第124話 調査開始
三人は、陌狼村から届けられた簡単な朝食を済ませると、木造小屋の外へ出た。
昼間の陌狼村は、夜よりも村の様子がよく見えた。
獣皮で作られた天幕と、粗い丸太を組んだ木造家屋が入り交じっている。
村の外周を囲むのは、高い木製の柵。
柵の内側には石や先端を尖らせた杭が積まれており、最近になって防備を強化したことが分かる。
少し離れた場所では、数人の狼族戦士が戦斧の刃を研いでいた。
反対側の空き地では、若い獣人たちが投槍と近接戦闘の訓練をしている。
アーガが小屋から数歩進んだところで、周囲から向けられる視線に気づいた。
警戒。
拒絶。
そして、隠そうともしない敵意。
「人間だ……」
「昨日の夜に来た奴か?」
「なぜ族長は、あいつらを村へ入れたんだ?」
抑えた話し声が、あちこちから聞こえてくる。
イータの狐耳が、不安そうに垂れ下がった。
リナも僅かに眉を寄せ、アーガの近くへ半歩寄る。
しかし、アーガは特に反応しなかった。
(当然か)
もし自分が陌狼村の住民だったとしても、同じ反応をしただろう。
族長の子供が毒に侵され、村が人間との戦争を始めようとしている最中。
そんなときに突然人間が現れ、自分なら毒を治せると言ったところで、簡単に信用できるはずがない。
◇ ◇ ◇
アーガたちは、最初に村の倉庫へ向かった。
倉庫の周辺には、木箱や獣皮の袋がいくつも積まれている。
数人の狼族戦士が、武器と薬草の数量を確認していた。
アーガが近づいた瞬間。
大柄な狼型獣人が横から歩み出て、正面へ立ち塞がった。
「ここから先は、部外者の立ち入りを禁じている」
アーガは足を止める。
「最近運び込まれた物資の中に、怪しい物がないか確認したいだけだ」
「怪しい物?」
狼型獣人は鼻で笑った。
「この村で一番怪しいのは、お前だろう」
リナの表情が一気に冷たくなった。
何かを言おうとする彼女を、アーガは片手を上げて制する。
「敵意はない」
「敵意があるかどうかを決めるのは、お前ではない」
相手の声には、話し合う余地がまったくなかった。
アーガは数秒間、狼型獣人を見つめる。
やがて小さく頷き、何も言わずに背を向けた。
そのあとも、村の入り口。
巡回隊の休憩所。
負傷した戦士たちが治療を受ける、臨時の木造小屋。
いくつもの場所を回った。
だが、結果はどこもほとんど同じだった。
近づく前に止められるか、周囲から監視される。
普通の村人へ話を聞こうとしても、曖昧な返事をするだけで、すぐにその場から離れていった。
昼を迎える頃。
アーガたちは、すでに村の半分以上を歩き回っていた。
それでも、役に立つ情報はほとんど得られていない。
「アーガ様……」
イータが小さな声で言った。
「皆さん、私たちのことを嫌っているみたいです……」
「みたい、じゃないな」
アーガはため息を吐く。
「間違いなく嫌われている」
リナは、少し離れた場所にいる狼族戦士たちへ視線を向けた。
「このままでは、何も調べられません」
「ああ」
アーガは木柵の近くで足を止めた。
遠くの空き地では、若い狼族たちが訓練を続けている。
ヴォルフガ族長は、話の通じない人物ではない。
少なくとも、最初から人間という理由だけでアーガたちを追い出すことはしなかった。
それでも、決して歓迎しているわけではない。
誰も立っていないように見える道にも、物陰から監視する者がいる。
まだ近づいてもいない区域へ、巡回隊が先回りしてくることもあった。
(泊まることは許されたが、実際には監視されているということか)
アーガはこめかみを揉んだ。
昨夜、自分の分析を伝えたことで、少しくらいは信用を得られたと思っていた。
だが、どうやら考えが甘かったらしい。
獣人と人間の間に積み重なった憎しみは、数言で消せるものではない。
