第128話 会長
夜も深まった頃。
陌狼村の炎は、少しずつ遠ざかっていった。
黒い布で覆われた二台の小型荷馬車が、森の中の細い道を静かに進んでいる。
車輪には何重もの布が巻かれており、土の上を走ってもほとんど音がしなかった。
荷馬車を護衛する数人の狼族戦士も、灰色の外套で耳と尻尾を隠している。
遠くから見れば、ごく普通の夜間商隊にしか見えないだろう。
アーガとリナは、一台目の荷馬車の荷台に座っていた。
イータは陌狼村に残してきた。
村の医師と、数人の女性の狼族が看病している。
村を出る直前。
リナは、イータの寝台のそばに長い間立っていた。
イータは今も昏睡している。
熱に浮かされた頬は赤く、呼吸も浅かった。
リナは小さな手を握り締め、静かに囁いた。
「私たちが戻るまで、待っていてください」
それからようやく、アーガとともに村を出た。
◇ ◇ ◇
道中、誰も言葉を発しなかった。
アーガは荷台の壁へ背中を預け、負傷した右脚へ手を置いている。
馬車が揺れるたび、傷口から鋭い痛みが伝わった。
それでも、僅かに眉を寄せるだけで声は出さない。
リナは何度もアーガの様子を窺っていた。
やがて耐えきれなくなったように、小さな声で言う。
「アーガ様」
「少しお休みになった方がよいのではありませんか?」
「今はまだ休めない」
「ですが、その脚では……」
「折れてはいない」
アーガは平然と答えた。
「まだ歩ける」
リナは唇を噛んだ。
アーガは彼女の表情を見ると、僅かに声を和らげる。
「心配するな」
「意地を張って、自分から死ぬような真似はしない」
リナは少し黙ったあと、ぽつりと言った。
「以前も、同じことを仰っていました」
「……」
アーガは何も返せなかった。
◇ ◇ ◇
夜明け前。
薄い霧の向こうに、ようやく黒槌町の輪郭が見えてきた。
町の門を守る兵士たちは、大きな欠伸をしている。
真夜中に入ってくる荷馬車を、細かく調べる気はないらしい。
アーガはあらかじめ、何枚かの銅貨を渡した。
門番は黒い布を僅かに持ち上げ、荷台の中を適当に確認する。
「通れ」
それだけ言って、二台の荷馬車を町へ通した。
荷馬車は市場を避け、裏通りを通って《樫木亭》の裏口へ向かった。
宿の女主人は、アーガが事前に起こしていた。
荷物を一時的に保管したいと説明し、重そうな金袋を見せる。
女主人はすぐに事情を察したらしい。
余計な質問はせず、地下室の扉を開けた。
狼族戦士たちは、封をされた獣皮袋を一つずつ地下へ運び込んでいく。
外見は何の変哲もない袋だった。
だが、布の隙間からは淡い青色の光が漏れている。
アーガは、そのうちの一袋を開けた。
中に入っていた魔晶鉱粉を指先で掬い、品質を確かめる。
粉末は細かく、色も澄んでいた。
黒槌町の市場で売られていた、雑物だらけの商品とは比べものにならない。
「ご苦労だった」
アーガは袋の口を結び直し、狼族戦士たちへ言った。
先頭に立つ戦士が、冷たい目を向ける。
しかし、その瞳に含まれる敵意は、以前よりも僅かに薄れていた。
「族長の命令に従っただけだ」
「分かっている」
アーガは立ち上がった。
「お前たちのために、上の階へ何部屋か用意してある」
「夜が明けるまでは、勝手に外へ出ない方がいい」
狼族戦士は、そのような手配までされているとは思っていなかったらしい。
少し意外そうな表情を見せたあと、頷いた。
「感謝する」
「それと、もう一つ頼みがある」
「何だ?」
「二日後の夜、馬車を借りて南門で待っていてくれ」
戦士は理由を尋ねなかった。
「分かった」
外套を着直し、仲間たちとともに地下室を出る。
そのまま宿の従業員に案内され、上の階へ向かった。
地下室に残ったのは、アーガとリナだけだった。
リナは並べられた獣皮袋を見つめる。
「この魔晶鉱粉を、本当に戦斧商会へ渡すのですか?」
「渡す」
アーガは迷わず答えた。
「餌を惜しんでいては、大物は釣れない」
