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第121話 グレイソン

赤い外套の男は、しばらく黙ったまま机の上を見つめていた。


三つの生命泉石。


集魔石。


夜光石。


いずれも黒槌町の市場では、簡単に手に入らない希少な鉱石だ。


男の瞳には警戒が残っていたが、先ほどまでの冷淡な態度は明らかに和らいでいる。


やがて、椅子へ深く腰を下ろした。


「俺はグレイソン」


低い声で名乗る。


「戦斧商会・黒槌町支部の副会長だ」


(副会長か)


アーガはその肩書きを心の中へ刻み込んだ。


予想していた以上の大物だった。


しかし、表情には出さない。


「グレイソンさん」


商人らしい笑みを浮かべ、軽く頭を下げる。


グレイソンの視線は、再び生命泉石へ落ちた。


瞳の奥に貪欲な光が浮かぶ。


すぐに隠されたが、アーガは見逃さなかった。


「本当に安定した仕入れ先を持っているのなら、話し合う価値はある」


グレイソンは机の上で指を組む。


「だが、今ここにある数個だけでは、長期的な取引ができるとは限らない」


「分かっている」


アーガは三つの生命泉石のうち、一つを指で押した。


浅緑色の鉱石が机の上を滑り、グレイソンの前で止まる。


「これは、挨拶代わりだ」


グレイソンの目が僅かに見開かれた。


それでも、すぐには手を伸ばさない。


象徴的に眉を寄せてみせる。


「これほど高価な品を受け取るのは、さすがに気が引けるな」


口ではそう言いながらも、その視線は生命泉石から離れていなかった。


「俺が戦斧商会へ来たのは、小銭を稼ぐためではない」


アーガは平然と答える。


「この程度は、取引相手への最低限の誠意だ」


グレイソンは数秒間、アーガの顔を見つめた。


やがて、口元へ笑みを浮かべる。


今度の笑みには、先ほどまでの形式的なものとは違い、僅かな本心が混ざっていた。


「そういうことなら、ありがたく受け取ろう」


グレイソンは生命泉石をつまみ上げると、大切そうに懐へ収めた。


「ガイア」


声まで先ほどより柔らかくなっている。


「お前は、戦斧商会に何を求める?」


アーガは椅子の背もたれへ身体を預けた。


少しも迷わず答える。


「売上の七割」


部屋の空気が、一瞬で固まった。


「ふざけるな!」


グレイソンは机を強く叩き、勢いよく立ち上がった。


――ドンッ!


