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第119話 行動

アーガは手についた埃を払い、宿の外壁を伝って二階へ戻った。


窓から部屋へ入る前に、念のため周囲の気配を確認する。


追跡者の仲間が潜んでいる様子はない。


軽く窓枠を越えたあと、廊下へ出て部屋の扉を静かに叩いた。


「俺だ」


扉はすぐに開かれた。


リナとイータが、緊張した表情で顔を覗かせる。


「アーガ様!」


「どうでしたか?」


アーガは部屋へ入り、背後の扉を閉めた。


「聞き出せた」


声を落とし、二人へ説明する。


「連中の背後には、《戦斧》という組織がいる」


「黒槌町で売られている魔晶鉱粉と、人間側の武器取引を仕切っているらしい」


「町の衛兵隊も、戦斧から金を受け取っている」


リナは眉を寄せた。


「戦斧……」


「名前からして、まともな商会には聞こえませんね」


「実際、まともな連中ではないだろう」


アーガは冷たく笑った。


「管理物資を公然と売り、衛兵隊まで買収している」


「リンタ村と陌狼村の争いにも関わっているのなら、単なる商人とは考えにくい」


イータの尻尾が、不安そうに揺れる。


「これから、どうするんですか?」


アーガは窓辺へ歩き、市場の方向を眺めた。


露店の並ぶ通りは建物に遮られて見えないが、遠くから人々の喧騒が聞こえている。


「俺たちが魔晶鉱粉について探っていることは、もう向こうに知られた」


「追跡者の二人は逃がしたから、今頃は報告へ戻っているはずだ」


「なら、相手も必ず動く」


アーガの口元が僅かに上がった。


「こちらは、それを待てばいい」


リナが尋ねる。


「この部屋で待つのですか?」


「いや」


アーガは首を横へ振った。


「相手が警戒している以上、三人で動けば目立つ」


「俺一人で戻り、誰へ報告するのかを確認する」


リナは何かを言おうとして口を開いた。


だが、アーガの表情を見て、最後には言葉を飲み込む。


「……分かりました」


不満そうではあったが、無理について行こうとはしなかった。


「でも、必ず気をつけてください」


イータも強く頷いた。


琥珀色の瞳には、隠しきれない心配が浮かんでいる。


「アーガ様、絶対に無事に戻ってきてください」


二人の様子を見て、アーガの胸に小さな温かさが広がった。


「心配するな」


アーガはイータへ手を伸ばし、白い狐耳を軽く撫でた。


「危険だと思ったら、すぐに戻る」


イータの耳が敏感に動く。


だが、今度は驚いて逃げようとはしなかった。


むしろアーガの掌へ触れやすいよう、僅かに顔を上げる。


その様子を、リナが横からじっと見つめていた。


やがて頬を少し膨らませ、アーガの袖をつかむ。


「駄目です」


「何がだ?」


「私にもしてください」


リナは当然の権利を主張するように顔を上げた。


「イータだけというのは、不公平です」


アーガは呆れた表情を浮かべる。


「お前たちは、今がどういう状況か分かっているのか?」


「分かっています」


「それと、これは別の問題です」


「……」


(こいつは一体、何と競っているんだ)


