表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
118/208

第118話 調査

翌朝。


空が明るくなり始めて間もなく、宿の従業員が大きな木桶を抱えて部屋の扉を叩いた。


「お客さん、お湯をお持ちしました」


扉を開けた従業員は、湯気の立つ木桶を部屋の隅へ置いた。


額に浮かんだ汗を袖で拭い、そのまま部屋を出ようとする。


「少し待ってくれ」


窓辺に立っていたアーガが呼び止めた。


従業員は足を止め、不思議そうに振り返る。


「ほかに何かございますか?」


アーガは何気ない様子を装い、窓の外へ視線を向けたまま尋ねる。


「昨日、市場で魔晶鉱粉を売っている露店を何軒も見た」


「魔晶鉱粉は、本来なら勝手に売買できない管理物資だったはずだ」


「どうして黒槌町では、あれほど堂々と売られている?」


従業員は一瞬、表情を固くした。


それから廊下の左右を確認し、静かに扉を閉める。


「お客さんたちは、この町の人ではありませんね?」


「昨日来たばかりだ」


「それなら、知らないのも無理はありません」


従業員は声を落とした。


「最近、リンタ村と陌狼村の関係が悪化しているんです」


「すでに何度か、小さな戦いも起きていると聞きました」


「魔晶鉱粉は獣人や魔獣の力を一時的に高められますから、今はとてもよく売れるんですよ」


アーガは目を僅かに細めた。


「売れるかどうかは関係ない」


「管理物資なら、町の衛兵隊が取り締まるはずだろう」


従業員は困ったように笑った。


「取り締まりなんて、形だけですよ」


「以前、陌狼村の獣人が何人か町へ来て、衛兵隊に訴えたそうです」


「人間の商人が魔晶鉱粉を勝手に売っている、と」


「結果は?」


「何も変わりませんでした」


従業員は肩をすくめる。


「衛兵隊は、正式な証拠がないと言って追い返したそうです」


「露店側は、魔晶鉱粉ではなく、許可された獣用の強化薬だと言い張っています」


「袋や瓶に《魔晶鉱粉》とは書いてありませんからね」


「誰が見ても同じ物なのに、衛兵たちは調べようともしません」


アーガは無言で従業員の顔を見る。


相手はさらに声を低くした。


「余計なお世話かもしれませんが、この町にしばらく滞在するつもりなら、あまり深く関わらない方がいいですよ」


「黒槌町には、表から見えないところで力を持っている連中がいます」


「下手に逆らえば、どうして不運が続くのかさえ分からないまま、町にいられなくなります」


そこまで話すと、従業員は自分が口を滑らせすぎたことに気づいたらしい。


慌てて頭を下げた。


「お湯が冷めないうちにお使いください」


「私はこれで失礼します」


従業員は足早に部屋を出ていった。


扉が静かに閉まる。


アーガはしばらく、その扉を見つめていた。


瞳が少しずつ鋭くなる。


(やはり、自分たちで確かめるしかないな)


◇ ◇ ◇


黒槌町の朝は、夜以上に騒がしかった。


通りの両側にはすでに露店が並び、商人たちの呼び声が絶え間なく響いている。


荷車が石畳の上を通る音。


鉄を打つ金属音。


家畜の鳴き声。


酒場から追い出された酔っ払いの怒鳴り声まで、町のあらゆる音が混ざり合っていた。


アーガはリナとイータを連れ、人混みの中をゆっくりと進んだ。


三人の視線は、《強化薬》や《獣用薬剤》と書かれた看板を掲げる露店へ向けられている。


売られている薬は多かった。


遠くの音を聞き取りやすくする聴覚強化薬。


暗闇でも物を見やすくする視覚強化薬。


疲労を一時的に感じにくくする薬もある。


だが、最も多く並べられているのは魔晶鉱粉だった。


名前こそ《獣用強化粉末》などと書き換えられているが、青白い色と独特の魔力は隠しようがない。


やがて、アーガの視線が一軒の大きな露店で止まった。


周囲の店よりも規模が大きい。


棚の上には、封をされた小瓶が数百本近く積まれている。


瓶の中では青色の粉末が陽光を反射し、不気味な光を放っていた。


店主は、肥満した中年の男だった。


客がいない間は椅子へ深く座り、退屈そうに欠伸をしている。


(あれほど堂々と売っているなら、こちらも遠慮する必要はない)


(少し刺激してみるか)


