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第120話 取引

アーガがさらに会話を聞こうとした、そのとき。


建物の下から、複数の足音が近づいてきた。


「おい!」


路地の入り口で、野太い声が響く。


アーガが視線だけを下へ向けると、巡回中らしき大柄な男が立っていた。


男は二階の窓辺に張りついているアーガを見上げ、すでに腰の小型弩へ手を掛けている。


「そこで何をしている!」


室内の会話が、瞬時に止まった。


(気づかれたか)


アーガは一切迷わなかった。


窓枠から指を離し、身体を横へ振る。


足先で外壁を蹴り、隣の建物の屋根へ跳躍した。


「侵入者だ!」


「捕まえろ!」


路地の各所から怒声が上がった。


先ほどまで荷物を運んでいた男たちが武器を抜き、建物の中からも複数の護衛が飛び出してくる。


小型弩の弦が鳴った。


――ヒュッ!


アーガが屋根へ着地した直後、その背後を弩矢が通り過ぎる。


矢は煙突脇の木板へ深く突き刺さった。


アーガは振り返らない。


身体を低く保ち、黄カード2《チーター》の力を両脚へ集中させる。


一歩目で速度を上げ、二歩目で屋根の端へ到達する。


そのまま隣の建物へ跳び移った。


「屋根だ!」


「先回りしろ!」


下の通りでは、護衛たちがアーガの進行方向を予測しながら走っている。


別の男は建物の階段を駆け上がり、屋上へ回り込もうとしていた。


だが、黒槌町はあくまで辺境の小さな町だ。


ここにいる護衛の多くは、多少の戦闘経験があるだけの普通の人間にすぎない。


王都の騎士や、赤骸城で戦った強者たちとは違う。


複数人に先回りされて包囲されない限り、今のアーガを捕らえることは難しかった。


アーガは低い屋根を次々と飛び越えた。


途中で屋根の端から飛び降り、通りの上に張られている太い物干し縄をつかむ。


勢いを利用して反対側へ身体を振り、別の路地へ着地した。


さらに裏道を二本抜け、最後には木桶が積まれた民家の裏庭へ飛び込む。


物陰へ身を沈め、呼吸を抑えた。


遠くから聞こえていた追跡者たちの声が、次第に小さくなる。


どうやら進行方向を見失ったらしい。


アーガは壁へ背中を預け、静かに息を吐いた。


(《戦斧》か)


建物の隙間から、大通りの上に翻る旗が見えた。


暗い赤色の布。


その中央には、黒い戦斧の紋章が描かれている。


(次は、戦斧商会そのものを調べる必要があるな)


◇ ◇ ◇


戦斧商会の本部は、黒槌町で最も広い通りの突き当たりにあった。


市場に並ぶ粗末な露店とは、まるで異なる建物だった。


高さは三階。


外壁には大きさの揃った石材が使われ、表面も丁寧に磨かれている。


正面玄関まで続く道には深い灰色の石板が敷かれ、荷馬車が何度通っても泥濘にならないよう整備されていた。


大扉の左右には、それぞれ四人の護衛が立っている。


全員の胸元には、銀灰色の戦斧をかたどった徽章が留められていた。


建物の屋上では、先ほど見たものと同じ暗赤色の旗が風を受けて激しく揺れている。


その姿は、低い空を覆う血色の雲のようにも見えた。


アーガは通りを挟んだ向かい側にある、小さな茶店へ入った。


通りを見渡せる席へ腰を下ろし、粗末な陶器の茶杯を手に取る。


湯気の向こうから、商会の正面玄関を観察した。


(正面だけで八人)


(それ以外にも、かなり配置されているな)


商会の周囲には、護衛と思われる男が何人もいた。


通りの角。


建物脇の路地。


二階の露台。


一見すると通行人や荷運び人にしか見えない者も、一定の間隔で周囲を確認している。


彼らは王都の騎士団ほど洗練されてはいなかった。


それでも配置には明確な意図があり、互いの死角を補うように立っている。


(正面突破は無理だな)


黄カード2《チーター》を使えば、扉まで到達することはできるかもしれない。


だが、建物の内部に何人いるか分からない。


逃げ道も把握していない状態で侵入すれば、自分から袋の中へ飛び込むようなものだ。


アーガは茶を一口飲んだ。


苦い液体が喉を通る。


魔晶鉱粉を売る露店程度なら、店主や手下を一人捕らえて問い詰めることができた。


しかし戦斧商会は、明らかに規模が違う。


不用意に手を出せば、こちらの存在を完全に知られるだけで終わる。


(中へ入る別の方法が必要だ)


そう考えていたとき。


商会へ近づいていく一人の男が、視界へ入った。


アーガの目が僅かに細くなる。


見覚えのある姿だった。


(ホーン?)


