戦斧商会の本部へ向かわせた。


本部の正門に立つ護衛たちは、大量の荷物を積んだ荷車を見ると、すぐに警戒した。


「止まれ!」


「何者だ?」


アーガは説明しなかった。


懐から鉄札を取り出し、護衛へ投げ渡す。


「グレイソンに伝えろ」


「ガイアが来たとな」


護衛は鉄札を受け取った。


その表情が僅かに変わる。


裏面に刻まれた暗赤色の魔力刻印を入念に確認すると、急いで建物の中へ入っていった。


それほど待つことなく。


戦斧商会の大きな扉が開かれた。


満面の笑みを浮かべたグレイソンが、数人の管理者と護衛を連れて出てくる。


「ガイア殿!」


以前よりも、明らかに態度が親しげだった。


「約束を守ってくれたか」


「これほど早く商品を用意するとは、正直驚いたぞ」


アーガは薄く笑う。


「言ったはずだ」


「俺は小さな商売をするつもりはない」


グレイソンの視線が、荷車の獣皮袋へ移った。


瞳の奥には、期待を抑えきれない光が浮かんでいる。


「商品を確認しても?」


「もちろんだ」


アーガが手を上げる。


荷運び人たちは、一袋を荷車から下ろした。


グレイソンは自ら膝をつき、袋の口を解く。


淡い青色の光が、袋の中から溢れ出した。


朝日を受けた細かな粉末は、砕いた青い水晶の砂のように輝いている。


目で確認できる不純物は、ほとんど含まれていなかった。


グレイソンの笑みが、一瞬で深くなる。


指先で粉末を少量つまみ、指の腹で擦り合わせる。


続いて鼻先へ近づけ、僅かに匂いを嗅いだ。


その瞳に浮かぶ欲望を、今度は隠そうともしない。


「上物だ」


そばにいた管理者も、思わず呟いた。


「市場へ流している商品とは、品質がまるで違います」


グレイソンは立ち上がり、アーガを見た。


顔に浮かんだ笑みを、もはや抑えきれていない。


「ガイア殿」


「本当に驚かせてくれたな」


「俺には仕入れ先があると言っただろう」


アーガの口調は平静なままだった。


グレイソンは手についた粉末を払い落とす。


「この品質の商品となると、俺一人の判断では話を進められない」


アーガが僅かに眉を上げた。


「どういう意味だ?」


「会長がお前に会いたがっている」


グレイソンは身体を横へずらし、商会の中を示した。


「どうぞ、ガイア殿」


「戦斧商会の会長、バルカン様が自ら商談を行う」


アーガの胸の奥が、僅かに動いた。


(ようやく出てきたか)


しかし、表情には出さなかった。


ただ、淡々と頷く。


「お前より、会長の方が誠意を見せてくれることを期待しよう」


グレイソンは小さく笑った。


「会えば分かる」


アーガは荷運び人たちへ、商品を商会の中庭へ運ぶよう指示した。


そこから先は、戦斧商会の者たちが引き継ぐ。


リナは事前の取り決めどおり、建物の中へは入らなかった。


通りの向かい側にある茶店へ向かい、外から周囲の様子を監視する。


アーガはグレイソンに続き、戦斧商会の本部へ足を踏み入れた。


建物の内部へ正式に入るのは、これが初めてだった。


◇ ◇ ◇


一階の広間には、暗い色の石板が敷き詰められていた。


左右の展示台には、さまざまな武器や鉱石の見本が並べられている。


壁に掲げられているのは、暗赤色の旗。


中央には黒い戦斧の紋章が描かれていた。


さらに奥へ進むと、中庭へ続く広い廊下が現れる。


数歩進むごとに、武装した護衛が立っていた。


アーガは歩きながら、周囲の構造を静かに記憶していく。


(左側は倉庫)


(右側には帳場がある)


(二階が会客用の区画か)


