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第115話 黒槌町

村の入り口では、すでに松明が灯されていた。


数人の見張りが木柵のそばへ寄りかかり、声を抑えて話している。


アーガたち三人が戻ってくると、一度だけ視線を向けた。


昨夜の見張りから事情を聞いていたのか、今度は呼び止められることもなかった。


トムの石屋へ戻ると、夕食の準備はすでに整っていた。


食卓に並んでいるのは、黒パンと野菜の煮込み、それに少量の燻製肉。


決して豪華ではない。


だが、どの料理からも温かな湯気が立ち上り、空腹を刺激する匂いが部屋中へ広がっていた。


一日中訓練していたイータは、椅子へ座るなり椀へ顔を近づけた。


そのまま勢いよく食べ始め、危うく顔ごとスープへ突っ込みそうになる。


「イータ、もう少しゆっくり食べてください」


リナが小声で注意する。


「むぐっ……」


イータはようやく我に返り、頬を赤くしながら食べる速度を落とした。


トムは三人の汗と土で汚れた姿を見て、鼻を鳴らすように笑った。


「訓練へ行っていたのか?」


「ああ」


アーガは椅子へ腰を下ろす。


「白樺林の空き地を使わせてもらいました」


「そうか」


トムはそれ以上尋ねず、三人の椀へスープを足した。


夕食を終えると、リナとイータが食器を片づけ始めた。


トムは両手を背中へ回し、ゆっくりと家の外へ出る。


扉の前に立ち、村の中に揺れる黄褐色の灯火を眺めていた。


灯りに照らされた老人の背中は、長い影となって地面へ伸びている。


いつもと同じ、少し腰の曲がった小さな背中。


それでも今夜は口にできない多くのものを背負っているように見えた。


アーガは室内から、その姿を静かに見つめる。


黒槌町。


魔晶鉱粉。


高熱を出して倒れた獣人の子供たち。


そして昨夜、顔を隠したままカインを殺そうとした襲撃者。


いくつもの出来事が頭の中で一本の線へつながりそうになる。


だが、肝心の中心部分だけが見えなかった。


誰が、何のために動いているのか。


考えれば考えるほど、疑問は増えていく。


食器を拭き終えたリナがアーガのそばまで歩いてきた。


「アーガ様?」


イータも顔を上げる。


「どうかしましたか?」


アーガは少しだけ沈黙した。


それから、声を落として言う。


「明日、黒槌町へ行こう」


リナが僅かに目を見開いた。


「黒槌町へ?」


「ああ」


アーガは扉の外に立つトムの背中を見つめる。


「今回の件は不自然なことが多すぎる」


「魔晶鉱粉があの町から流れているのなら、実際に行って確かめる必要がある」


「私も行きます!」


イータは即座に答えた。


リナも迷わず頷く。


「私もご一緒します」


アーガは二人を見た。


「危険かもしれないぞ」


「分かっています」


リナは真剣な表情で答えた。


「だからこそ、アーガ様を一人で行かせるわけにはいきません」


イータも力強く頷く。


「そうです!」


「今日はたくさん訓練しましたから!」


アーガは一瞬、言葉を失った。


訓練したから危険がなくなるわけではない。


だが、あまりにも自信満々な表情をしているため、思わず笑ってしまう。


「分かった」


「それなら、明日の朝に出発する」


家の外では夜風が吹き、村道を照らす松明の炎が静かに揺れていた。


トムは三人の会話が聞こえていたのかもしれない。


だが、振り返ることはなかった。


何も聞いていないかのように、ただ村の外へ続く暗い道を見つめていた。


◇ ◇ ◇


翌朝。


簡単な朝食を済ませた三人は、旅支度を整えてリンタ村を出ることにした。


トムは何も尋ねなかった。


ただ三人が家を出るとき、玄関先に立ってアーガを見た。


「黒槌町は、いろいろな人間が集まる場所だ」


老人は低い声で忠告する。


「簡単に他人を信用するな」


アーガは静かに頷いた。


「分かっています」


リナは小さな荷物袋を背負っている。


イータは訓練用の木の棒を抱え、白い尻尾を楽しそうに揺らしていた。


彼女は赤骸城の外をほとんど知らない。


たとえ目的地が近隣の町であっても、見知らぬ土地へ向かうこと自体が嬉しいらしい。


好奇心を隠しきれず、何度も道の先を見つめていた。


黒槌町へ続く道は決して歩きやすくなかった。


細い土道には大小の石が転がり、雨で削られた溝がいくつも残っている。


三人の足音が静かな林の中へ規則正しく響いた。


木々の影が斜めに道へ落ち、ときおり枝へ止まっていた鳥が驚いて飛び立つ。


「それで……」


しばらく歩いたところで、イータが首を傾げた。


尻尾がゆっくりと左右へ揺れている。


「アーガ様は、あの獣人の戦士が使っていた魔晶鉱粉は、黒槌町で買ったものだと思っているんですか?」


「ああ」


アーガは頷く。


「カインの話では、人間の商人が黒槌町の市場で売っていたらしい」


「しかも、獣人や魔獣を連れた者へ積極的に売っている」


「つまり、その商人たちは魔晶鉱粉が獣人に効くことを知っている」


リナの歩調が、ふと遅くなった。


眉を寄せ、何かを思い出したような表情をしている。


「待ってください……」


「どうした?」


「トムさんの家にあった剣も、新しいものでしたよね」


「ああ」


アーガは彼女を見る。


「近くで武器を買える場所が黒槌町しかないなら、別に不自然ではないだろう」


「それはそうですが……」


リナの目が鋭くなる。


「もし陌狼村とリンタ村が本当に争い始めたら、最も利益を得るのは誰でしょうか?」