並べられていた鉱石と茶器が震える。


扉の両側に立っていた護衛も、同時にアーガへ視線を向けた。


片方はすでに刀の柄へ手を掛けている。


それでも、アーガはまったく慌てなかった。


グレイソンの瞳に浮かんでいるのは、純粋な怒りだけではない。


大きな利益を前にした興奮と、取引を逃したくないという焦りが混ざっていた。


本当に話にならない条件だと思っているなら、その場で追い出せばいい。


怒鳴りながらも交渉を続けている時点で、鉱石にはそれだけの価値がある。


「自分が何を言っているのか分かっているのか?」


グレイソンは机へ両手をつき、低い声で威圧した。


「戦斧商会が管理する商路が、何本あると思っている?」


「お前のような素性の知れない若造が、いきなり七割だと?」


「もちろん分かっている」


アーガは平然と答えた。


「だから、戦斧商会へ来た」


グレイソンの眉が動く。


「俺は赤骸城周辺の鉱脈から、希少な鉱石を手に入れられる」


「だが、遠くの都市へ商品を流す商路を持っていない」


「お前たちは商路と販売先を持っている」


「その代わり、安定して仕入れられる高品質の商品がない」


アーガは机の上に並ぶ鉱石を指先で示した。


「互いに不足しているものを補う」


「それが取引だろう?」


グレイソンは険しい表情のまま黙っている。


アーガはさらに続けた。


「それに、協力関係が順調に進めば、俺が渡せるのは生命泉石だけではない」


その言葉に、グレイソンの目が細くなった。


アーガは懐の袋へ手を入れ、二つの鉱石を取り出した。


一つは深い青色。


内部では無数の小さな光が集まり、ゆっくりと渦を巻いている。


手の近くへ置くだけで、周囲の魔力が僅かに引き寄せられるのを感じられた。


もう一つは、半透明の白い鉱石だった。


薄暗い室内でも、表面から柔らかな光を放っている。


グレイソンの表情が変わった。


「集魔石……」


続いて、白い鉱石へ視線を移す。


「それに、夜光石か」


先ほどまで立っていたグレイソンは、再び椅子へ腰を下ろした。


集魔石を手に取り、内部の魔力を確かめる。


指先へ伝わる微かな流れを感じた瞬間、彼の顔から疑いがさらに薄れた。


黒槌町のような辺境で、普通の行商人がこれほど多くの希少鉱石を持ち歩くことはない。


本当に鉱脈へ通じる経路を持っているのか。


あるいは、危険な密輸業者や権力者とのつながりがあるのか。


どちらにせよ、戦斧商会にとって無視できる相手ではなかった。


グレイソンは集魔石を机へ戻した。


声にも、先ほどより明確な敬意が含まれている。


「ガイア」


「お前には、確かに商談を持ち込むだけの力があるらしい」


アーガは微笑むだけで、何も答えなかった。


ここで多くを話せば、余計な矛盾が生まれる。


相手が勝手に背後関係を想像してくれるなら、その方が都合がよかった。


グレイソンは少し考えたあと、何気ない口調で尋ねる。


「ところで、お前は魔晶鉱粉を扱っているか?」


アーガは一瞬だけ意外そうな表情を作った。


「魔晶鉱粉?」


「ああ」


「それなら、手に入れられる」


アーガは興味がなさそうに答える。


「あの程度の物なら、赤骸城周辺の鉱脈でそれなりに採れる」


「人間にはほとんど効果がないから、大した価値はないと思っていたが」


グレイソンは静かに笑った。


「赤骸城では、そうかもしれない」


「だが、この辺りでは高く売れる」


「獣人や魔獣を使う者は多いからな」


アーガは考えるふりをした。


「戦斧商会が必要としているなら、用意することはできる」


グレイソンの身体が、僅かに前へ傾く。


「では、まず一度取引を試そう」


「どのくらい必要だ?」


「五日後だ」


グレイソンは指を五本立てた。


「五日後、まとまった量の魔晶鉱粉が必要になる」


「お前が商品を持ってこい」


「量と品質に問題がなければ、今後の分配率について正式に話し合う」


(五日後に、大量の魔晶鉱粉が必要になる?)


