第126話 交渉
陌狼村の外周では、何軒もの木造家屋が焼け落ちていた。
地面には、負傷した人間と獣人が倒れている。
すでに武器を振るう者はいなかった。
しかし、両者は一定の距離を空けたまま睨み合っている。
その瞳に浮かんでいるのは、憎しみと警戒だけだった。
しばらくして。
トムも数人のリンタ村の住民を連れ、村へ駆けつけた。
瓦礫のそばで倒れているアーガを見た瞬間、老人の顔色が変わる。
「早くしろ!」
「この子を引っ張り出すんだ!」
トムとホーン。
さらに数人の狼族戦士が協力し、アーガの右脚を押さえていた焼けた木材を持ち上げた。
アーガは瓦礫のそばから運び出される。
右脚は血と肉で酷い状態になっていた。
鞭で打たれた手の甲からも、まだ血が流れ続けている。
その顔は、恐ろしいほど青白かった。
リナはイータを抱いたまま、赤くなった目を伏せていた。
今にも泣き出しそうだったが、必死に涙を堪えている。
「先に、イータを屋内へ運んでくれ」
アーガは荒い息を吐きながら言った。
「毒に侵されている」
「症状は、あの二人の子供たちと同じだ」
その言葉が落ちた瞬間。
周囲が一度、静まり返った。
◇ ◇ ◇
人間たちは片側へ集まり、狼族たちは反対側へ並んでいた。
二つの集団の間には、炎で真っ黒に焼け焦げた空き地が広がっている。
ヴォルフガ族長は杖をつき、獣人側の先頭に立っていた。
その表情は暗く険しい。
ブラクは戦斧を握ったまま、激しく肩を上下させている。
未だに怒りを抑えきれていないらしい。
セリーナは族長のそばに立ち、応急手当を受けたアーガへ複雑な視線を向けていた。
反対側では、トムがリンタ村の者たちの前へ立っている。
眉間には深い皺が寄っていた。
ホーンは俯いたまま、何も言わない。
全身に煤がつき、その顔は今まで見たどのときよりも険しかった。
アーガは一枚の木板の上へ座らされていた。
右脚はリナによって簡単な処置を受けている。
痛みはすでに、感覚が麻痺しそうなほど強かった。
イータは負傷者を収容するための仮設小屋へ運ばれている。
現在は陌狼村の医師が診ていた。
だが、状態は決して良くない。
そのことを考えると、アーガの指がゆっくりと握り締められた。
ヴォルフガ族長が、低い声で問いかける。
「リンタ村の人間たちよ」
「なぜ、我々の村で防備が最も薄い場所を知っていた?」
トムはホーンへ視線を向けた。
ホーンは奥歯を噛み締める。
そして、懐から汗で湿った一枚の紙を取り出した。
「村の入り口に置かれていた」
ホーンは言った。
「今夜、陌狼村の北側は防備が最も薄くなると書いてあった」
「族長の子供たちは、村の中央近くにある古い木造小屋へ移されたとも」
紙を握る手に力が入る。
「お前たちを交渉の場へ引きずり出したければ、北側から入れ」
「空き家を何軒か燃やし、混乱を起こせと書かれていた」
「だから、本当に襲撃したのか!」
ブラクが怒鳴った。
ホーンも拳を強く握り締める。
「俺たちだって、本気で人を殺すつもりはなかった!」
「お前たちを村の外へ出して、話し合いの場を作ろうとしただけだ!」
「話し合いだと?」
ブラクは牙を剥き出しにし、嘲るように笑った。
「松明と弓を持って押しかけることを、話し合いと呼ぶのか?」
「お前たちが先にリンタ村を襲うと思っていたんだ!」
ホーンも大声で言い返した。
「あの手紙には、今夜お前たちが魔晶鉱粉を使い、村を襲撃すると書かれていた!」
双方の空気が、再び一気に張り詰めた。
アーガは片手を差し出す。
「その手紙を見せてくれ」
ホーンは一度アーガを見たあと、紙を手渡した。
アーガは手紙を開く。
文字には、特に目立った特徴がない。
内容も短く、書いた者の癖が残らないよう、意図的に簡潔にまとめられていた。
しばらく見つめたあと、アーガは眉を寄せる。
「確かに妙な手紙だ」
「だが、これは俺の字ではない」
ブラクが冷たく言い放つ。
