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第116話 宿屋

「見てください、あそこ……」


リナが声を潜め、少し離れた場所にいる太った商人を指さした。


商人は満面の笑みを浮かべ、数人の冒険者へ熱心に商品を売り込んでいる。


その露店の机には、青白い粉末が入った小袋がいくつも並べられていた。


隣に立てられた木札には、大きな文字でこう書かれている。


《強化粉末――獣人や魔獣の潜在能力を、短時間だけ引き出します》


間違いなく、魔晶鉱粉だった。


アーガは木札の下に書かれている価格へ目を向けた。


決して安くはない。


だが、一般的な冒険者が手を出せないほど高価というわけでもなかった。


数日分の報酬を使えば、十分に購入できる価格だ。


「こんなに堂々と売っているんですね……」


イータは不安そうに首を縮めた。


「問題が起きるのが怖くないのでしょうか?」


「取り締まる者がいなければ、怖がる必要もない」


アーガは露店から視線を外した。


「今日はもう遅い。まずは泊まる場所を探そう」


そう言って歩き出そうとしたとき、イータの鼻がぴくりと動いた。


続いて、足取りまで遅くなる。


「す、すごくいい匂いがします……」


アーガはイータの視線を追った。


通りの角に、小さな焼き肉の露店が出ている。


細長く切った肉が串へ刺され、赤く燃える炭火の上で焼かれていた。


脂が炭へ滴り落ちるたび、


――ジュウッ。


という音が鳴り、香ばしい煙が通りの半分ほどまで漂っている。


イータは焼き肉から目を離せなくなっていた。


白い尻尾も、無意識のうちに楽しそうに揺れている。


その様子を見たリナが、小さく笑った。


アーガは諦めたように息を吐く。


「先に何か食べるか」


イータが勢いよく顔を上げた。


「いいんですか?」


「さっきから、目だけで一通り食べ尽くしていただろう」


「そ、そんなに見てません……」


口では否定しているが、狐耳は期待するように真っすぐ立っていた。


アーガは露店へ近づき、焼き肉を三人分注文した。


さらに銅貨を数枚追加し、イータの分だけ大きな肉串に変えてもらう。


「ほら」


出来上がった中で最も大きな串を、イータへ渡した。


イータは両手で大切そうに受け取る。


瞳が一気に輝いた。


「ありがとうございます、アーガ様!」


すぐに食いつくのではなく、熱さを確かめるように小さく息を吹きかける。


それから、端の部分をそっと一口かじった。


「ん……!」


次の瞬間、全身から力が抜けたように頬が緩んだ。


尻尾は先ほどよりも激しく左右へ揺れ、狐耳も満足そうに小さく動いている。


顔には、隠しようのない幸福感が浮かんでいた。


アーガはそんなイータを見つめ、少しだけ考え込む。


(赤骸城にいた頃は、ずっと気を張っていたから気づかなかったが……)


視線が、イータの頭にある白い耳へ移る。


柔らかそうな毛が、風を受けて僅かに揺れていた。


(この耳……触ったら、どんな感触なんだろうな)