アーガは迷うことなく露店へ近づいた。


棚に置かれている瓶を一本取り、軽く振ってみる。


「これは、いくらだ?」


店主は面倒そうに顔を上げた。


しかしアーガの後ろにいるイータの狐耳と尻尾を見ると、表情が一瞬で変わった。


満面の笑みを浮かべ、太い手を擦り合わせる。


「おやおや、お客さん!」


「そちらの獣人へ使う薬をお探しですか?」


イータの耳が僅かに伏せられた。


アーガは店主の誤解を訂正しなかった。


「効果は?」


「もちろん保証しますとも!」


店主は声を弾ませた。


「一瓶、たったの銀貨五枚です!」


「飲ませれば身体能力が一気に高まり、戦闘力が二倍になることもあります!」


「危険な魔獣と戦わせるなら、これほど心強い商品はありませんよ!」


アーガは瓶の中身を観察しながら、何気ない口調で尋ねた。


「売り始めたのは、つい最近だろう?」


「以前に黒槌町へ来たときは、これほど多く並んでいなかった気がする」


店主の笑顔が一瞬だけ固まった。


だが、すぐに先ほどの愛想笑いへ戻る。


「いやだなあ、お客さん」


「うちでは、もう何か月も前から扱っていますよ」


「仕入れ先もしっかりしているので、いくらでも用意できます」


「そうなのか?」


アーガは眉を上げる。


口元には、僅かな嘲笑が浮かんでいた。


「それは随分と都合がいい」


「陌狼村とリンタ村の争いが始まり、獣人側が力を必要とするようになった」


「ちょうど同じ時期に、お前の店には大量の商品が入ってきたわけか」


店主の頬から笑みが消えた。


「何が言いたい?」


「別に」


アーガは瓶を指先で弄ぶ。


「偶然にしては、出来すぎていると思っただけだ」


「もしかすると、争いが起きることを最初から知っていた者でもいるのかとな」


店主の顔が一気に険しくなった。


「買わないなら失せろ」


「営業の邪魔だ」


アーガは瓶を机へ置いた。


――カンッ。


乾いた音が響く。


「随分と余裕がなくなったな」


「都合の悪いところを突かれたか?」


「てめえ……!」


店主は勢いよく立ち上がった。


腹と頬の肉が激しく揺れる。


「喧嘩を売っているのか!?」


周囲の客や商人が、何事かとこちらへ目を向け始めた。


リナの袖の中では、細い荊棘が静かに伸びている。


イータも身体を低くし、いつでも動けるよう構えた。


しかし、アーガは片手を上げて二人を制した。


「行こう」


店主に背中を向ける。


「これ以上話しても、時間の無駄だ」


「二度と来るな!」


店主の罵声が背後から飛んでくる。


「次に妙な言いがかりをつけたら、ただでは済まさないからな!」


アーガは振り返らなかった。


三人はそのまま露店を離れ、人混みの中へ入っていく。


◇ ◇ ◇


店が見えなくなるほど離れたところで、リナが声を落として尋ねた。


「アーガ様」


「どうして、わざとあの商人を怒らせたのですか?」


アーガの口元に冷たい笑みが浮かぶ。


「様子を見るためだ」


「後ろ暗いことがなければ、少しくらい疑われても、あそこまで露骨には反応しない」


「それに、こちらが事情を探っていると分かれば、相手は何らかの行動を起こすかもしれない」


イータの耳が勢いよく立った。


「わざと警戒させたんですね!」


「ああ」


「藪を叩けば、中に隠れている蛇が動く」


アーガは歩きながら、露店の方向を横目で確認した。


「ただし、あの店主もそこまで愚かではなさそうだ」


「すぐには動かず、まずはこちらの素性を調べようとする可能性が高い」


「しばらく別の場所を見て回り、あとで戻って監視する」


リナは袖の中に出していた荊棘を静かに消した。


「次は、どこへ行きますか?」


アーガは市場の奥へ目を向ける。


そこには、周囲の建物より頑丈そうな灰色の石造りの建物があった。


入り口には、フラスコと杖を組み合わせた紋章が掲げられている。


看板には、《錬金術師協会・黒槌町支部》と書かれていた。


「あそこだ」


アーガは建物を指さす。


「魔晶鉱粉は、鉱石を砕くだけで完成する物ではない」


「不純物を取り除き、魔力を安定させるための加工が必要だ」


「これだけの量を用意するなら、錬金術師か専用の工房が関わっているはずだ」


三人は市場の中央を抜け、錬金術師協会へ向かって歩き出した。


周囲の喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。


アーガは無意識にカードケースの縁を指で撫でた。


瞳には鋭い光が宿っている。


(本当に、誰かが両方の村を操っているのなら……)


