第125話 中毒
リナは慌てて、倒れかけたイータの身体を支えた。
「イータ?」
イータの額が、リナの掌へ触れる。
その瞬間。
リナの表情が一変した。
「熱い……!」
「ものすごい熱です!」
アーガの胸が、強く締めつけられた。
すぐにイータの手首をつかみ、僅かな魔力を身体の中へ流し込む。
次の瞬間。
アーガの顔から血の気が引いた。
イータの体内を流れる魔力が、激しく乱れている。
血液の中には、極めて細かな冷気のようなものが混じり、少しずつ内臓へ染み込んでいた。
この反応は――。
陌狼村で倒れていた、あの二人の狼族の子供とまったく同じだった。
「くそ……」
アーガは低い声で吐き捨てた。
リナが焦ったように尋ねる。
「アーガ様、毒なのですか?」
「ああ」
アーガは奥歯を噛み締めた。
「陌狼村の子供たちと同じ毒だ」
イータの意識は、すでに薄れ始めていた。
白い狐耳が力なく垂れ下がり、尻尾も麻袋の上へ落ちている。
「アーガ様……」
「私……足手まといに、なりましたか……?」
「喋るな!」
アーガの声には、普段にはない冷たさがあった。
イータの小さな身体を抱き上げ、自分の胸元へ寄りかからせる。
そして、カードケースから一枚のカードを取り出した。
――青カード5《浄化場》。
淡い青色の光が、アーガの掌で灯る。
しかし、その光はすぐに抑え込まれた。
(駄目だ)
上等魔晶石を使って力を引き出さなければ、このカードでは完全な浄化はできない。
今の状態で無理に使っても、症状を一時的に抑えるのが限界だ。
しかも、イータはまだ幼い。
身体の強さも、狼族の子供たちには及ばない。
今夜までに何か手を打たなければ、命が持たない可能性がある。
「いつだ……」
アーガは熱に浮かされたイータの顔を見つめた。
その瞳には、恐ろしいほど暗い光が浮かんでいる。
ここ数日で口にした物。
泊まった場所。
接触した者。
一つずつ、頭の中へ浮かべていく。
黒槌町か。
陌狼村か。
それとも、さらに前からなのか。
(違う)
(相手は、狼族の子供だけを狙っていたわけじゃない)
争いを引き起こすきっかけとなる《獣人》を狙っている。
イータはアーガと行動していたために、巻き込まれただけなのだ。
そう考えた瞬間。
アーガの胸が、強く握り潰されたように痛んだ。
「御者!」
勢いよく荷台の幕を開く。
馬を操っていた中年の男が、驚いて肩を震わせた。
「な、何だ?」
「馬車を戻せ」
「陌狼村へ向かう」
「今からか?」
御者の顔色が変わった。
「もうすぐ日が沈むぞ」
「道も悪い。それに――」
アーガは、一枚の金貨を投げた。
――チャリン。
金貨が御者の足元へ落ち、澄んだ音を立てる。
「最速で頼む」
御者は金貨を見下ろした。
続いて、アーガの腕の中で苦しんでいるイータを見る。
数秒迷ったあと。
歯を食いしばり、勢いよく手綱を引いた。
「分かった!」
「はあっ!」
馬車は泥の道の上で、強引に方向を変えた。
車輪が小石を踏みつけ、荷台全体が激しく揺れる。
リナは慌てて壁へ手をついた。
「アーガ様」
「陌狼村へ戻るのですか?」
「あの辺りで獣人の毒を治療できそうな場所は、陌狼村しかない」
アーガは低い声で答えた。
「少なくとも、村の医師はあの子供たちの症状を診ている」
「まずイータを連れ戻して、今夜を乗り越えさせる」
リナは唇を強く噛んだ。
「ですが、私たちを信じてくれるでしょうか?」
アーガは答えなかった。
ただ、イータを抱く腕へ、さらに力を込める。
掌を背中へ当て、弱い魔力を流し続けた。
イータの呼吸は、少しずつ速くなっている。
口からは、時折意味の分からない声が漏れた。
「アーガ……様……」
「ここにいる」
アーガは顔を近づけ、囁くように答えた。
「だから、持ちこたえろ」
イータに声が届いたのかは分からない。
ただ無意識に、アーガの胸へ少しだけ身体を寄せた。
◇ ◇ ◇
馬車は街道を全速力で走り続けた。
あっという間に夜の闇が降り、周囲の森は巨大な黒い影へ変わる。
車輪が何度も石へぶつかり、荷台は激しく上下した。