アーガは仕方なく手を伸ばし、リナの金髪を軽く撫でた。


「これでいいだろう」


「では、行ってくる」


だが、リナはアーガの手首をつかんで離さなかった。


「駄目です」


「今度は何だ?」


「適当すぎます」


リナは不満そうに、イータへ一度だけ視線を向けた。


「イータのときは、もっと丁寧でした」


「耳と髪は違うだろう」


「同じようにしてください」


「どうやってだ……」


横では、イータが両手で口元を隠しながら笑っている。


白い尻尾の先が、楽しそうに揺れていた。


アーガは僅かに眉を上げる。


それから突然、リナの腰へ腕を回し、自分の方へ引き寄せた。


「えっ――」


リナは完全に不意を突かれた。


小さく声を上げ、そのままアーガの胸元へ倒れ込む。


顔を上げると、アーガの顔がすぐ近くにあった。


「ち、近いです……」


先ほどまでの強気な声は消え、急に小さくなる。


深い青色の瞳が、僅かに揺れた。


アーガは片手でリナの顎を支えた。


親指で頬を軽く撫でる。


二人の顔は、互いの息が感じられるほど近づいていた。


リナの瞳には、アーガ自身の姿が映っている。


呼吸も、急に速くなっていた。


「これで満足か?」


アーガは低い声で尋ねた。


吐息が、リナの顔へかかる。


リナの顔は一瞬にして赤くなった。


頬だけでなく、耳の先まで朱色に染まっていく。


何かを答えようと口を開いたものの、声は出なかった。


最後には、慌てたように何度も頷く。


アーガは腕を解き、リナから離れた。


「なら、今度こそ行ってくる」


「わ、分かりました!」


リナは大きく手を振った。


表情を取り繕おうとしているが、耳の赤みはまったく消えていない。


イータも素直に頷く。


「ここで待っています!」


アーガは最後に二人を確認し、目立たない色の外套を羽織った。


窓を開け、素早く外へ出る。


◇ ◇ ◇


朝の風は、まだ少し冷たかった。


アーガは建物の屋根と裏路地を利用しながら、先ほどの市場へ急いだ。


正面から近づくことはせず、周囲の建物の陰へ身を隠す。


例の露店が見える場所まで来ると、足を止めた。


ちょうど、逃がした二人の追跡者が店主のところへ戻ったところだった。


二人とも息を切らし、周囲を気にしながら店主へ報告している。


「親分、大変だ!」


一人が声を潜めた。


「三番目の奴が消えた!」


椅子へ座っていた肥満した商人の顔が、一瞬で険しくなる。


「消えただと?」


「どういう意味だ!」


「宿の裏口まで、確かについて来ていたんです」


もう一人が額の汗を拭う。


「だが、少し目を離した間に姿がなくなった」


「周囲を探しましたが、どこにもいません!」


「役立たずどもが!」


商人は露店の机を激しく叩いた。


積まれていた小瓶が、一斉に音を立てる。


周囲の客がこちらを見ると、商人は慌てて声を抑えた。


左右を確認し、隣の露店で荷物を整理していた少年を呼び寄せる。


「少しの間、ここを見ていろ」


「誰にも商品を触らせるな」


「はい」


少年が頷く。


商人は二人の手下を連れ、市場の裏手へ急いで歩いていった。


アーガは物陰から、その背中を追う。


三人は大通りを外れ、灰色の二階建ての建物へ入っていった。


建物自体は、それほど目立つものではなかった。


外壁は灰白色の石で造られ、窓際には数束の乾燥薬草が吊るされている。


一見すれば、薬屋か露店の倉庫にしか見えない。


だが、商人が扉へ入る直前。


入り口で荷物を運んでいた二人の男が、反射的に腰の短刀へ手を添えた。


商人の顔を確認したあと、すぐに手を離している。


(やはり、普通の倉庫ではないな)


