表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
117/208

第117話 安らぎの時間

そのとき。


扉の方から、冷たい声が聞こえた。


「二人とも、何をしているんですか?」


アーガは勢いよく振り返った。


そこにはリナが立っていた。


金色の髪はまだ少し濡れており、片手には髪を拭くための布を持っている。


深い青色の瞳が、アーガとイータの間をゆっくりと往復した。


最後に、その視線が止まる。


アーガがまだつかんでいた、イータの白い尻尾の上で。


部屋の空気が一瞬で静まり返った。


「リ、リナお姉ちゃん!」


イータは尻尾を勢いよく引っ込めた。


顔は湯気が出そうなほど真っ赤になっている。


「違うんです! リナお姉ちゃんが考えているようなことではなくて……!」


リナはゆっくりと部屋へ入ってきた。


「私はまだ、何も考えていませんけど」


「それなら、その顔は何なんだ……」


アーガは手を引き、できるだけ平静を装った。


「ただ少し、触り心地が気になっただけだ」


「そうですか」


リナはアーガの前まで来た。


手にしていた布を椅子へ置き、静かに頭を下げる。


「では、私の分は?」


アーガは彼女を見つめた。


「お前には耳も尻尾もないだろう」


リナが顔を上げる。


声は小さかったが、そこには隠しきれない不満が滲んでいた。


「髪があります」


「……」


アーガは言葉を失った。


その横で、イータが小さく呟く。


「リナお姉ちゃん、また嫉妬しているみたいです」


リナは即座に振り返った。


「イータ」


イータは首を縮める。


「ごめんなさい」


アーガは諦めたように息を吐き、リナの頭へ手を伸ばした。


まだ少し湿っている金髪を、指先で軽く撫でる。


リナの髪は、イータの毛並みとはまるで違っていた。


イータの髪や耳は、暖かな小動物のように柔らかく、ふわふわとしている。


一方、リナの金髪は一本一本が細く滑らかだった。


ほのかに花の香りが漂い、指の間を流れていく感触は、湿った月光をすくっているかのようだった。


最初は不満そうな表情を崩さなかったリナも、何度か頭を撫でられるうちに、肩から少しずつ力が抜けていく。


アーガは、その変化を見逃さなかった。


「お前も、撫でられるのが好きなんじゃないか?」


リナの頬が赤くなった。


すぐに顔を横へ背ける。


「好きではありません」


イータが目を瞬かせる。


「でも、リナお姉ちゃんの耳が赤くなっています」


「イータ」


「何も言ってません!」


アーガは、ついに声を出して笑った。


先ほどまで部屋へ漂っていた微妙な空気は、イータの一言によって完全に消えてしまった。


リナもいつまでも険しい顔を保つことはできず、小さく鼻を鳴らす。


それでも、アーガの手から逃れようとはしなかった。


しばらくして。


イータは自分の尻尾を腕の中へ抱えながら、小さな声で言った。


「アーガ様は、以前はこんなことをしませんでしたよね」


アーガの手が止まった。


「そうか?」


「はい」


イータは頷く。


「赤骸城にいた頃のアーガ様は、いつも難しい顔をしていました」


「毎日、訓練することや、お金を稼ぐこと、それから赤骸城を出ることばかり考えていました」


リナも静かに口を開く。


「あの頃のアーガ様は、ずっと何かに耐えているように見えました」


アーガは黙り込んだ。


窓の外に揺れている黄褐色の灯りへ視線を向ける。


何と答えればよいのか、すぐには分からなかった。


確かに、赤骸城では心を緩める余裕などなかった。


毎朝目を覚ますたび、金が足りるかを考えた。


身体の傷が治るか。


今日を無事に生き延びられるか。


次に出会う敵が、これまでより強くないか。


常に何かへ備え続けなければならなかった。


赤骸城では、空気そのものが張り詰めている。


暖かな部屋に座り、耳を触っただの、頭を撫でてもらっていないだのと、くだらないことで言い争う時間などなかった。


「ようやく、あの場所を出られたからだろうな」


アーガはしばらくして答えた。


「少し気が緩みすぎているのかもしれない」


リナはアーガを見つめる。


その声は、先ほどまでより柔らかかった。


「それでもいいと思います」


アーガが彼女へ目を向ける。


リナの頬には、まだ僅かに赤みが残っていた。


だが、眼差しは真剣だった。


「アーガ様は、いつも緊張している必要はありません」


「少なくとも、私たちの前では少しくらい力を抜いてください」


イータも勢いよく頷いた。


「はい!」


「わ、私も、アーガ様に耳を触らせてあげます!」


リナが横目でイータを見る。


イータはすぐに声を小さくした。


「……たまにですけど」


アーガは苦笑する。


「お前たちは、本当に……」


両手を伸ばし、二人の頭を同時に少し乱暴に撫でる。


「アーガ様!」


リナがすぐに抗議した。


イータは逆に目を細め、少し嬉しそうにしている。


ひとしきり騒いだあと、部屋の中はようやく静かになった。


◇ ◇ ◇


三人は、寝る場所を決めることにした。


話し合いの結果。


リナとイータの強い主張によって、アーガが広い寝台の端へ眠ることになった。


イータは中央寄り。


リナは反対側を使う。


小さな寝台は、荷物置き場となった。


アーガは広い寝台を見つめ、眉を寄せる。


「これでは、余計に狭くなっただけじゃないか?」


リナは枕の位置を整えながら答える。


「アーガ様を狭い寝台へ寝かせるよりはいいです」


イータも尻尾を抱えたまま頷いた。


「それに、みんなで寝た方が暖かいです」