リナは何度も倒れそうになりながらも、イータの身体を支え続ける。
夜に入ってしばらくした頃。
遠くに、ようやく陌狼村の明かりが見えてきた。
しかし。
アーガはすぐに異変へ気づいた。
「……おかしい」
明かりが強すぎる。
巡回隊が持つ松明の光ではない。
建物が燃えているときに、空へ噴き上がる赤い炎だった。
次の瞬間。
夜風に乗って、激しい叫び声が聞こえてきた。
「何が起きているんだ!?」
御者が勢いよく手綱を引いた。
顔は恐怖で青ざめている。
陌狼村の外側を囲む木柵の近くで、炎が激しく燃え上がっていた。
村の入り口に近い木造家屋のうち、数軒にはすでに火が回っている。
狼族戦士たちの怒号。
人間たちの叫び声。
武器同士がぶつかる鋭い金属音。
すべてが混ざり合い、夜の荒野へ響いていた。
陌狼村は、何者かの襲撃を受けていた。
アーガはイータを抱いたまま馬車から飛び降りた。
その表情は、これ以上ないほど険しくなっている。
「リナ、俺から離れるな!」
「はい!」
迷う時間はなかった。
アーガは村の入り口へ向かい、一気に駆け出した。
「待て!」
走りながら、周囲へ向けて声を張り上げる。
「待ってくれ!」
「一度、戦いを止めろ!」
しかし、混乱した戦場の中で、アーガの声に耳を傾ける者はいなかった。
陌狼村の戦士たちは、その多くが目を赤く染めている。
両腕や武器には、青白い魔晶鉱粉が付着していた。
魔晶鉱粉によって身体は膨れ上がり、動きも凶暴になっている。
自分の命を顧みることなく、襲撃者へ飛びかかっていた。
一方。
襲撃してきたリンタ村の人間たちも、大規模な軍隊ではなかった。
急いで集められた、少人数の集団に見える。
松明と短弓を持ち、戦いながら少しずつ後退していた。
本気で村を制圧しようとしているのではない。
ただ混乱を起こそうとしているようにも見えた。
「アーガ様!」
リナが声を上げる。
「前を!」
アーガが顔を上げる。
燃え上がる炎の下で、一人の男が長槍を振るい、狼族戦士と戦っていた。
見覚えのある姿。
ホーン。
トムの隣人だった老人だ。
洗い古された白っぽい革鎧。
肩には小さな盾を掛け、数人のリンタ村の住民を率いて村の奥へ進もうとしていた。
ホーンもアーガの姿に気づいた。
最初は驚いたように目を見開く。
しかし、すぐに大声を上げた。
「お前か!」
「早く来い!」
「俺たちと一緒に戦え!」
アーガの瞳孔が僅かに細くなった。
まだ返事をするよりも早く。
鋭い音が、横から迫ってきた。
――ヒュンッ!
アーガはイータを抱いたまま、身体を横へ倒す。
一本の長槍が肩のすぐそばを通り過ぎ、背後にあった木柱へ突き刺さった。
炎の中に立っていたのは、セリーナだった。
琥珀色の瞳には、強い怒りが燃えている。
「この裏切り者!」
歯を食いしばり、アーガを睨みつけた。
金属製の長鞭が、身体の横で真っ直ぐに張られている。
「お前が、村の情報をこいつらへ渡したのか!」
アーガは眉を寄せた。
「何の話だ?」
「こいつらが攻撃しているのは、村の防備が最も薄い場所よ!」
セリーナが怒鳴る。
「昨日、村中を歩き回っていたのは、防御の配置を調べるためだったのでしょう!」
「そんなわけがあるか!」
アーガも強い口調で言い返した。
「確かに昨日は村を回った」
「だが、お前たちは本当の防御区域へ俺を近づけさせなかっただろう!」
「俺に、どれだけの配置が分かったと思っている!」
「しらばっくれるな!」
セリーナは、すでに話を聞ける状態ではなかった。
地面を強く蹴る。
金属の長鞭が、稲妻のようにアーガへ向かって伸びた。
アーガはイータを抱いている。
自由に身体を動かすことはできない。
後方へ下がり、どうにか一撃目を避ける。
しかし、イータの身体は高熱に冒されていた。
少し強く揺らすだけで、苦しそうに眉を歪める。
激しい回避はできなかった。
二撃目が、アーガの袖を掠める。
三撃目は、イータを抱く手首へ向けられていた。
アーガは無理やり身体を捻った。
しかし、僅かに遅い。
――バシンッ!
