第127話 夜談
広場を照らしていた炎は、少しずつ弱まっていった。
負傷者たちは次々と運び出され、焼け落ちた木造家屋の周辺には、瓦礫を片づける数人の狼族戦士だけが残っている。
リンタ村の者たちも、トムとホーンに率いられて村の外まで退いていた。
双方とも一時的に武器を収めたものの、互いへ向ける視線には、依然として強い警戒が残っている。
アーガは、急ごしらえの木造小屋の下に座っていた。
右脚には何重にも包帯が巻かれている。
処置は受けたものの、傷口からは絶えず鈍い痛みが伝わってきた。
ヴォルフガ族長は、数人の隊長に囲まれながら、その場を離れようとしていた。
アーガが顔を上げる。
ちょうど、族長の視線と重なった。
アーガは何も言わなかった。
ただ、ほんの僅かに目を細め、族長を見つめる。
助けを求める視線ではない。
何かを伝えようとする、合図に近いものだった。
ヴォルフガ族長の足が、僅かに止まった。
老いた右目が鋭く細められる。
しかし、何も言わないまま木杖をつき、背を向けて歩き出した。
セリーナも一度だけ振り返った。
複雑な表情でアーガを見つめたあと、族長の後ろへ続いていく。
リナはアーガのそばへ膝をつき、右脚に巻かれた包帯をもう一度強く押さえた。
「アーガ様」
「まだ痛みますか?」
「それほどでもない」
アーガは答えた。
「嘘です」
リナは俯いたまま、少し拗ねたような声を出す。
アーガは彼女を見た。
だが、それ以上は何も言わなかった。
イータは、火災を免れた別の木造家屋へ移されている。
陌狼村の医師が、少しずつ薬を飲ませていた。
毒の進行は一時的に抑えられたものの、高熱は下がっていない。
意識も混濁したままだ。
時折、苦しそうに小さな寝言を漏らしている。
アーガは、イータが眠る木造家屋へ目を向けた。
指が、ゆっくりと握り締められる。
(時間を無駄にはできない)
◇ ◇ ◇
夜の闇が、完全に陌狼村を覆った。
それでも、村に平穏は戻っていない。
巡回する戦士たちの足音は、以前よりも頻繁に聞こえてくる。
木柵の外側には何本もの松明が立てられ、空気には焼け焦げた木材の臭いが残っていた。
村の者たちの多くは、重傷を負ったアーガがすでに眠ったと思っていた。
しかし、深夜。
アーガは外套を羽織り、静かに木造小屋を出た。
扉のそばでは、リナが待っていた。
「私もご一緒します」
アーガは彼女を見る。
「お前はここに残って、イータを見ていてくれ」
「イータのそばには、医師と二人の狼族戦士がいます」
リナは声を落として答えた。
「今のアーガ様は脚を負傷しています」
「一人で行動するのは無理があります」
アーガはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「俺から離れるな」
「はい」
二人は暗い村道を進み、ヴォルフガ族長のいる大天幕へ向かった。
天幕の外には、二人の狼族兵士が立っていた。
アーガの姿を見ると、すぐに長槍を交差させて道を塞ぐ。
「族長はすでに休まれている」
アーガは足を止めた。
「話がある」
「明日にしろ」
兵士の口調には、取りつく島もない。
リナが眉を寄せ、何か言おうとした。
そのとき。
大天幕の垂れ幕が、内側から持ち上げられた。
厚い獣皮の外套をまとったヴォルフガ族長が、灯りを背にして立っている。
橙色の光が、深い皺の刻まれた顔を照らしていた。
鋭い右目には、眠気など少しも浮かんでいない。
「通せ」
二人の兵士が僅かに驚く。
すぐに頭を下げ、道を開けた。
「はっ、族長」
アーガは天幕の中へ入る。
リナも、その後ろへ続いた。
室内で燃えているのは、一つの獣脂灯だけだった。
机の上には何枚もの粗い地図が広げられている。
その隣には、今夜ホーンが持ってきた差出人不明の手紙が置かれていた。
やはり、ヴォルフガ族長はまだ休んでいなかったらしい。
アーガは族長を見る。
「やはり、まだ起きていたか」
ヴォルフガ族長はゆっくりと主座へ戻った。
木杖を手の届く位置へ立て掛ける。
「先ほど、目で合図を送ってきたのはお前だろう」
「何か話があるのだと思っていた」
アーガは否定しなかった。
「ああ」
ヴォルフガ族長の視線が、リナへ向けられる。
アーガが先に口を開いた。
「彼女には聞かせて構わない」
リナは何も言わず、アーガのそばへ静かに立っていた。
ヴォルフガ族長は一瞬だけ考える。
そして、頷いた。
「話せ」
アーガは声を落とした。
「陌狼村の中に、裏で情報を流している者がいる可能性が高い」
「今夜、リンタ村の者たちが、正確に防備の薄い場所を狙ったことが証拠だ」
ヴォルフガ族長の表情が険しくなる。
「村の中に、裏切り者がいると言いたいのか?」
「いると断定しているわけではない」
アーガは答えた。