(中庭の奥にも、まだ別の建物がある)


グレイソンは広間を抜け、アーガを二階の広い会客室へ案内した。


部屋の中には、すでに一人の男が待っていた。


非常に大柄な男だった。


主座へ腰掛けていても、その身体の大きさがはっきりと分かる。


肩幅は広く、灰黒色の短い髪をしていた。


額から顎まで、一本の古い傷痕が伸びている。


ただ座っているだけにもかかわらず、巨大な戦斧が机の前に置かれているような圧迫感を放っていた。


男の胸元には、金色の戦斧をかたどった徽章がつけられている。


グレイソンが頭を下げた。


「会長」


「ガイアを連れてまいりました」


バルカンは顔を上げ、アーガへ視線を向けた。


その瞬間。


アーガは、自分が大型の魔獣に狙われたような感覚を覚えた。


「お前がガイアか?」


「ああ」


アーガは頭を下げなかった。


怯えた様子も見せず、バルカンの正面にある椅子へ静かに腰を下ろす。


バルカンは数秒間、アーガを観察した。


やがて、喉の奥で笑う。


「肝が据わっているな」


「度胸のない者に、大きな商売はできない」


アーガは平然と答えた。


バルカンの笑みが、僅かに深くなる。


「商品は確認した」


「非常に質がいい」


「当然だ」


「量も悪くない」


バルカンは太い指で、机を数回叩いた。


「だが、こちらがさらに多くを求めたらどうする?」


「どれほどだ?」


バルカンは、必要とする量を口にした。


そばに立つグレイソンは何も言わない。


ただ、アーガの表情を注意深く観察していた。


それは、普通の商人が扱える範囲を遥かに超えた量だった。


小規模な鉱脈へ通じる経路を持っていたとしても、短期間で安定して用意するのは難しい。


アーガは数秒間、黙っていた。


「用意できる」


グレイソンの目が明るくなる。


バルカンも僅かに目を細めた。


アーガは椅子の背もたれへ身体を預け、続ける。


「それだけの量を用意することは可能だ」


「だが、今度はお前たちが誠意を見せる番だろう」


バルカンは黙ってアーガを見つめた。


アーガは視線を逸らさず、遠慮のない口調で言った。


「戦斧商会に、俺の商品をすべて扱えるだけの力があるのか」


「それを確認させてもらいたい」


部屋の空気が、一瞬で静まり返った。


グレイソンの表情が僅かに変わる。


アーガが、ここまで直接的な要求をするとは思っていなかったらしい。


バルカンは長い間、アーガを見つめ続けた。


次の瞬間。


「ははははっ!」


大きな笑い声が、会客室へ響き渡った。


バルカンは椅子から立ち上がる。


巨大な身体が、室内へ大きな影を落とした。


「面白い」


「ガイア、お前は私が考えていた以上に欲深く、そして頭が切れる」


アーガは否定しなかった。


「欲深い者の方が、長く生きられる」


「違うな」


バルカンは扉の前まで歩き、アーガへ振り返る。


「欲を通せるだけの力を持つ者が、長く生きられるのだ」


扉を押し開く。


「戦斧商会に資格があるのか見たいと言ったな」


「ならば、私が直々に案内してやろう」


アーガは立ち上がり、衣服の袖を整えた。


グレイソンが隣で笑う。


「ガイア殿」


「会長自ら案内するなど、普通の客には許されない待遇だぞ」


アーガは廊下の奥へ視線を向けた。


戦斧商会の内部にある灯りが、一つずつ点っていく。


まるで巨大な魔獣が、ゆっくりと喉の奥を開いているようだった。


自分が、一歩ずつ敵の腹の中へ入っていることは分かっている。


だが、内部に隠された心臓を見つけるためには、そこへ踏み込むしかない。


「では、案内してもらおう」


アーガは僅かに笑い、バルカンの後ろを追って商会の奥へ進んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