第122話 陌狼村
第四隊長カインに案内され、アーガたち三人は陌狼村の中央広場を通り抜けた。
広場の先にあったのは、獣皮と太い丸太を組み合わせて作られた巨大な天幕だった。
入り口には、完全武装した狼族の戦士が数人立っている。
カインの姿を確認すると、戦士たちはすぐに左右へ道を開けた。
「族長がお前たちを待っている」
カインは天幕の垂れ幕を持ち上げ、小さな声で続ける。
「話すときは気をつけろ」
「ヴォルフガ族長は、回りくどい言い方を嫌う」
アーガは軽く頷き、天幕の中へ足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
天幕の中では、何個もの獣脂灯が燃えていた。
橙色の光が広い室内を明るく照らしている。
中央に置かれた青銅の玉座。
そこには、髪も髭も真っ白になった狼族の老人が座っていた。
陌狼村を治めるヴォルフガ族長だ。
すでにかなりの高齢に見える。
左目には、額から頬まで伸びる痛々しい傷痕が残っていた。
しかし、無傷の右目だけは、獲物を狙う鷹のように鋭い。
玉座の左右には、それぞれ一人ずつ狼族の戦士が立っていた。
左側にいるのは、筋骨隆々とした大柄な男だった。
太い両腕を胸の前で組み、腰には鋭い戦斧を二本下げている。
「俺は部族の第二戦闘隊長、ブラクだ」
雷鳴を思わせる低い声だった。
右側に立つのは、細身の女性だった。
引き締まった身体に無駄な肉はなく、琥珀色の瞳には油断のない光が浮かんでいる。
腰には金属製の長鞭が巻きつけられていた。
「第三隊長、セリーナよ」
セリーナは僅かに頭を下げる。
その視線は、アーガ、リナ、イータの順に素早く動いた。
ヴォルフガ族長も、三人を一人ずつ観察していく。
やがてイータを見た瞬間、深く眉を寄せた。
「白狐族の娘よ」
低く、重い声が天幕の中へ響く。
「なぜ人間などと行動を共にしている?」
そこには、隠そうともしない失望が含まれていた。
「人間が我々獣人をどのように扱ってきたのか、知らないわけではあるまい」
「どれほど多くの同胞が捕らえられ、奴隷として売られてきたと思っている?」
イータの白い尻尾が、一瞬で大きく膨らんだ。
耳も緊張したように後ろへ伏せられる。
それでも、彼女は勇気を振り絞って一歩前へ出た。
「ア、アーガ様は違います!」
小さな爪が、衣服の裾を強く握り締める。
「アーガ様は、私を助けてくれました!」
「それに、魔法の勉強も教えてくれて……」
「一度も、私を奴隷として扱ったことなんてありません!」
声は震えていた。
だが、最後まで族長から目を逸らさなかった。
アーガはイータの震える肩へ、そっと手を置いた。
それから、ヴォルフガ族長の鋭い視線を正面から受け止める。
「ヴォルフガ族長」
「あなたは、もう少し外の世界を見るべきです」
天幕の空気が、僅かに張り詰めた。
ブラクの眉が動く。
それでも、アーガは構わず続けた。
「王都では、獣人の商隊が自由に市場へ出入りしています」
「獣人だからという理由だけで、身分の上下を決められることもありません」
「王都以外にも、人間と他種族が共に安定した生活を送っている場所は数多くあります」
アーガは、周囲に立つ狼族の戦士たちを見回した。
「この世界は広い」
「すべての人間が、獣人を敵だと思っているわけではありません」
天幕の中が静まり返った。
獣脂灯の炎が揺れる音だけが聞こえてくる。
ブラクは不満そうに鼻を鳴らした。
アーガの言葉など、まったく信じていないらしい。
一方、セリーナは何かを考えるように、腰の長鞭を指先で撫でていた。
長い沈黙のあと。
ヴォルフガ族長が、深いため息を吐いた。
「カインから、お前が二つの村の争いについて分析した内容は聞いている」
族長が手を上げる。
侍従たちが、獣皮を張った低い椅子を何脚か運んできた。
「座れ」
「お前が調べたことを聞かせてもらおう」
「分かりました」
アーガたちは椅子へ腰を下ろした。
アーガは余計な前置きをせず、すぐに本題へ入る。
「まずは、魔晶鉱粉についてです」
「《戦斧》は、獣人の部族へ大量の魔晶鉱粉を売り込んでいます」
「しかし、俺が知る限り、獣人たちは以前からこのような外部の強化手段へ依存していたわけではない」
その瞬間。
ブラクが机を強く叩き、勢いよく立ち上がった。
――ドンッ!