アーガは表情を変えなかった。


だが、その言葉を心の中で何度も繰り返す。


単純な販売用なら、あえて五日後と期限を決める必要はない。


すでに何らかの大口取引、あるいは戦闘の予定が決まっている可能性が高かった。


「分かった」


アーガは短く答える。


「五日後に持ってくる」


グレイソンは懐へ手を入れ、掌ほどの大きさをした鉄札を取り出した。


机の上へ放る。


――カンッ。


鉄札の表面には、戦斧商会の紋章が刻まれている。


裏側には一本の暗赤色の線が走り、僅かな魔力が宿っていた。


「持っていけ」


グレイソンは言う。


「この数日の間に俺へ用があれば、入り口の護衛へそれを見せろ」


「直接、俺のところへ案内させる」


アーガは鉄札を手に取った。


指先で表面の刻印をなぞる。


偽造防止のための魔力刻印らしい。


「分かった」


グレイソンは椅子へ身体を預ける。


口元には笑みが浮かんでいたが、瞳は鋭いままだった。


「ガイア」


「俺を失望させるなよ」


「戦斧商会は、騙されることを何より嫌う」


アーガも穏やかに笑い返す。


「奇遇だな」


「俺も同じだ」


二人の視線が正面からぶつかった。


笑みを浮かべながらも、互いに相手を信用してはいない。


数秒後。


アーガは残った鉱石を袋へ戻し、席を立った。


「では、五日後に」


グレイソンは片手を振る。


扉のそばにいた護衛が、会客室の扉を開いた。


◇ ◇ ◇


アーガが外へ出た頃、太陽はすでに空の中央近くまで昇っていた。


戦斧商会の暗赤色の旗が、乾いた風を受けて揺れている。


アーガは振り返らず、そのまま大通りを歩いた。


二本先の角を曲がるまで、一定の速度を保つ。


露店の金属板や店先の硝子を利用し、背後を確認する。


追跡者らしき者はいない。


それでも念のため遠回りし、何度か細い路地を通ってから《樫木亭》へ戻った。


部屋の扉を開ける。


リナとイータは、ほとんど同時にこちらを振り返った。


「アーガ様!」


イータが駆け寄ってくる。


アーガは無事を知らせる代わりに、彼女の頭へ手を置いた。


白い髪と狐耳を軽く撫でる。


「待っている間、退屈しなかったか?」


「はい!」


イータの頬が少し赤くなる。


白い尻尾が、無意識のうちにアーガの手首へ絡みついた。


「リナお姉ちゃんとお話ししていたので、楽しかったです」


リナはその様子を横目で見て、小さく鼻を鳴らした。


だが、瞳には安堵の笑みが浮かんでいる。


「アーガ様」


「商会では、何か分かりましたか?」


「いくつか、重要なことが分かった」


アーガは机の前へ座り、水差しから杯へ水を注いだ。


一口飲んでから、懐に入れていた戦斧の鉄札を机へ置く。


「戦斧商会の副会長と接触した」


「五日後、大量の魔晶鉱粉を必要としているらしい」


リナが眉を寄せる。


「五日後……」


「リンタ村や陌狼村の争いと関係があるのでしょうか?」


「可能性は高い」


アーガは答えた。


「だが、今の情報だけでは断定できない」


「だから次は、陌狼村へ行く」


リナが瞬きをする。


「今日ですか?」


「ああ」


アーガは杯を机へ置いた。


「時間を無駄にはできない」


「カインから、族長の子供たちの状態を直接確認する」


「それに、魔晶鉱粉がどの程度村へ流れ込んでいるのかも見ておきたい」


イータの狐耳が警戒するように立った。


「獣人の村へ行くんですよね?」


「危なくないですか?」


「安全とは言えない」


アーガは正直に答える。


「だが、カインとは一度話している」


「入り口でいきなり襲われることはないはずだ」


「もちろん、油断はするな」


二人は真剣な表情で頷いた。


「分かりました」


アーガは立ち上がる。


「荷物をまとめろ」


「昼食を済ませたら出発する」


◇ ◇ ◇


三人は町の食堂で簡単な昼食を取ったあと、陌狼村方面へ向かう荷馬車を探した。


幸い、穀物を積んで西へ向かう古い馬車が見つかった。


御者は無口な中年の男だった。


銀貨一枚を渡すと、陌狼村に最も近い街道まで乗せることを承諾した。


荷台には、大きな麻袋がいくつも積まれている。


袋の隙間からは、乾燥した穀物の香りが漂っていた。


リナとイータは麻袋へ背中を預ける。


アーガは荷台の端へ座り、周囲の景色を観察した。


馬車が黒槌町を離れる。


車輪が凹凸の多い道を踏むたび、荷台が大きく揺れた。


最初のうちは、道の両側に深い森が続いていた。


だが、進むにつれて木々の数は減り、次第に広い荒野へ変わっていく。


それ以上に目立ったのは、道を行き交う獣人の数だった。


簡素な革鎧を着た者。


荷物を満載した板車を押す者。


数人で集まり、武器を腰へ下げて歩く者。


狼型や熊型だけでなく、さまざまな種族の獣人が黒槌町と周辺の集落を行き来していた。


アーガは、その中の何人かを見て目を細める。


獣人たちの指先や、持っている武器の柄には、青色の粉が僅かに付着していた。


陽光を受けるたび、淡い蛍光を放っている。


魔晶鉱粉だった。


(やはり、戦斧の商品は大量に獣人側へ流れている)