その思考は、突然引かれた外套の感触によって遮られた。


アーガが横を見る。


イータが外套の裾をつかんでいた。


狐耳は警戒するように立ち、尻尾が落ち着かなさそうに揺れている。


「ア、アーガ様……」


「どうした?」


「誰かが、私たちのあとをつけています」


アーガの瞳孔が僅かに収縮した。


だが、歩調も表情も変えなかった。


「何人だ?」


イータは耳を僅かに動かす。


背後の足音を一つずつ聞き分けているらしい。


「三人……」


一度言葉を止める。


「いえ、四人です」


「露店を離れてから、ずっと同じ距離を保っています」


アーガの口元が僅かに上がった。


「どうやら、餌には食いついたらしい」


リナが小さな声で尋ねる。


「どうしますか?」


アーガは周囲の露店を眺めながら考えた。


その後、二人だけに聞こえる声で指示する。


「俺たちも魔晶鉱粉を売っている商人のふりをする」


「値段を下げられて商売にならないと、不満を言え」


リナはすぐに意図を理解した。


少しだけ声を張り上げる。


「困りましたね」


「あれほど安く売られたら、私たちの商品がまったく売れません」


イータも慌てながら話を合わせた。


「そ、そうですね」


「このままでは、露店の場所代さえ払えなくなります……」


アーガは聞こえよがしにため息をついた。


イータの肩を軽く叩く。


「仕方ない」


「まずは朝食にしよう」


「これからどうするかは、飯を食いながら考える」


三人は通り沿いにあった小さな麺料理店へ入った。


店の中には湯気と肉の香りが満ちている。


空いている卓へ座り、牛肉を載せた麺料理を三杯注文した。


料理が運ばれてきたあとも、三人は打ち合わせどおり会話を続ける。


アーガは麺を食べながら、視線だけを入り口へ向けた。


間もなく、追跡していた四人の男たちも店へ入ってきた。


彼らはアーガたちから少し離れた卓へ座る。


料理を注文するふりをしながら、こちらの話へ耳を傾けていた。


リナは箸で麺をゆっくり混ぜ、大きくため息をつく。


「私たちも、値段を下げるしかないのではありませんか?」


「今のままでは、一瓶も売れないと思います」


イータは困ったように耳を伏せる。


「でも、仕入れ値が高いです」


「これ以上安くしたら、売るほど損をしてしまいます……」


アーガも頭を抱えるふりをした。


「こうなったら、別の町へ移るしかないかもしれないな」


「黒槌町では、もう商売を続けられそうにない」


追跡者たちは、互いに視線を交わした。


やがて、その中の一人が静かに立ち上がる。


代金だけを机へ置き、足早に店の外へ出ていった。


(報告へ向かったか)


(完全に信じたわけではないだろうが、無視もできないらしい)


アーガは何も気づいていないふりをして、残っていた麺を食べ終えた。


口元を布で拭く。


「宿へ戻ろう」


三人は店を出た。


急ぐ様子を見せず、周囲の露店を眺めながら《樫木亭》へ戻る。


残った三人の追跡者も、一定の距離を保ちながらついてきていた。


アーガたちは正面玄関を使わず、建物の裏側にある従業員用の入り口へ向かった。


薄暗い裏口へ足を踏み入れたところで、アーガが低く告げる。


「予定どおりに動け」


リナとイータは小さく頷いた。


二人は何事もなかったように廊下を歩き、そのまま二階へ続く階段を上っていく。


一方、アーガは廊下の角へ入った直後、足音を消した。


近くの小窓を開け、身体を滑り込ませる。


黄カード2《チーター》の力を僅かに使い、音もなく裏路地へ着地した。


そのまま建物の壁に沿って移動し、裏口が見える死角へ身を隠す。


息を殺して待つ。


間もなく、三人の男が裏口から入ってきた。


先頭の二人が、リナとイータのあとを追って階段の方向へ進む。


最後尾の一人は周囲を警戒しながら、少し遅れて廊下へ入った。


(今だ)