「貴様に何が分かる!」
太い牙を剥き出しにし、アーガを睨みつける。
「魔晶鉱粉がなければ、俺たちは人間の重装騎兵とどう戦えばいい!」
「第二隊長!」
ヴォルフガ族長の低い声が飛ぶ。
決して大きな声ではなかった。
それでもブラクの身体が僅かに硬くなる。
「……ちっ」
ブラクは不満そうに舌打ちし、椅子へ座り直した。
ヴォルフガ族長がアーガへ視線を戻す。
「続けろ」
「次は、リンタ村のトムについてです」
アーガは懐へ手を入れ、小さな布袋を取り出した。
袋の口を開き、数粒の青い結晶を机の上へ落とす。
獣脂灯の光を受け、結晶が淡い青色の光を放った。
「これは、俺が戦斧商会の本部から持ち出した物です」
「ホーンが村の見張りへ渡していた物と、まったく同じでした」
セリーナの目が細くなる。
「ホーン……」
「トムの隣人だった人間ね」
「ああ」
アーガは頷いた。
セリーナが低い声で尋ねる。
「つまり、私たちの子供を助けた人間の老人が、裏切り者だったと言いたいの?」
「そうとは限りません」
アーガは首を横へ振った。
「子供たちが毒に侵された時期が、あまりにも都合よすぎる」
「事件が起きたことで、陌狼村とリンタ村の対立は一気に激しくなった」
「誰かが、最初からそれを狙っていた可能性があります」
室内に置かれた火鉢が、激しく音を立てた。
――パチッ。
赤い火の粉が舞い上がり、全員の険しい顔を照らす。
ヴォルフガ族長はゆっくりと玉座から立ち上がった。
天幕の奥に掛けられている、大きな獣皮の地図へ歩み寄る。
「つまり、お前は……」
地図へ視線を向けたまま、静かに尋ねる。
「すべてが《戦斧》の陰謀だと考えているのか?」
「戦斧だけではありません」
アーガも椅子から立ち上がった。
地図に描かれた黒槌町を指さす。
「戦斧の背後には、さらに別の人物がいます」
「呼び名は《一号》」
「ただし、今のところ正体までは分かっていません」
ヴォルフガ族長の右目が、鋭く細められた。
そのときだった。
天幕の外から、短く激しい角笛の音が聞こえてきた。
――ブオオォッ!
直後。
カインが勢いよく垂れ幕を持ち上げ、天幕の中へ入ってくる。
「族長!」
普段の冷静さを失い、荒い息を吐いていた。
「巡回隊が村の外で、戦斧商会の隊商を発見しました!」
「荷馬車は三台!」
「すべて魔晶鉱粉を積んでいます!」
ブラクが即座に二本の戦斧をつかんだ。
「ようやく来やがったか!」
「俺が今すぐ――」
大股で入り口へ向かう。
すでに天幕を出ようとしていたブラクの肩を、アーガが後ろからつかんだ。
「待て」
「ぐあっ!」
ブラクの顔が苦痛に歪む。
思わず声を上げ、つかまれた肩へ視線を落とした。
アーガはすぐに手を離す。
「悪い……」
自分の手を見たあと、静かに続ける。
「俺も行く」
◇ ◇ ◇
夜の闇が、陌狼村の入り口を包んでいた。
アーガは一本の古木が作る影へ身を隠し、少し離れた場所で行われている交渉を観察していた。
空き地には、商品を満載した三台の荷馬車が止まっている。
周囲を守るのは、十数人の戦斧商会の構成員たち。
誰もが武器へ手を置き、警戒するように周囲を見回していた。
先頭に立つ商人は、獣人の巡回隊と話している。
「今回の商品は、すべて通常価格の八割でお売りします」
商人は両手を擦り合わせ、顔いっぱいに作り笑いを浮かべた。
「我々戦斧商会は、心から皆様のお力になりたいと考えておりますので」
巡回隊の狼族戦士が鼻へ皺を寄せる。
口元から、鋭い牙が僅かに覗いた。
「どういうつもりだ?」
「なぜ急に値段を下げる?」
商人は、わざとらしく驚いた表情を浮かべた。
「おや?」
「皆様は、魔晶鉱粉を必要としているのではありませんか?」
周囲へ聞こえないように声を落とす。
「最近、リンタ村との争いがさらに激しくなっていると聞いております」
「魔晶鉱粉がなければ、あの人間たちとどう戦うおつもりで?」
「貴様!」