ましてや今、族長の子供たちは生死の境を彷徨っている。
◇ ◇ ◇
夕方。
三人は、何の成果も得られないまま木造小屋へ戻った。
イータは扉をくぐるなり、獣皮の毛布の上へ座り込んだ。
白い尻尾が、力なく床へ垂れている。
リナは水差しから杯へ水を注ぎ、アーガへ差し出した。
「アーガ様」
「今日は、ほとんど休んでいません」
「大丈夫だ」
アーガは杯を受け取り、水を一口飲んだ。
冷たい水が胃へ落ちる。
少しだけ、頭がはっきりした。
だが、意識がはっきりするほど、苛立ちも強くなっていく。
陌狼村のすべての場所が厳重に守られている。
本当に重要な場所へは、近づくことすらできない。
このまま村に残っていても、時間を無駄にするだけだった。
夜が深まるにつれ、外から巡回隊の足音が聞こえ始める。
アーガは壁へ背中を預けたまま、長い間、天井の梁を見つめていた。
(駄目だ)
(これ以上ここにいても、何も得られない)
その夜。
アーガは、もう一度村の中を歩いてみた。
しかし、結果は昼間と変わらない。
倉庫へは入れない。
子供たちのいる部屋には見張りがいる。
巡回隊の記録も見せてもらえない。
村の入り口にある防御用の柵へ近づいただけで、冷たい視線とともに追い払われた。
さらに、ブラクがわざわざアーガの前へ姿を現した。
大柄な第二隊長は両腕を組み、道の中央へ立ち塞がる。
顔には苛立ちが浮かんでいた。
「警告しておく」
「余計なことはするな」
「族長がお前たちの滞在を認めたのは、カインが何度か口添えしたからだ」
ブラクは冷たく鼻を鳴らす。
「俺たちがお前を信用しているなどと思うな」
それだけ言うと、ブラクはアーガの横を通り過ぎていった。
アーガはその場へ立ったまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さくため息を吐く。
「本当に、やりにくいな……」
◇ ◇ ◇
一日中歩き回ったことで、身体には疲れが溜まっていた。
それ以上に、何も進展しない状況への苛立ちが強かった。
木造小屋へ戻ったアーガは、少しだけ休むつもりで壁へ背中を預けた。
そのまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
次に目を開けたとき。
窓の隙間から差し込む日差しは、すでに眩しいほど強くなっていた。
アーガは、翌日の昼まで眠っていた。
すぐ近くでは、リナが座ってアーガの様子を見守っていた。
目を覚ましたことに気づくと、安堵したように息を吐く。
「アーガ様、目を覚ましたのですね」
イータも扉の近くから顔を覗かせた。
「アーガ様、ずっと眠っていました……」
「もう昼なのか?」
「はい」
アーガは身体を起こし、重く感じる額を押さえた。
長く眠ったにもかかわらず、気分は少しも軽くなっていない。
むしろ、胸の中に溜まっていた焦りが、以前よりはっきりと感じられた。
アーガは立ち上がると、自分の荷物をまとめ始めた。
リナが驚いたように瞬きをする。
「アーガ様?」
「出発の準備をする」
イータも目を丸くした。
「出発?」
「どこへ行くのですか?」
「黒槌町だ」
アーガはカードケースを腰へつけ直した。
「もう一度、調べに行く」
リナは何かを尋ねようとした。
しかし、アーガの表情を見ると、結局口には出さなかった。
イータは不安そうに尻尾を抱える。
「でも、陌狼村のことは……」
「ここでは、今のところ何も調べられない」
アーガは荷物をまとめながら答えた。
「これ以上残っていれば、あいつらからさらに疑われるだけだ」
そこで一度、言葉を止める。
「それに、ここで聞いても答えが得られないことがある」
「外へ行って確かめる必要がある」
三人は、すぐに荷物をまとめ終えた。