「だが、必ずその可能性を前提として動く必要がある」
「そうでなければ、説明できないことが多すぎる」
「あの手紙が現れた時期も、書かれていた襲撃場所も正確すぎる」
ヴォルフガ族長は反論しなかった。
アーガは続ける。
「だから、先ほど広場では本当の計画を話せなかった」
「本当の計画?」
アーガは懐へ手を入れた。
一枚の鉄札を取り出し、机の上へ置く。
――カンッ。
鉄札の表面には、暗赤色の戦斧の紋章が刻まれていた。
ヴォルフガ族長の瞳が、瞬間的に鋭くなる。
「戦斧商会か」
「すでに一度、連中と接触している」
アーガは言った。
「偽名を使い、取引の話を持ちかけた」
「そのとき名乗った名前は、ガイアだ」
「今の戦斧商会は、俺が赤骸城周辺の鉱脈へ通じる経路を持ち、魔晶鉱粉を調達できると思っている」
リナは大まかな事情を聞いていた。
それでも、改めて詳細を聞かされ、僅かに目を見開いた。
ヴォルフガ族長の手が、ゆっくりと木杖へ置かれる。
「なぜ、今まで話さなかった?」
「知る者を増やせなかったからだ」
アーガは平静に答える。
「この情報が外へ漏れれば、俺は二度と戦斧商会へ入れなくなる」
天幕の中が静かになった。
獣脂灯の炎が揺れ、三人の影が天幕の布へ映し出される。
しばらくして。
ヴォルフガ族長が尋ねた。
「私に何を求めている?」
「魔晶鉱粉だ」
族長の目が、一気に冷たくなる。
アーガは視線を逸らさなかった。
「それも、最も品質の高い物が必要だ」
リナがアーガの横顔を見る。
アーガはそのまま説明を続けた。
「四日前、戦斧商会と取引の約束をした」
「連中は近いうちに、大量の魔晶鉱粉を必要としている」
「期日までに商品を持ち込み、品質にも問題がなければ、さらに信用を得られる」
「そうすれば、戦斧商会の奥へ入り込み、より多くの情報を調べられるはずだ」
ヴォルフガ族長が低い声で言う。
「我が一族の魔晶鉱粉を、お前へ渡せと言うのか?」
「俺が使うわけではない」
アーガは族長を見つめた。
「連中を釣るための餌にする」
ヴォルフガ族長は、すぐには答えなかった。
魔晶鉱粉が、現在の陌狼村にとって何を意味するのか。
族長自身が、誰よりも理解している。
危険な物ではある。
それでも、人間との衝突がいつ再開するか分からない状況では、戦士たちの力を短時間で引き上げられる貴重な物資だった。
特に今夜、村が襲撃されたばかりだ。
魔晶鉱粉を手放すことへ反対する者は、以前より増えるに違いない。
「これが今の陌狼村にとって重要な物だということは分かっている」
アーガは言った。
「だが、依存し続ければ、戦斧商会の思いどおりに動かされるだけだ」
ヴォルフガ族長の右目が細められる。
アーガはさらに声を落とした。
「族長」
「今夜、焼け死にかけたのは、あなたの子供たちだ」
「イータも今、毒に苦しんでいる」
「次に誰が毒に侵されるのかは、誰にも分からない」
その言葉が針のように、天幕の沈黙へ突き刺さった。
ヴォルフガ族長は、ゆっくりと目を閉じる。
長い沈黙のあと。
再び目を開いた。
声は僅かに掠れていた。
「お前は、私の子供たちを救った」
アーガは何も答えない。
「本来なら、人間など信用すべきではない」
ヴォルフガ族長は続ける。
「だが、お前が本当にリンタ村から送り込まれた間者なら、今夜、炎の中へ飛び込んで子供たちを救うことはなかっただろう」
族長は木杖を持ち上げ、地面へ強く打ちつけた。
――ドンッ。
「誰かいるか」
すぐに、一人の狼族の親衛が天幕へ入ってきた。
「族長」
ヴォルフガ族長は命じる。
「倉庫へ行き、魔晶鉱粉を一組持ってこい」
「最も品質の高い物だけを選べ」
親衛が驚いたように顔を上げた。
「族長、それは……」
「秘密裏に行え」
ヴォルフガ族長は言葉を遮った。
「ほかの者には知らせるな」
「信用できる戦士を二人だけ連れていけ」
親衛は奥歯を噛み締める。
それでも、すぐに頭を下げた。
「承知しました」
アーガは静かに息を吐いた。
「助かる」
ヴォルフガ族長は冷たい視線を向ける。
「まだ礼を言うな」
「人間よ」
「お前に機会を与えるのは、今回だけだ」
「それで十分だ」
アーガは膝へ手を置き、立ち上がろうとした。
その瞬間。
右脚に、傷口を引き裂かれるような激痛が走る。
アーガの顔が、僅かに青ざめた。
リナはすぐに身体を支えた。
ヴォルフガ族長が、包帯の巻かれた右脚を見る。
「その状態で、自ら向かうつもりか?」
「連中が信用しているのは、ガイアを名乗った俺だ」
アーガは答える。
「それに、副会長のグレイソンとはすでに顔を合わせている」
「別の者を行かせれば、かえって疑われる」
ヴォルフガ族長はしばらく沈黙した。
やがて、天幕を出ようとしていた親衛へ視線を向ける。
「この者の言うとおりにしろ」
「はっ」