「もう春だぞ」


「夜はまだ冷えます」


「この部屋は窓も閉まるだろう」


「それでも冷えます」


二人とも譲る気はないらしい。


アーガは反論することを諦め、寝台へ横になった。


灯りを消すと、室内はすぐに暗闇へ包まれた。


窓の外から、遠くの市場に残る喧騒が僅かに聞こえてくる。


それ以外には、三人の浅い呼吸だけが響いていた。


最初のうち、イータは緊張しているようだった。


尻尾を胸の前へ抱え、身体を小さく丸めている。


だが、しばらくすると眠気に勝てなくなったらしい。


腕の中にあった白い尻尾が少しずつ緩み、いつの間にかアーガの手首へ載っていた。


アーガは尻尾へ目を落とす。


もう一度撫でてみたいという衝動に駆られたが、どうにか耐えた。


反対側にいるリナも、まだ眠っていないようだった。


しばらくの沈黙のあと。


彼女が、とても小さな声で呼びかける。


「アーガ様」


「どうした?」


「ありがとうございます」


アーガは僅かに驚いた。


「どうして、急に?」


リナは少し黙り込んだ。


やがて、隣にいるイータを起こさないよう、声を抑えて話し始める。


「あのとき、私を買ってくれたことです」


「それから、私の病気を治してくれたことも」


暗闇の中で、リナの声だけが静かに響く。


「赤骸城にいた頃は、自分がいつか、こんなふうに生きられるとは思っていませんでした」


アーガはすぐには答えなかった。


初めてリナと出会った日のことを思い出す。


少女は冷たい鉄格子の中へ閉じ込められていた。


身体を小さく丸め、顔は病的なほど白かった。


青い瞳には、生きることへの希望がほとんど残っていなかった。


今、隣にいる少女とは、まるで別人のようだった。


イータの耳を触ったことで不満を見せる。


頭を撫でられれば、素直には認めなくても喜ぶ。


そんな些細なことで表情を変えられるほど、リナは日常を取り戻している。


「お前が感謝することじゃない」


アーガは低い声で答えた。


「お前は最初から、あんな場所へ閉じ込められるようなことはしていない」


今度は、中央にいたイータが小さく声を上げた。


「私も、アーガ様にお礼を言いたいです……」


アーガはイータへ視線を向ける。


イータは尻尾を抱え直していた。


琥珀色の瞳が、暗闇の中で淡く光っている。


「アーガ様が私を引き取ってくれなかったら、今頃どうなっていたか分かりません」


アーガはしばらく何も言えなかった。


胸の奥へ、言葉にできない温かさが広がる。


自分はこれまで、復讐のためだけに進んでいるのだと思っていた。


サン・ローラン城へ戻る。


兄とラスティを見つける。


自分を陥れた者たちから、奪われたものを取り戻す。


それだけが、この旅の目的だと思っていた。


だが、隣にいる二人の声を聞いていると、今の自分が歩き続ける理由は、それだけではないような気がした。


守らなければならないものが、いつの間にか増えている。


「もう寝ろ」


アーガは穏やかな声で言った。


「明日は、黒槌町の件を調べなければならない」


「はい」


リナが静かに答える。


イータも目を閉じた。


「おやすみなさい、アーガ様」


夜風が窓枠を軽く揺らす。


遠くから聞こえていた市場の騒音も、少しずつ小さくなっていった。


やがて、アーガの両側から規則正しい寝息が聞こえ始める。


アーガは二人の上へ掛かっている毛布を、少しだけ引き上げた。


黒槌町の夜は、想像していたほど悪いものではなかった。


◇ ◇ ◇


翌朝。


カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、部屋の床へ細い光の筋を作っていた。


アーガはゆっくりと目を開ける。


一晩中ほとんど身体を動かしていなかったらしく、昨夜と同じ姿勢のままだった。


リナの金髪が枕の上へ広がっている。


反対側では、イータが身体を丸めて眠っていた。


白い尻尾は、まだ無意識にアーガの手首へ載せられている。


狐耳も、ときどき小さく動いていた。


アーガはその耳を数秒見つめた。


(昨日は、少し夢中になりすぎたな)


尻尾を起こさないよう、ゆっくりと手を引き抜く。


だが、イータの耳は僅かな物音も聞き逃さなかった。


ぴくりと動き、琥珀色の瞳が薄く開かれる。


「アーガ様……?」


寝起きの声は、普段よりもさらに柔らかかった。


「朝だ」


アーガは声を落として答える。


「今日は調べることがある。そろそろ起きろ」


そのやり取りで、リナも目を覚ました。


眠そうに目を擦る。


そして、自分がアーガのすぐ近くで眠っていたことに気づくと、頬が一瞬で赤くなった。


慌てて上半身を起こす。


「お、おはようございます」


「おはよう」


アーガは寝台から下り、部屋の隅に置かれた洗面器の前へ向かった。


冷たい水を両手ですくい、顔を洗う。


肌を刺す冷気によって、意識が一気に鮮明になった。


昨夜の穏やかな気分も、少しずつ身体の奥へ沈んでいく。


水面へ映る、自分の顔を見つめた。


今日からが本番だ。


魔晶鉱粉。


強化薬。


黒槌町の商人。


そして、リンタ村と陌狼村の対立を、陰から煽っているかもしれない何者か。


絡み合った糸を、一つずつ解いていかなければならない。


アーガが振り返る頃には、リナとイータも寝具を整え終えていた。


二人はすでに支度を済ませ、扉の前で待っている。


アーガは腰へカードケースを装着した。


「行こう」


部屋の扉を開ける。


「まずは市場を見て回る」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