そう考えたときには、すでに手が伸びていた。


アーガは、イータの狐耳を指先で軽くつまむ。


「ふみゃっ!?」


イータの全身が硬直した。


驚いた拍子に、手にしていた肉串を落としかける。


顔が一瞬で赤くなり、狐耳は勢いよく真っすぐ立ち上がった。


「あ、アーガ様……?」


アーガも、自分が何をしたのか遅れて理解した。


すぐに手を引っ込め、誤魔化すように咳払いする。


「……何でもない」


その横では、リナが焼き肉を小さくかじりながら、じっとアーガを見つめていた。


深い青色の瞳が、どことなく冷たい。


「アーガ様」


「どうした?」


「私の分は?」


アーガは一瞬、理解できなかった。


「何がだ?」


リナは自分の頭を指さす。


口調は平静だったが、眼差しはまったく平静ではない。


「私もお願いします」


「……お前には耳がないだろう」


「頭があります」


アーガは言葉を失った。


イータはますます顔を赤くし、慌てて両手を振る。


「リ、リナお姉ちゃん、これは別に……」


「イータには何も言っていません」


リナは小さく鼻を鳴らした。


アーガは仕方なくため息をつき、リナの頭へ手を伸ばした。


柔らかな金髪を、軽く撫でる。


「これでいいだろう」


「ふざけていないで、食べ終わったら宿を探すぞ」


リナは目を僅かに細めた。


口では不満そうに答える。


「私は、ふざけていません」


「リナお姉ちゃん、嬉しそうです」


イータが小声で呟いた。


リナはすぐに振り返る。


「イータ」


「わ、私は何も言ってません!」


アーガは二人のやり取りを見て、思わず笑った。


これまでの道のりを思い返せば、こうして何の心配もなく笑える時間は久しぶりだった。


◇ ◇ ◇


焼き肉を食べ終えた三人は、市場を抜けて宿を探した。


日が沈むにつれて、通りの両側にある油灯が一つずつ灯されていく。


それでも黒槌町の騒がしさは収まらなかった。


むしろ鉱山や仕事場から人々が戻ってきたことで、昼間以上に活気づいている。


酒場からは笑い声が聞こえ、通りでは客を呼び込む商人たちが声を張り上げていた。


やがて三人は、大通りから少し離れた静かな一角で、一軒の宿を見つけた。


古い木製の看板には、《樫木亭》と書かれている。


入り口の両側には黄褐色の油灯が下げられ、暖かな光が扉と石畳を照らしていた。


高級そうな建物ではない。


それでも外壁や窓は比較的きれいに手入れされている。


少なくとも赤骸城にあった宿のように、扉を開けた瞬間に血と黴の臭いが漂ってくることはなさそうだった。


「少し広めの部屋を一つ」


アーガは受付に立つ女主人へ告げた。


女主人は三人を順番に見た。


人間の青年と二人の少女という組み合わせを不思議に思ったらしい。


それでも余計なことは尋ねず、棚から一本の鍵を取り出した。


「二階の一番奥だよ」


鍵を受付台へ置く。


「湯は一階の厨房にあるから、必要なら自分たちで運びな」


「それから、部屋の中で大きな火は使わないこと。古い木材だから、焼いたら修理代を払ってもらうよ」


「分かりました」


アーガは宿泊代を支払い、鍵を受け取った。


女主人へ礼を言い、リナとイータを連れて二階へ上がる。


部屋は、想像どおり簡素だった。


広めの寝台が一つと、小さな寝台が一つ。


窓の近くには古びた木椅子が置かれ、壁際には水を入れる木桶と洗面器が並んでいる。


家具は少ないが、床には目立った汚れがない。


寝具も洗われており、窓の留め具もしっかりしていた。


数日滞在するには十分だろう。


「今日は、もう休む」


アーガは荷物を机の上へ置いた。


「明日になったら、市場で魔晶鉱粉を売っていた店を調べよう」


リナが頷く。


「分かりました」


イータは二つの寝台を見比べた。


それから、不安そうに尋ねる。


「私は、どこで眠ればいいですか?」


アーガは小さな寝台を指さした。


「お前とリナが大きい方を使え」


「俺は、こっちで寝る」


イータは目を瞬かせた。


「でも、その寝台はすごく狭いですよ」


「俺は、そこまで贅沢ではない」


アーガは肩をすくめた。


だが、リナが真剣な顔でこちらを見る。


「アーガ様」


「昨日、ご自分で傷が完全には治っていないと言っていましたよね」


「かなり良くなった」


「完全には治っていないのですね?」


「……まあな」


「それなら駄目です」


リナの口調には、反論を許さない強さがあった。


イータも隣で何度も頷く。


「そうです」


「アーガ様は、きちんと休まないといけません」


二人の表情を見る限り、何を言っても簡単には納得しそうにない。


アーガは額へ手を当てた。


「分かった、分かった」


「寝る場所は、あとで考えよう」


◇ ◇ ◇


三人は順番に身体を洗った。


運んできた熱い湯の蒸気が、狭い部屋へゆっくりと広がる。


最後に身体を洗い終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。


アーガは窓辺の木椅子へ腰を下ろした。


一日中歩き続けたせいで、足には鈍い疲労が残っている。


しかし、戦闘や傷による痛みとは違う。


身体を十分に動かしたあとの、どこか心地よい疲れだった。


窓の外には、まだ僅かに人の姿が見える。


遠くの市場から聞こえていた喧騒も、今ではぼんやりとした雑音に変わっていた。


少なくとも、この瞬間の黒槌町は、ごく普通の辺境の町に見える。


赤骸城のように、常に周囲を警戒しなければならない空気は感じられなかった。


(赤骸城へ流されてから、頭の中には強くなることと、復讐することしかなかったな)