狼族戦士が商人の襟をつかみ、一気に持ち上げた。
「俺たちが人間と戦争を始めることを、そんなに望んでいるのか!」
首を締めつけられ、商人の顔が青くなる。
それでも口元には、卑劣な笑みが残っていた。
「そ、そんな……」
「とんでもない誤解です……」
「我々は、ただ商売をしているだけで……」
「その商品は必要ない」
突然。
背後から、低く威厳のある声が響いた。
その場にいた全員が振り返る。
ヴォルフガ族長が、ブラク、セリーナ、カインを連れて歩いてきた。
アーガたち三人は、獣人の集団の後方へ身を隠している。
商人の表情が変わった。
「ぞ、族長様!」
慌てて愛想笑いを浮かべる。
「それは、どういう意味でしょうか?」
「もしリンタ村の人間たちに襲撃されたら――」
「お前が心配する必要はない」
ヴォルフガ族長が、冷たく言葉を遮った。
「商品を持ち、今すぐ陌狼村から立ち去れ」
商人の顔から笑みが消える。
「族長」
声にも、僅かな脅しが含まれていた。
「本当によくお考えになった方がよろしいですよ」
「我々の商品がなければ、リンタ村とどう戦うおつもりで――」
ブラクが地面を強く踏み、前へ出た。
手にした戦斧が、月明かりを受けて冷たい光を放つ。
「失せろ!」
戦斧商会の構成員たちが、慌てて何歩も後退した。
商人は獣人たちを憎々しげに睨みつける。
「……分かりました」
「ええ、よく分かりましたとも!」
荷馬車へ乗り込みながら、吐き捨てるように叫ぶ。
「あとになって後悔しても知りませんからね!」
御者が手綱を振るう。
三台の荷馬車は不気味な軋みを上げながら、夜の街道へ消えていった。
アーガは古木の影から出た。
遠ざかっていく荷馬車を見つめながら、眉を寄せる。
「何か、おかしい……」
「だが、何がおかしいのか、うまく説明できない」
セリーナが金属の長鞭を軽く振るった。
鎖のような音が、夜の空気へ響く。
「これまで取引を断ったときは、もっと長く説得してきたわ」
「少なくとも、表面上は親切な商人を演じていた」
「今回は、諦めるのが早すぎる……」
ヴォルフガ族長も、荷馬車が消えた方向を見つめていた。
だが、何も言わずに踵を返す。
「来い」
族長はアーガたちを連れ、先ほどまで話していた場所へ戻った。
近くに建てられている丸太造りの建物へ向かい、奥にある重い木製の扉を押し開ける。
◇ ◇ ◇
室内は薄暗かった。
小さな獣脂灯が一つ置かれているだけで、部屋の隅には濃い影が溜まっている。
獣皮を重ねた寝台。
そこには、二人の幼い狼族の子供が身体を丸めて横たわっていた。
本来なら艶のあるはずの毛並みは、完全に光を失っている。
呼吸も弱い。
注意深く見なければ、胸が上下していることさえ分からないほどだった。
「……っ」
イータが両手で口元を覆う。
白い尻尾が、不安を紛らわせようとするようにアーガの腕へ巻きついた。
「リンタ村から戻ってきてから、ずっとこの状態よ」
セリーナの声が震えていた。
先ほどまで見せていた冷静さは、そこにはない。
「医師によれば、毒はすでに内臓まで侵しているそうよ……」
リナが寝台のそばへ膝をついた。
子供の胸元へ指先を当てる。
淡い緑色の光が指からあふれ、二人の身体を静かに包み込んだ。
しばらくして。
リナは光を消し、ゆっくりと立ち上がる。
アーガへ視線を向け、小さく首を横へ振った。
「この状態では……」
「おそらく、あと数日も持ちません」
「くそっ!」
ブラクが拳を壁へ叩きつけた。
――ドガンッ!
太い丸太が割れ、無数の木片が室内へ飛び散る。
「戦斧の連中め!」
「今すぐ本部へ乗り込んで、根城ごと叩き潰してやる!」
「落ち着け!」
カインがブラクの前へ立ち、進路を塞ぐ。
「今乗り込んでも、相手を警戒させるだけだ!」
「なら、このまま子供たちが死ぬのを見ていろと言うのか!」
「そうは言っていない!」
二人が睨み合う。
そのとき。
アーガが静かに口を開いた。
「俺に、毒を消す方法がある」