アーガは影の中から飛び出した。


最後尾の男が振り返るより早く、赤カード3《草》の力を発動させる。


床板の隙間から数本の細い蔓が伸びた。


男の両手と両足へ絡みつき、身体の自由を奪う。


「むぐっ!?」


声を上げる前に、別の蔓が口を塞いだ。


アーガは男の襟首をつかみ、そのまま裏路地の奥へ引きずり込む。


数秒後。


前を歩いていた二人が異変に気づいた。


足を止め、同時に振り返る。


だが、そこにいたはずの仲間は忽然と消えていた。


「おい、あいつはどこだ?」


一人が小声で叫ぶ。


「今まで後ろにいたはずだ……」


もう一人の顔が青ざめた。


周囲を見回す。


「まずい」


「気づかれている。戻って報告するぞ!」


二人は慌てて裏口から飛び出し、市場の方向へ走り去っていった。


アーガは物陰からその背中を確認する。


追いかけることはしなかった。


一人は報告へ向かわせる必要がある。


二人残した方が、相手も捕らえられた仲間を探すより、まず上へ知らせることを優先するだろう。


(これで、向こうも慌てて動く)


アーガは足元へ目を向けた。


蔓に縛られた男が、顔を青くして震えている。


痩せた身体。


安物の革服。


腰には短刀が一本あるが、熟練した戦士には見えない。


「さて」


アーガは男の口を塞いでいた蔓だけを解いた。


カードケースへ指を添えたまま、冷たい目で見下ろす。


「誰に命じられて、俺たちを尾行した?」


男は激しく首を横へ振った。


「し、知らない!」


「俺は何も知らない!」


「偶然、同じ道を歩いていただけだ!」


「そうか」


アーガはしゃがみ込み、男の右腕をつかんだ。


肘を本来とは逆の方向へ、ゆっくりと押し始める。


「では、もう一度だけ聞く」


「誰の命令だ?」


男の顔から血の気が引いた。


「ま、待ってくれ!」


「本当に、俺はただ金をもらっただけで……!」


「名前を言え」


腕へ加わる力が、少しだけ強くなる。


男は冷や汗を流し、ついに叫んだ。


「《戦斧》だ!」


「戦斧の連中に頼まれた!」


アーガの手が止まった。


「戦斧?」


「この町の組織か?」


男は何度も頷く。


「そうだ!」


「戦斧は、黒槌町の魔晶鉱粉と武器の取引を仕切っている!」


「俺たちは戦斧の正式な構成員ですらない!」


「怪しい人間が魔晶鉱粉について聞き回っていないか見張れと言われて、金をもらっただけなんだ!」


「さっきの商人も、戦斧の人間か?」


「直接の構成員かどうかは知らない!」


「だが、戦斧に許可をもらわなければ、この町で魔晶鉱粉は売れない!」


アーガは男の目を見つめた。


嘘をついている様子はない。


少なくとも、恐怖で知っていることをすべて話そうとしている。


「もう一つ聞く」


「どうして、管理物資をこれほど堂々と売れる?」


「町の衛兵隊は何をしている?」


男の視線が揺れた。


「それは……」


「答えろ」


「知らない! 俺のような下っ端が知ることじゃ――」


アーガは再び男の腕へ力を加えた。


関節が軋む。


「や、やめろ!」


男の額から汗が流れ落ちた。


「言う! 言うから!」


アーガは動きを止める。


男は荒い息を吐きながら、震える声で続けた。


「衛兵隊は買収されている!」


「隊長も、何人かの上役も、戦斧から金を受け取っているんだ!」


「だから、露店が何を売っていても本気では調べない!」


「誰かが訴えても、証拠がないと言って追い返す!」


「俺が知っているのは、本当にそれだけだ!」


アーガは数秒間、男を見つめ続けた。


やがて、小さく鼻を鳴らす。


「十分だ」


男が安堵の息を吐きかけた瞬間。


アーガは手刀を首筋へ打ち込んだ。


男の目から力が抜け、そのまま意識を失う。


アーガは男を路地のさらに奥へ運んだ。


外から見えない場所へ座らせ、蔓を使って手足を固く縛る。


口にも布を噛ませた。


すぐには目を覚まさないだろう。


仮に目覚めても、自力で縄を解くことは難しい。


アーガは立ち上がり、先ほど二人が逃げた市場の方向へ目を向けた。


《戦斧》。


魔晶鉱粉と武器の取引を支配する組織。


そして、その組織から金を受け取っている黒槌町の衛兵隊。


(どうやら、想像していた以上に根が深いらしいな)


アーガは外套についた埃を払い、静かに宿へ戻った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