トムの隣人である、あの中年の男だった。


ホーンは色褪せた古い革鎧を身につけている。


灰色がかった髭はきれいに整えられ、背中には使い込まれた布袋を背負っていた。


足取りはやや急いでいる。


しかし、戦斧商会の前で迷う様子はなかった。


初めて訪れた者には見えない。


ホーンは門前の護衛へ近づき、愛想のよい笑みを浮かべて話しかけた。


護衛は最初、警戒するように彼を見ていた。


だが、ホーンが懐から小さな布袋を取り出して渡すと、態度が明らかに変わった。


護衛は袋を掌の上で軽く量る。


口を僅かに開き、中身を確認した。


それからホーンの肩を叩き、近くにいる別の男へ何かを命じる。


間もなく、商会の中から一人の使用人が出てきた。


両腕には、透明な大袋を抱えている。


中には塩、油布、針、糸、木製の椀や杯などが詰められていた。


どれも一般家庭で使われる日用品に見える。


使用人はその袋をホーンへ渡した。


アーガは茶杯を置き、目を細める。


距離があるため、会話までは聞こえない。


口の動きも、すべて読み取ることはできなかった。


だが、ホーンが渡した小袋の口からは、陽光を受けて幽かな青い光が漏れていた。


(魔晶鉱粉か?)


アーガの視線は、ホーンが受け取った大袋へ移る。


入っている物は、確かに生活用品だ。


リンタ村で暮らしているなら、どれも必要になる。


ただし――


(本当に日用品を買っただけなのか)


(それとも、表向きの商品に何かを隠しているのか)


今の段階では判断できない。


ホーンは護衛とさらに数言交わした。


満足そうに頷き、大袋を抱えて商会から離れていく。


(追うべきか?)


アーガが迷った、そのとき。


戦斧商会の大扉が内側から開かれた。


一人の男が、二人の護衛を従えて外へ出てくる。


年齢は二十代半ばほど。


暗赤色の外套を肩へ掛け、身体は大きく鍛えられていた。


広い肩。


安定した足取り。


腰には短い戦斧が下げられている。


胸元に留められた徽章は、門番たちの物とは異なっていた。


銀色の戦斧の縁へ細かな模様が刻まれている。


少なくとも、普通の護衛より高い地位にいる者だろう。


身体から感じる魔力は、遊侠級程度。


男は玄関前で一度足を止め、鋭い眼差しで通り全体を見回した。


アーガはすぐに顔を伏せる。


茶を飲むふりをしながら、余光だけで男を観察した。


男が歩き出すと、周囲の護衛たちは一斉に道を空けた。


頭を下げる者もいる。


(あいつなら、内部の事情を知っている可能性が高い)


(問題は、どうやって近づくかだ)


赤外套の男は商会周辺の店舗を数軒回り、露店主や護衛と言葉を交わしていた。


どうやら、取引状況を確認するための巡回らしい。


アーガは会計を済ませ、一定の距離を保ってあとを追った。


近づきすぎず、相手を視界から外さない。


人混みを利用しながら歩き方や警戒の仕方を観察する。


赤外套の男は、明らかに尾行へ慣れていた。


何度か不意に立ち止まり、店の硝子や金属板へ映る背後を確認している。


このまま追い続ければ、いずれ気づかれるだろう。


アーガは一度、大通りにある衣服店へ入った。


そこで目立たない濃色の短い外套を購入する。


腰には鉱石の見本を入れるための革袋を下げ、頭髪も低く押さえた。


さらに店主から少量の染色用薬草液を買い、顔と首へ薄く塗る。


肌の色合いと輪郭の印象が、僅かに変わった。


完全な変装とは言えない。


だが、一度見ただけの相手なら、すぐに同一人物だとは気づかないだろう。


身支度を終えたあと、アーガは商会周辺でさらに半刻ほど時間を潰した。


やがて巡回を終えた赤外套の男が、本部へ戻ってくる。


周辺の通行人も、先ほどより少なくなっていた。


(今だ)