一人や二人ではない。


擦れ違った獣人の多くが、多少なりとも粉末の痕跡を残している。


もはや一部の戦士だけが密かに使っている状況ではなかった。


「アーガ様……」


隣にいたイータが、小さな声で呼びかける。


爪の先で、アーガの袖をそっとつかんでいた。


「あの獣人たち……」


声が僅かに震えている。


イータ自身も獣人だが、赤骸城で同族と接する機会はほとんどなかった。


武装した見知らぬ獣人たちが何人も行き交う光景に、緊張しているらしい。


アーガは安心させるように、その手を軽く叩いた。


「心配するな」


「俺がいる」


イータはアーガを見上げ、小さく頷いた。


リナも近くへ身体を寄せ、声を落として尋ねる。


「彼らの武器や手についている青い粉は、魔晶鉱粉ですよね?」


「ああ」


アーガは周囲から視線を外さず答えた。


「それも、かなりの量が出回っている」


「戦斧商会は、俺たちが考えていた以上に深く入り込んでいるようだ」


馬車は荒れた道を進み続けた。


太陽が西へ傾き、空が赤みを帯び始める。


黒槌町を出てから半日ほど経った頃。


遠くの荒野に、いくつもの灯りが見えてきた。


高い木柵に囲まれた村。


内側には獣皮で作られた大きな天幕と、粗い丸太を組んだ木造家屋が混在している。


入り口の上には、狼の頭部を刺繍した旗が掲げられていた。


「陌狼村に着いたぞ」


御者が太い声で告げる。


手綱を引き、街道脇へ馬車を止めた。


三人は荷台から下りる。


夜の冷たい風が、荒野特有の土と乾いた草の匂いを運んできた。


「ここから先へは行かない」


御者はそれだけを言うと、馬車の向きを変える準備を始めた。


アーガたちは礼を告げ、陌狼村の入り口へ歩いていく。


木柵の前には、全身を武装した獣人の見張りが数人立っていた。


三人の姿を確認した瞬間、彼らの表情が険しくなる。


特に、人間であるアーガとリナへ向けられる視線には、強い警戒と敵意が込められていた。


一人の大柄な狼型獣人が前へ出る。


肩には厚い革鎧をつけ、手には長い斧を持っていた。


火の光を受け、口元の牙が白く光る。


「人間」


低い声が響いた。


「陌狼村へ何をしに来た?」


ほかの見張りたちも、すぐに武器へ手を掛けた。


イータの身体が僅かに硬くなる。


アーガは一歩前へ出た。


敵意を見せず、平静な表情で答える。


「カインに会いに来た」


狼型獣人の瞳孔が僅かに収縮する。


「第四隊長を知っているのか?」


「ああ」


アーガは相手の目を正面から見返す。


「アーガ・ラインハルトが来たと伝えてくれ」


見張りは、すぐには動かなかった。


三人を何度も確認し、隣の仲間と小声で相談する。


やがて、一人の若い獣人へ合図を送った。


その獣人は門の内側へ走っていく。


しばらくして。


村の奥から、地面を踏み鳴らす重い足音が近づいてきた。


見覚えのある狼型獣人が、松明の光の中へ姿を現す。


左目に古い傷を持つ、第四隊長カインだった。


カインは入り口まで来ると、アーガを鋭く見つめた。


「人間……」


低い声に、僅かな驚きが混ざっている。


「本当に来たのか」


アーガは軽く笑った。


「行くと言っただろう」


カインの視線が、アーガの後ろへ向けられる。


金髪のリナ。


白い狐耳と尻尾を持つイータ。


二人を順番に確認し、最後には不満そうに鼻を鳴らした。


「ついて来い」


それだけを言い、村の奥へ向かって歩き出す。


アーガたち三人は、顔を見合わせたあと、その背中を追った。


木柵の門が、重い音を立てて閉じられる。


無数の獣人たちの視線が、村へ足を踏み入れた三人へ集まっていた。


陌狼村の夜は、今まさに始まったばかりだった。


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