「筆跡を偽装した可能性もあるだろう」
アーガは顔を上げた。
「俺は、ここにいる誰にも手紙を送っていない」
「お前以外に誰がいる!」
ブラクが一歩前へ出る。
口元から鋭い牙が覗いた。
「昨日は村の中を歩き回り、今日になって村を出た」
「その日の夜に、リンタ村の連中が防備の薄い場所を知って襲ってきたんだぞ」
「あまりにも都合がよすぎる!」
セリーナは何も言わなかった。
しかし、金属の長鞭を握る手から力は抜けていない。
アーガは深く息を吸った。
右脚から響く激痛を、どうにか押さえ込む。
「第一に、昨日村の中を歩いたことは認める」
「だが、常にお前たちの誰かが俺を監視していた」
「本当に重要な場所へは、一度も近づけていない」
数人の隊長が、無意識にヴォルフガ族長へ視線を向けた。
族長は何も答えなかった。
だが、その沈黙自体が、アーガの言葉を肯定していた。
ブラクの表情が僅かに険しくなる。
それでも、引き下がろうとはしない。
「だから何だ!」
「別の方法で情報を渡したに決まっている!」
「合図か、事前の取り決めか……」
「あるいは、お前たち人間にしか分からない手段を使ったんだ!」
アーガはブラクを見つめた。
「なら、イータはどう説明する?」
「……何?」
ブラクの動きが止まる。
アーガの声は低くなった。
しかし、先ほどよりも冷たく、はっきりと響いた。
「イータも毒に侵された」
周囲が静まり返る。
アーガは、イータが運び込まれた小屋を指さした。
「症状は、ヴォルフガ族長の子供たちと同じだ」
「高熱」
「意識の混濁」
「魔力の乱れ」
「そして、毒が少しずつ内臓を侵食している」
誰も言葉を発しなかった。
「もし俺がリンタ村の人間たちと手を組んでいるなら」
「もし、この襲撃も中毒事件も俺が仕組んだのなら」
アーガはブラクを真っ直ぐに見返す。
「なぜイータまで毒に侵される必要がある?」
答える者はいなかった。
ブラクは口を開きかけた。
しかし、何も言うことができず、そのまま唇を閉じる。
セリーナの瞳にも、僅かな迷いが浮かんでいた。
トムはイータのいる小屋へ視線を向け、表情をさらに重くする。
アーガは両手を膝へ置いた。
そして、ゆっくりと身体を持ち上げる。
「アーガ様!」
リナが慌てて身体を支えた。
「無理をしてはいけません!」
「大丈夫だ」
右脚へ力が加わる。
その瞬間。
視界が真っ黒になりかけるほどの激痛が走った。
それでも、アーガはどうにか立ち続けた。
ヴォルフガ族長を見る。
続いて、トムへ視線を向けた。
「五日間」
掠れた声で告げる。
「俺に五日間だけ、時間をください」
「必ず、この事件の真相を突き止めます」
ブラクは奥歯を噛み締めた。
「何を根拠に、お前を信じろと言うんだ?」
「今の俺には、保証として差し出せる物が何もない」
アーガはそう答えた。
そして突然。
自分を支えていたリナの手を離す。
次の瞬間。
その場にいた全員が見つめる中で、アーガはゆっくりと膝をついた。
傷ついた膝が、焼け焦げた土へ触れる。
――トン。
小さな音が響いた。
その場にいた誰もが、驚いたように目を見開く。
リナの瞳が大きく揺れた。
「アーガ様!」
イータのいる小屋から、弱々しい咳が聞こえてきた。
アーガは頭を下げた。
この動作によって、右脚の傷口から再び血が滲み始める。
包帯が、少しずつ赤く染まっていった。
「俺を信じてください」
声は決して大きくなかった。
それでも、その場にいる全員の耳へはっきりと届いた。
「五日後までに答えを出せなかったなら、俺を殺して構いません」
「そのあとで、好きなだけ戦争を始めればいい」
ブラクが目を見開いた。
セリーナも動きを止めている。
トムとホーンも、その場に立ったまま何も言えなかった。
アーガは顔を上げ、ヴォルフガ族長を見つめる。
「ですが、今はイータを助けてください」
ついに、その声が僅かに震えた。
「彼女は獣人です」
「それでも、俺と長い間一緒に旅をしてきた」