アーガは覚悟を決め、商会の正面へ向かった。


「止まれ!」


門前の護衛が鋭く声を上げる。


二人が同時に前へ出て、刀の柄へ手を置いた。


アーガは慌てた商人を装い、両手を見える位置へ上げる。


「ま、待ってくれ!」


「争いに来たわけじゃない!」


護衛の一人がアーガの肩を押す。


「用件があるなら受付を通せ」


「今は近づくな」


赤外套の男は足を止めたものの、振り返ろうとはしなかった。


アーガは声を張り上げる。


「戦斧商会と取引がしたい!」


男は僅かに顔だけを横へ向けた。


その眼差しには、興味も怒りもない。


道端で騒ぐ虫を見るような、冷淡な目だった。


すぐに片手を振り、護衛へ追い払うよう命じる。


護衛がさらに一歩近づいた。


「聞こえなかったのか?」


「帰れ」


アーガは押され、半歩後ろへ下がる。


それでも踏みとどまり、大声で言った。


「《生命泉石》を持っている!」


その言葉が落ちた瞬間。


赤外套の男の足が止まった。


周囲の空気まで、僅かに静まったように感じられる。


生命泉石。


それは、ただの希少鉱石ではない。


内部に蓄えられた生命力を引き出すことで、傷の回復を大幅に促進できる。


すでに命が尽きかけた者を救うことはできない。


失った手足を生やすことも不可能だ。


だが、重傷者の状態を安定させ、回復までの時間を大きく短縮する。


戦いに関わる者にとっては、一つが命そのものに等しい価値を持つことさえあった。


赤外套の男が、ゆっくりと振り返る。


今度は、その目に明確な関心が宿っていた。


「今、何と言った?」


アーガは護衛から目を逸らさず、先ほどより強い口調で繰り返す。


「生命泉石を持っている」


男は数秒間、アーガの顔を見つめた。


「見せろ」


アーガは一瞬だけ迷う素振りを見せた。


周囲へ視線を送り、簡単には見せたくないという表情を作る。


それから仕方なく、衣服の内側へ隠していた小袋を取り出した。


袋の口を開き、親指ほどの大きさをした浅緑色の鉱石を一つ取り出す。


鉱石の内部では、一筋の淡い光がゆっくりと流れていた。


まるで、小さな泉が透明な石の中へ封じ込められているようだった。


赤外套の男の瞳孔が僅かに収縮する。


偽物ではないと気づいたらしい。


だが、警戒心を失うことはなかった。


石を奪い取ろうとはせず、数歩近づいて状態を観察する。


やがて、護衛へ顎を向けた。


「通せ」


二人の護衛はようやく敵意を弱め、道を空けた。


赤外套の男は本部の中へ戻らず、商会の脇に建てられた小さな会客室へ向かう。


「ついて来い」


アーガは素直に頭を下げ、男のあとへ続いた。


伏せた目の奥に、冷たい光が宿る。


(食いついたな)


◇ ◇ ◇


会客室には、甘さの少ない香が焚かれていた。


壁には装飾用の大きな戦斧が掛けられ、床や机にも埃一つ見当たらない。


戦斧商会が、重要な取引相手を迎えるために使っている部屋らしい。


赤外套の男は奥の主座へ腰を下ろした。


片手を上げ、アーガへ向かい側の椅子を示す。


二人の護衛は扉の左右へ立ち、そのまま部屋に残った。


男は前置きもなく尋ねる。


「名前は?」


アーガは椅子へ浅く腰を掛け、低い声で答えた。


「ガイア」


「ガイアか」


男は値踏みするようにアーガを見る。


「どこで、これほど珍しい鉱石を手に入れた?」


「赤骸城方面だ」


その地名を聞いた瞬間、男の目が僅かに動いた。


「赤骸城?」


「あの死者の町か」


「多少の伝手があるだけだ」


アーガは苦笑を浮かべる。


「詳しい仕入れ経路は話せない」


「商売人なら分かるだろう。そこは商売上の秘密だ」


男は無言でアーガを見つめ続けた。


当然、完全には信じていない。


見知らぬ若者が突然現れ、希少な生命泉石を持ち込んだのだ。


疑う方が自然だった。


アーガも、一つ見せただけで相手が信用するとは考えていなかった。


そこで、ゆっくりと手を伸ばす。


先ほどの袋から、さらに二つの鉱石を取り出した。


三つの生命泉石を、机の上へ並べる。


淡い緑色の光が重なり合い、赤外套の男の瞳へ映り込んだ。


男の表情から、僅かに余裕が消える。


「同じ物は、まだある」


アーガは先ほどまでの弱々しい態度を捨てた。


椅子へ深く腰を掛け、正面から男の目を見返す。


「だから、今話すべきなのは仕入れ先ではない」


「戦斧商会が、この商品を買うつもりがあるかどうかだ」


アーガは机に並ぶ三つの生命泉石を指先で軽く叩いた。


「どうなんだ?」


声には、商人としての強気な響きが込められていた。


「お前たちは、俺とこの取引をするのか?」


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