「ですが、これを手に入れた戦斧商会が、また獣人たちへ売るかもしれません」
「だからこそ、今回は連中の奥まで入り込む」
アーガは懐から、戦斧の鉄札を取り出した。
地下室の小さな窓へ目を向ける。
外の空は、すでに僅かに白み始めていた。
「そろそろ取引の時間だ」
◇ ◇ ◇
空が明るくなり始めた頃。
黒槌町の通りでは、すでに商人たちが露店の準備を始めていた。
アーガは、以前ガイアを名乗ったときと同じ服装へ着替えた。
さらに黒槌町に住む人間の荷運び人を数人雇い、地下室の魔晶鉱粉を荷車へ積ませる。
荷運び人たちは、何袋も並ぶ商品へ好奇の目を向けていた。
だが、アーガは最初に十分な金を渡している。
さらに、余計なことを聞くなと冷たい声で警告した。
そのため、誰も袋の中身を尋ねようとはしなかった。
リナは外套を深く被り、目立たないよう隊列の最後尾を歩く。
アーガは先頭に立ち、荷車を戦斧商会の本部へ向かわせた。
本部の正門に立つ護衛たちは、大量の荷物を積んだ荷車を見ると、すぐに警戒した。
「止まれ!」
「何者だ?」
アーガは説明しなかった。
懐から鉄札を取り出し、護衛へ投げ渡す。
「グレイソンに伝えろ」
「ガイアが来たとな」
護衛は鉄札を受け取った。
その表情が僅かに変わる。
裏面に刻まれた暗赤色の魔力刻印を入念に確認すると、急いで建物の中へ入っていった。
それほど待つことなく。
戦斧商会の大きな扉が開かれた。
満面の笑みを浮かべたグレイソンが、数人の管理者と護衛を連れて出てくる。
「ガイア殿!」
以前よりも、明らかに態度が親しげだった。
「約束を守ってくれたか」
「これほど早く商品を用意するとは、正直驚いたぞ」
アーガは薄く笑う。
「言ったはずだ」
「俺は小さな商売をするつもりはない」
グレイソンの視線が、荷車の獣皮袋へ移った。
瞳の奥には、期待を抑えきれない光が浮かんでいる。
「商品を確認しても?」
「もちろんだ」
アーガが手を上げる。
荷運び人たちは、一袋を荷車から下ろした。
グレイソンは自ら膝をつき、袋の口を解く。
淡い青色の光が、袋の中から溢れ出した。
朝日を受けた細かな粉末は、砕いた青い水晶の砂のように輝いている。
目で確認できる不純物は、ほとんど含まれていなかった。
グレイソンの笑みが、一瞬で深くなる。
指先で粉末を少量つまみ、指の腹で擦り合わせる。
続いて鼻先へ近づけ、僅かに匂いを嗅いだ。
その瞳に浮かぶ欲望を、今度は隠そうともしない。
「上物だ」
そばにいた管理者も、思わず呟いた。
「市場へ流している商品とは、品質がまるで違います」
グレイソンは立ち上がり、アーガを見た。
顔に浮かんだ笑みを、もはや抑えきれていない。
「ガイア殿」
「本当に驚かせてくれたな」
「俺には仕入れ先があると言っただろう」
アーガの口調は平静なままだった。
グレイソンは手についた粉末を払い落とす。
「この品質の商品となると、俺一人の判断では話を進められない」
アーガが僅かに眉を上げた。
「どういう意味だ?」
「会長がお前に会いたがっている」
グレイソンは身体を横へずらし、商会の中を示した。
「どうぞ、ガイア殿」
「戦斧商会の会長、バルカン様が自ら商談を行う」
アーガの胸の奥が、僅かに動いた。
(ようやく出てきたか)
しかし、表情には出さなかった。
ただ、淡々と頷く。
「お前より、会長の方が誠意を見せてくれることを期待しよう」
グレイソンは小さく笑った。
「会えば分かる」
アーガは荷運び人たちへ、商品を商会の中庭へ運ぶよう指示した。
そこから先は、戦斧商会の者たちが引き継ぐ。
リナは事前の取り決めどおり、建物の中へは入らなかった。
通りの向かい側にある茶店へ向かい、外から周囲の様子を監視する。
アーガはグレイソンに続き、戦斧商会の本部へ足を踏み入れた。
建物の内部へ正式に入るのは、これが初めてだった。
◇ ◇ ◇
一階の広間には、暗い色の石板が敷き詰められていた。
左右の展示台には、さまざまな武器や鉱石の見本が並べられている。