アーガの足が僅かに止まった。


数秒の沈黙のあと、口元へ冷たい笑みが浮かぶ。


「武器を売る者」


「傷薬を売る者」


「そして、獣人を強化する魔晶鉱粉を売る商人か」


イータの狐耳がぴくりと動いた。


「そ、それなら……」


「商人たちが、わざと両方の村を争わせた可能性があります」


リナの声が冷たくなる。


「戦いが続けば、武器も薬も売れ続ける」


「本当にそうなら、最低です」


林を抜ける風が葉を揺らし、細かな音を立てた。


アーガは足元の道へ視線を落とす。


「まだ決めつけることはできない」


「証拠は何もないからな」


「だからこそ、実際に町へ行って確かめる」


イータは抱えていた木の棒を強く握った。


「本当に商人がやったのなら、酷すぎます」


「金のためなら、何をするか分からない者はいる」


アーガは淡々と答えた。


「特に、法律や騎士団の目が届きにくい辺境ではな」


リナが横顔を見上げる。


「アーガ様は、以前にも同じような事件を見たことがあるのですか?」


「実際に見たことはない」


アーガは少し考える。


「本で読んだことはある」


「それに、商会に関わる者たちから似たような話を聞いたこともある」


「ただ、自分が巻き込まれるのは初めてだ」


「アーガ様は、この事件に関わるつもりですか?」


イータが尋ねた。


アーガはすぐには答えなかった。


本音を言えば、関わりたくない。


自分自身の問題だけでも十分に重かった。


サン・ローラン城へ行く。


兄とラスティを捜す。


自分が流刑へ追い込まれた真相を突き止め、古巴特商会へ代償を払わせる。


それがアーガの目的だった。


リンタ村と陌狼村の争いは、本来なら自分には関係のない話だ。


だが、事件はすでに目の前まで来ている。


自分たちを助けてくれたトム。


争いへ巻き込まれているリンタ村。


そして、誰かの陰謀によって利用されているかもしれない、幼い獣人の子供たち。


簡単に見捨てることもできなかった。


「状況次第だ」


アーガはようやく答える。


「単なる村同士の争いなら、俺たちが深く関わる必要はない」


「だが、誰かが意図的に両方を争わせているのなら――」


最後まで言うことはなかった。


それでもリナとイータには、十分伝わったらしい。


二人は何も言わず、静かに頷いた。


◇ ◇ ◇


三人は、そのまま黒槌町へ向かって歩き続けた。


町へ近づくにつれて、細かった道は徐々に広くなっていく。


地面には、荷馬車の車輪が刻んだ深い轍が何本も残っていた。


人の足跡や馬の蹄跡も増えている。


周囲を行き交う者の姿も、少しずつ見えるようになった。


鉱石を積んだ荷車を引く男。


背中へ大きな袋を背負った商人。


武器を携え、数人で歩く冒険者。


夕方になる頃、遠くに低い建物の集まりが見えてきた。


黒槌町だった。


リンタ村よりも、遥かに大きい。


町の入り口には傾いた木製の看板が立ち、太く黒い文字で《黒槌町》と書かれている。周囲には簡単な木柵が設けられていた。


だが高さは低く、防御設備というより、町と外を区切るための目印に近い。


入り口には多くの人が行き交っている。


煤で顔を黒くした鉱夫。厚い外套をまとった冒険者。商品を満載した荷車を押す商人。頭から布をかぶり、顔を隠した獣人の姿もあった。


三人が町の中へ足を踏み入れた瞬間、騒音が一斉に押し寄せる。


「安いぞ! 今日採れたばかりの鉄鉱石だ!」


「傷薬ならこっちだ! 魔獣に噛まれた傷にも効く!」


「剣の研ぎ直し、一振り銅貨三枚!」


市場には無数の露店が並び、人々の呼び声が絶え間なく響いていた。


売られている品物も多種多様だった。


粗雑な鉄製農具。


剣や短槍。


革鎧。


魔獣の牙をつないだ首飾り。


乾燥薬草を詰めた袋。


色鮮やかな錬金薬。


そして、アーガでも種類の分からない鉱石や粉末。


空気には、錆びた鉄、燃える炭、香辛料、獣脂、汗の臭いが入り混じっている。


イータは目を大きく見開いた。耳が右を向いたかと思えば、次は左へ動く。


あちこちから聞こえる声や音へ、すべて意識を奪われているようだった。


「すごい……」


小さく呟く。


「こんなにたくさんの物が売られてるんですね」


リナはイータほど浮かれてはいなかった。


周囲の露店や通行人を注意深く観察し、アーガから離れすぎないよう歩いている。


アーガの視線は、市場の奥にある数軒の露店で止まった。


店の上には、大きな看板が掛けられている。


《強化薬》


その文字の前には多くの客が集まっていた。


人間の冒険者もいる。


だが、中には外套を深くかぶり、耳や顔を隠そうとしている獣人の姿もあった。


露店には小さな布袋が整然と並べられている。


袋の口からは青白い粉末が僅かに覗いていた。


夕日を受け、冷たい光を放っている。


アーガは一目で、それが何なのか理解した。


魔晶鉱粉。


(本当に売っている)


(しかも、裏で密かに取引しているわけではない)


(市場の真ん中で、堂々と看板まで出している)


アーガは視線だけで周囲を確認した。


町の見張りらしき男たちも、露店の前を普通に通り過ぎていく。


売買を止めようとする者はいない。


(魔晶鉱粉は管理物資のはずだ)


(それを、これほど公然と販売できるのか?)


(それとも……)


アーガの目が静かに細められた。


(黒槌町の衛兵まで、すでに買収されているのか)


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