アーガはすぐには追わなかった。


何も気づいていない通行人を装い、そのまま建物の前を通り過ぎる。


二本先の通りまで進み、背後に尾行者がいないことを確認した。


その後、細い裏道を使って建物の側面へ回り込む。


建物脇の路地には、空の木箱や破れた麻袋が乱雑に積まれていた。


湿った黴の臭い。


乾燥薬草の苦い香り。


その中へ、魔晶鉱粉特有の僅かな魔力臭が混じっている。


アーガは壁際へ立ち、頭上を見上げた。


二階の窓が一つだけ半開きになっている。


黄カード2《チーター》の力を僅かに発動する。


足先で壁を蹴り、身体を軽く浮かせた。


指を石壁の隙間へ掛け、音を立てないよう慎重に登っていく。


赤骸城で何度も追跡や潜入を経験したことで、こうした動きにも随分と慣れていた。


間もなく、二階の窓枠へ到達する。


アーガは身体を外壁へ密着させ、窓の下へ身を伏せた。


開いている隙間から、室内の様子を覗く。


先ほどの肥満した商人が、部屋の中を落ち着きなく歩き回っていた。


中央の机には、青い粉末が入った袋がいくつも並んでいる。


その隣には、何枚もの帳簿や伝票らしき紙が広げられていた。


二人の追跡者は扉のそばへ立っている。


どちらも顔色が悪い。


「おかしい」


商人は親指の爪を噛みながら呟く。


肥厚した頬が、焦りによって小さく震えていた。


「どう考えてもおかしい」


「本当に、あの小僧が普通の商人なら、どうして一人だけ突然消える?」


扉の近くにいた男が、慎重に口を開く。


「三番目の奴が、自分で見失っただけでは?」


「見失っただと?」


商人は勢いよく振り返った。


「奴は黒槌町で十年も尾行の仕事をしている!」


「昨日今日やって来た若造一人を追っていて、何の痕跡もなく消えると思うのか?」


「……」


手下は何も答えられなかった。


アーガは窓の外で、表情を変えずに会話を聞いていた。


彼らが三番目と呼んでいる男は、今も市場裏の物陰で蔓に縛られている。


アーガは命までは奪っていない。


首筋を打って意識を失わせただけなので、すでに目を覚ましている可能性もあった。


だが、手足と口を拘束されているため、すぐに戻ることはできない。


今回の目的は、魔晶鉱粉を販売する者たちの反応を見ることだった。


ところが、相手の警戒はアーガの予想以上に早かった。


少し商品の時期や仕入れ先を尋ねただけで、すぐに四人もの監視をつけてきた。


それだけでも、後ろ暗い事情を抱えていることは明らかだった。


部屋の中に、短い沈黙が流れる。


そのとき。


部屋の隅に置かれていた椅子から、一人の男がゆっくりと立ち上がった。


灰色の長衣をまとった、背の高い痩身の男だった。


先ほどまで室内の暗がりへ溶け込んでいたため、アーガもすぐには存在に気づかなかった。


頭から深く被った頭巾によって、顔の大半は隠れている。


見えるのは、骨張った細い顎だけだった。


「《一号》へ報告するか?」


男の声は、砂を擦り合わせるように掠れていた。


アーガの目が僅かに動く。


(一号?)


肥満した商人の顔色が変わった。


慌てたように片手を振る。


「いや、あの方を煩わせる必要はない」


「まずは戦斧へ連絡しろ」


「連中に処理させればいい」


「俺たちは、言われたとおりに商品を流しているだけだ」


灰衣の男は、しばらく黙っていた。


「もし、あの若者が本当に魔晶鉱粉を調べているのなら?」


「だからこそ、戦斧へ任せるんだ」


商人は苛立たしそうに答えた。


「この商品を町へ流せと命じたのは戦斧だ」


「問題が起きたのなら、連中が責任を取るべきだろう」


「俺たちが前へ出る必要はない」


窓の外で、アーガはゆっくりと眉を寄せた。


捕らえた男の話では、《戦斧》は黒槌町の魔晶鉱粉と武器取引を支配する組織だった。


だが、今の会話から判断すれば、肥満した商人や灰衣の男は戦斧の正式な構成員ではない。


少なくとも、表向きは商品を販売する協力者にすぎないらしい。


そして、その彼らさえ不用意に名前を出したがらない《一号》という存在。


戦斧より上にいる者なのか。


それとも、この計画全体を指揮する別の人物なのか。


今の情報だけでは判断できない。


(戦斧がすべての黒幕ではないのか?)


アーガは呼吸を殺し、さらに室内の会話へ耳を澄ませた。


(どうやら、この町の闇は想像以上に深いらしい)


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