壁に掲げられているのは、暗赤色の旗。
中央には黒い戦斧の紋章が描かれていた。
さらに奥へ進むと、中庭へ続く広い廊下が現れる。
数歩進むごとに、武装した護衛が立っていた。
アーガは歩きながら、周囲の構造を静かに記憶していく。
(左側は倉庫)
(右側には帳場がある)
(二階が会客用の区画か)
(中庭の奥にも、まだ別の建物がある)
グレイソンは広間を抜け、アーガを二階の広い会客室へ案内した。
部屋の中には、すでに一人の男が待っていた。
非常に大柄な男だった。
主座へ腰掛けていても、その身体の大きさがはっきりと分かる。
肩幅は広く、灰黒色の短い髪をしていた。
額から顎まで、一本の古い傷痕が伸びている。
ただ座っているだけにもかかわらず、巨大な戦斧が机の前に置かれているような圧迫感を放っていた。
男の胸元には、金色の戦斧をかたどった徽章がつけられている。
グレイソンが頭を下げた。
「会長」
「ガイアを連れてまいりました」
バルカンは顔を上げ、アーガへ視線を向けた。
その瞬間。
アーガは、自分が大型の魔獣に狙われたような感覚を覚えた。
「お前がガイアか?」
「ああ」
アーガは頭を下げなかった。
怯えた様子も見せず、バルカンの正面にある椅子へ静かに腰を下ろす。
バルカンは数秒間、アーガを観察した。
やがて、喉の奥で笑う。
「肝が据わっているな」
「度胸のない者に、大きな商売はできない」
アーガは平然と答えた。
バルカンの笑みが、僅かに深くなる。
「商品は確認した」
「非常に質がいい」
「当然だ」
「量も悪くない」
バルカンは太い指で、机を数回叩いた。
「だが、こちらがさらに多くを求めたらどうする?」
「どれほどだ?」
バルカンは、必要とする量を口にした。
そばに立つグレイソンは何も言わない。
ただ、アーガの表情を注意深く観察していた。
それは、普通の商人が扱える範囲を遥かに超えた量だった。
小規模な鉱脈へ通じる経路を持っていたとしても、短期間で安定して用意するのは難しい。
アーガは数秒間、黙っていた。
「用意できる」
グレイソンの目が明るくなる。
バルカンも僅かに目を細めた。
アーガは椅子の背もたれへ身体を預け、続ける。
「それだけの量を用意することは可能だ」
「だが、今度はお前たちが誠意を見せる番だろう」
バルカンは黙ってアーガを見つめた。
アーガは視線を逸らさず、遠慮のない口調で言った。
「戦斧商会に、俺の商品をすべて扱えるだけの力があるのか」
「それを確認させてもらいたい」
部屋の空気が、一瞬で静まり返った。
グレイソンの表情が僅かに変わる。
アーガが、ここまで直接的な要求をするとは思っていなかったらしい。
バルカンは長い間、アーガを見つめ続けた。
次の瞬間。
「ははははっ!」
大きな笑い声が、会客室へ響き渡った。
バルカンは椅子から立ち上がる。
巨大な身体が、室内へ大きな影を落とした。
「面白い」
「ガイア、お前は私が考えていた以上に欲深く、そして頭が切れる」
アーガは否定しなかった。
「欲深い者の方が、長く生きられる」
「違うな」
バルカンは扉の前まで歩き、アーガへ振り返る。
「欲を通せるだけの力を持つ者が、長く生きられるのだ」
扉を押し開く。
「戦斧商会に資格があるのか見たいと言ったな」
「ならば、私が直々に案内してやろう」
アーガは立ち上がり、衣服の袖を整えた。
グレイソンが隣で笑う。
「ガイア殿」
「会長自ら案内するなど、普通の客には許されない待遇だぞ」
アーガは廊下の奥へ視線を向けた。
戦斧商会の内部にある灯りが、一つずつ点っていく。
まるで巨大な魔獣が、ゆっくりと喉の奥を開いているようだった。
自分が、一歩ずつ敵の腹の中へ入っていることは分かっている。
だが、内部に隠された心臓を見つけるためには、そこへ踏み込むしかない。
「では、案内してもらおう」
アーガは僅かに笑い、バルカンの後ろを追って商会の奥へ進んだ。