「俺の大切な仲間です」
赤骸城で、鎖につながれていたイータの姿が脳裏に浮かんだ。
痩せ細り、自分の足で立つことさえ難しかった小さな白狐。
一本の焼き肉を買ってもらっただけで、いつまでも嬉しそうにしていた少女。
不器用に戦い方を練習し。
自分は足手まといではないかと、怯えながら尋ねてきたイータ。
「このまま何もしなければ、イータは今夜死ぬ」
アーガは、さらに深く頭を下げた。
額が焼けた地面へ触れそうになる。
「お願いします」
「二つの村の争いも、この中毒事件も、俺が必ず調べ上げます」
焼け焦げた柱の間を、風が通り抜けた。
灰が舞い上がり、広場の上を流れていく。
周囲は、火の粉が時折弾ける音しか聞こえないほど静かだった。
ブラクの唇が動く。
その瞳には一瞬、明らかな迷いが浮かんだ。
しかし、すぐに奥歯を噛み締める。
「駄目だ」
「人間一人の言葉など――」
「もういい」
ヴォルフガ族長が、ブラクの言葉を遮った。
「族長!」
ブラクが勢いよく振り返る。
ヴォルフガ族長は彼を見なかった。
ただ、地面へ跪いているアーガを静かに見つめ続けている。
長い沈黙のあと。
族長は、ゆっくりと口を開いた。
「よかろう」
ブラクが固まる。
セリーナも驚いたように顔を上げた。
ヴォルフガ族長の声は低い。
しかし、その場にいる全員を黙らせるだけの威厳があった。
「五日間だ」
「その間、陌狼村からリンタ村を攻撃することはない」
「白狐族の娘についても、我々が可能な限り治療する」
アーガの肩から、僅かに力が抜けた。
「ありがとうございます」
反対側では、ホーンが複雑な表情でトムを見ていた。
「トム……」
「これは……」
トムは杖へ両手を置き、しばらく黙っていた。
やがて、静かに答える。
「俺が村長へ話す」
ホーンは眉を寄せた。
「だが、村の連中は簡単には納得しないぞ」
「分かっている」
トムは顔を上げた。
陌狼村に残された、焼け落ちた家々を見つめる。
「だが、今夜はもう十分だ」
そして、アーガへ視線を向けた。
その目には、これまでになかった複雑な感情が浮かんでいる。
「リンタ村も、この五日間は手を出さないよう説得する」
アーガは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
リナが急いで近づき、アーガの腕を取った。
支える指先が、激しく震えている。
「アーガ様」
「もう立ってください」
アーガは立ち上がろうとした。
しかし、右脚には完全に力が入らない。
身体が大きく揺れ、そのまま倒れそうになる。
そのとき。
カインが黙って歩み寄り、アーガの反対側の肩を支えた。
アーガは驚いたように彼を見る。
カインは視線を合わせなかった。
ただ、小さな声で言う。
「勘違いするな」
「お前が早く死ねば、真相を調べる者がいなくなるから支えているだけだ」
アーガは一瞬、目を丸くした。
やがて、僅かに笑う。
「それでも、助かる」
カインは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
遠くにある、イータの運び込まれた小屋。
その中では、医師が薬を煮るよう周囲へ指示を出していた。
リナに身体を支えられながら、アーガは半分開いた扉を見つめる。
屋内の橙色の灯りが、風に揺れていた。
今にも消えてしまいそうな、小さな炎のようだった。
アーガの瞳から、少しずつ温度が失われていく。
五日以内に。
毒を盛った者を見つける。
手紙を送った者を見つける。
そして、《戦斧》の背後で糸を引いている存在を暴かなければならない。
さもなければ。
イータは死ぬかもしれない。
陌狼村とリンタ村も、今度こそ本当の戦争を始めるだろう。
(《戦斧》……)
(《一号》……)
(そして、二つの村の間に潜んでいる裏切り者)
アーガは拳を強く握り締めた。
(今度こそ、必ず引きずり出してやる)