木造小屋から出ると、扉の前にはカインが立っていた。
アーガたちが出発することを、すでに知っていたらしい。
その顔には、驚いた様子はなかった。
「出ていくのか?」
「ああ」
アーガは頷く。
「黒槌町へ行ってみる」
カインの眉が寄る。
「また、あの町へ行くのか?」
「ここでは何も調べられないからな」
カインはしばらく黙っていた。
やがて、声を落として言う。
「俺にも、できることには限界がある」
「族長はすでに、村の者たちから大きな圧力を受けている」
「分かっている」
アーガは答えた。
「俺たちを村へ入れてくれただけで十分だ」
カインは数秒間、アーガを見つめた。
最後には、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「道の途中で死ぬなよ」
「努力する」
アーガは小さく笑った。
◇ ◇ ◇
村の入り口。
ヴォルフガ族長の姿はなかった。
ブラクも来ていない。
木柵のそばに立っていたのは、セリーナだけだった。
両腕を胸の前で組み、金属製の長鞭を腰へ巻いている。
冷たい視線がアーガへ向けられた。
「人間」
「これ以上、余計なことはしないで」
アーガはセリーナを見返した。
だが、何も答えなかった。
三人は、陌狼村へ来るときに乗った馬車へ再び乗り込んだ。
車輪が土の道を踏み、ゆっくりと村から離れていく。
村の入り口に掲げられた狼頭の旗が、風に揺れていた。
やがて、その姿も遠くなり、見えなくなった。
陌狼村を離れると、馬車の中の空気は、来たときよりも少しだけ軽くなった。
御者は、以前と同じ無口な中年の男だった。
前を見たまま手綱を握り、ほとんど言葉を発しない。
荷台には何袋もの穀物が積まれていた。
馬車が揺れるたびに麻袋も僅かに動き、淡い麦の香りが漂ってくる。
イータは麻袋の上へ座り、自分の尻尾を両腕で抱えていた。
時折、窓の外へ視線を向ける。
リナはアーガの隣へ座り、手にした干しパンを少しずつ割っていた。
「アーガ様」
突然、イータが尋ねる。
「黒槌町には、おいしい物がたくさんありますか?」
アーガはイータへ視線を向けた。
「まだ、あの焼き肉のことを覚えているのか?」
イータの狐耳が、勢いよく立ち上がった。
「覚えています!」
リナが小さく笑う。
「昨日は、陌狼村の燻製肉もおいしいと言っていませんでしたか?」
「あれもおいしかったです」
イータは真剣な表情で頷いた。
「でも、黒槌町の焼き肉の方が、もっといい匂いがしました」
アーガも思わず笑った。
「黒槌町へ着いて、何も問題が起きなければ買ってやる」
「本当ですか?」
「本当だ」
イータの白い尻尾が、嬉しそうに左右へ揺れ始めた。
その様子を見たリナの表情も、僅かに柔らかくなる。
馬車は、そのまま街道を進んでいった。
夕方の光が斜めに荷台へ差し込み、三人の影を長く伸ばしている。
道の両側に生える木々は、進むほど数を増していった。
車輪が小石や枯れ枝を踏み、何度も軋む音を立てる。
アーガは荷台の壁へ背中を預け、目を閉じた。
頭の中で、これまでに得た情報を整理していく。
もし自分の推測が正しければ。
戦斧商会の背後にいる《一号》は、すでにこの地域全体の動きを監視している可能性がある。
「アーガ様……」
イータが突然、弱々しい声で呼びかけた。
「どうした?」
アーガが目を開く。
イータの顔色が、僅かに青白くなっていた。
「私……」
「少し、頭がくらくらします……」
アーガは眉を寄せ、すぐに身体を起こす。
「いつからだ?」
「分かりません……」
イータは片手で額を押さえた。
「さっきまでは平気だったのに、急に寒くなって……」
言葉を言い終える前に。
イータの身体が、力を失ったように小さく揺れた。