長鞭が手の甲へ強く叩きつけられた。
皮膚が裂け、鮮血が一気に溢れ出す。
「アーガ様!」
リナが悲鳴を上げた。
セリーナは冷たい声で言う。
「事情がどうであれ、まずお前を拘束する!」
さらに攻撃しようと長鞭を振り上げる。
そのとき。
横から一人の男が飛び込んできた。
ホーンが盾を構え、セリーナの身体へぶつかる。
「アーガ!」
「無事か!」
セリーナが牙を剥き出しにした。
「ホーン!」
「やはり、お前たちは仲間だったのね!」
二人は再び武器を構え、その場で戦い始める。
直後。
近くから、不吉な音が聞こえた。
――ミシッ。
炎に焼かれ、真っ黒になった一本の木柱。
全員が同時に顔を上げた。
屋根を支えていた柱は、すでに根元近くまで焼け落ちている。
そして今。
ゆっくりと横へ傾き始めていた。
倒れる先にあったのは――。
族長の子供たちが寝かされている木造小屋だった。
セリーナの顔が、一瞬で青ざめる。
「まずい!」
すぐに小屋へ向かって走り出す。
しかし、距離が遠い。
間に合わない。
燃え上がる木柱が大きく傾き、屋根を支える梁ごと小屋へ倒れ込もうとしていた。
アーガは一度だけ、腕の中のイータを見下ろす。
「リナ!」
リナは、その一言だけですべてを理解した。
すぐに両腕を伸ばし、イータを受け取る。
「この子を守れ!」
言葉を言い終えると同時に。
黄カード2《チーター》の力が、アーガの両脚へ流れ込んだ。
次の瞬間。
その姿が、元いた場所から消える。
セリーナの視界では、アーガの身体が一瞬で炎の中へ吸い込まれたように見えた。
「何をしているの!?」
「死ぬ気!?」
木造小屋の中は、濃い煙で満たされていた。
二人の狼族の子供が、獣皮の寝台へ横たわっている。
すでに煙を吸い込みすぎており、咳をする力さえ残っていなかった。
アーガは一気に寝台へ駆け寄る。
二人を一人ずつ腕へ抱え上げ、すぐに入り口へ向かって走った。
――轟ッ!
背後で屋根が崩れる。
燃えた梁が、次々と落下してきた。
アーガは《チーター》の速度を限界まで引き出し、入り口から飛び出す。
しかし。
最後に落ちてきた太い梁だけは、完全には避けられなかった。
燃え上がる木材が、アーガの右脚へ激しく叩きつけられる。
「ぐっ……!」
凄まじい痛みが、一瞬で全身を駆け抜けた。
アーガの身体が前へ倒れる。
それでも、腕の中の子供たちだけは離さなかった。
自分の身体を盾にして、地面との衝突から二人を守る。
セリーナが駆け寄り、一人を抱き上げた。
ホーンも戦いを止め、もう一人を受け取る。
「アーガ!」
リナはイータを抱いたまま、アーガのそばへ駆け寄った。
その顔は、血の気を失っている。
アーガの右脚は、折れた木材の下敷きになっていた。
燃えた破片から飛び散った火の粉が、服の裾へ燃え移る。
リナはすぐに水筒の水をかけ、火を消した。
セリーナは狼族の子供を抱いたまま、呆然とアーガを見つめている。
「どうして……」
ホーンも荒い息を吐きながら、複雑な表情を浮かべていた。
アーガの顔は青白い。
額には、大量の冷や汗が浮かんでいる。
それでも顔を上げた。
周囲では、まだ獣人と人間が戦い続けている。
アーガは残った力を振り絞り、声を張り上げた。
「戦いを止めろ!」
激痛のせいで声は掠れていた。
それでも、その言葉は誰の耳にも届くほどはっきりしていた。
「この件は、俺が解決する!」
ホーンとセリーナが、互いの顔を見る。
次の瞬間。
ホーンはリンタ村の者たちへ向かって駆け出した。
「全員、武器を下ろせ!」
「戦いを止めろ!」
セリーナも奥歯を噛み締めた。
子供を抱いたまま振り返り、大声を上げる。
「陌狼村の者たち!」
「戦闘を中止しろ!」
「今は火を消すことを優先しなさい!」
二人の声が、何度も戦場へ響く。
混乱は、すぐには収まらなかった。
しかし、ヴォルフガ族長、ブラク、カインも駆けつける。
族長たちの命令によって、戦いは少しずつ抑えられていった。
やがて、人間と獣人は武器を下ろす。
燃え上がっていた炎へ、何杯もの水がかけられた。
一つずつ。
村を包んでいた火が、消し止められていった。