アーガは自分の掌を見る。


指の付け根には、訓練や戦闘によってできた硬い皮膚が残っている。


魔力は身体の奥へ静かに沈み、乱れることなく流れていた。


こうして何も起きない夜を過ごすことの方が、今では不思議に感じられる。


「ア、アーガ様……」


扉の近くから、遠慮がちな声が聞こえた。


アーガが顔を上げる。


身体を洗い終えたイータが、そこに立っていた。


白い髪は乾かしたばかりで、いつも以上にふわりと広がっている。


狐耳の毛も柔らかく膨らみ、風に吹かれた綿毛のようだった。


イータは俯き、両手で服の裾をつまんでいる。


湯に当たっていたせいか、頬には薄い赤みが残っていた。


アーガの視線は、自然とその耳へ向かう。


昼間に触れた感触を思い出した。


(やはり、柔らかそうだな)


二秒ほど迷った。


それでも好奇心を抑えきれず、口を開く。


「イータ」


「はい?」


「その耳……もう一度触ってもいいか?」


イータの尻尾が硬直した。


同時に、狐耳も真っすぐ立ち上がる。


「え、ええっ?」


「耳ですか?」


「嫌なら、別にいい」


アーガはすぐに付け加えた。


イータは顔を赤くしたまま黙り込む。


何度か視線をさまよわせたあと、小さく頷いた。


「す、少しだけなら……」


アーガは驚かせないよう、ゆっくりと手を伸ばした。


指先で、白い狐耳の先端へ軽く触れる。


柔らかい。


そして、僅かに温かい。


想像していた以上に細かな毛で覆われていた。


触れられた耳が、敏感にぴくりと動く。


イータは首を縮めたものの、逃げようとはしなかった。


「痛くないか?」


「痛くはありません……」


イータは小さな声で答える。


「少しくすぐったいだけです」


アーガは力を弱め、指の腹で耳の付け根をそっと撫でた。


「んっ……」


イータの尻尾が落ち着かなさそうに左右へ揺れる。


喉の奥から、我慢するような小さな声が漏れた。


その様子は、人間の少女というより、警戒心を解いた小動物に近かった。


(本当に、狐そのものだな)


アーガは思わず笑う。


耳から手を離し、今度はイータの頭へ手を載せた。


柔らかな白髪を軽く撫でる。


こちらも手触りが良かった。


イータは俯いたまま、狐耳を何度か震わせている。


恥ずかしそうではあるが、嫌がっている様子はない。


アーガの視線は、背後で揺れている白い尻尾へ移った。


「尻尾も触っていいか?」


イータが勢いよく顔を上げる。


「し、尻尾ですか!?」


「嫌ならやめる」


「……」


イータはしばらく悩んだ。


やがて、ゆっくりと後ろを向く。


恥ずかしそうに尻尾をアーガの方へ差し出した。


「少しだけ……」


アーガは慎重に、その白い尻尾へ手を添えた。


毛並みに逆らわないよう、中ほどから先端へ向かって軽く撫でる。


「ひゃっ!」


イータの身体が大きく震えた。


驚いて一歩前へ跳ねる。


アーガはすぐに手を離した。


「強すぎたか?」


「ち、違います」


イータは慌てて首を振った。


「痛くはなくて、その……すごくくすぐったかっただけです」


「では、これくらいか?」


今度は、先ほどよりもさらに軽く撫でる。


最初は硬くなっていた尻尾も、しばらくすると少しずつ力が抜けていった。


やがて、尻尾の方からアーガの掌へ僅かに寄ってくる。


アーガは黙り込んだ。


(まずいな)


掌へ触れる柔らかな感触を確かめながら、心の中で呟く。


(これは少し、癖になりそうだ)


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