第113話 聞き込み
翌朝。
アーガは窓の外から聞こえる小鳥のさえずりで目を覚ました。目を開けると、部屋の中には朝特有のひんやりとした空気が残っている。
昨夜は決して熟睡できたとは言えなかった。
夢の中では何度も白樺林の闇がよみがえり、茂みの奥を駆ける黒い影と、紫色に光る三本の毒針が何度も脳裏をよぎっていた。
完全に意識が覚めた頃になっても、額には冷たい汗がわずかに残っている。
リナはすでに起きていた。暖炉の前にしゃがみ込み、薪を一本ずつくべている。
鍋の中からは麦の香りと温かなスープの匂いが漂い、冷えた室内をゆっくりと満たしていた。
一方のイータはまだ毛布へ包まったままだった。毛布の外へ白い尻尾だけが飛び出し、眠そうに左右へ揺れている。まだ完全には目が覚めていないらしい。
「アーガ様、おはようございます」
リナは薪を入れ終え、振り返って静かに微笑んだ。
「おはよう」
アーガは身体を起こし、眉間を軽く揉む。
赤骸城で負った傷はかなり回復していた。
それでも昨夜、白樺林で無理をしたせいで、肩と肋骨の辺りには鈍い痛みが残っている。
「ん……」
イータもようやく目を開けた。
アーガが起きているのを見ると、慌てて毛布から起き上がる。
「アーガ様……もう朝ですか?」
「ああ」
アーガは苦笑した。
「まだ眠いなら寝ていてもいいぞ」
「もう寝ません!」
イータは勢いよく首を振った。
しかし勢いが強すぎて身体がぐらりと揺れ、そのまま毛布へ倒れそうになる。
「きゃっ……!」
慌てて両手をついて踏みとどまる姿に、リナが思わず吹き出した。
「ふふっ」
イータは恥ずかしそうに耳を伏せた。
◇ ◇ ◇
朝食は質素だった。
黒パン。
温かなスープ。
そして、トムが昨日残してくれていた少量の燻製肉。
イータは最初こそ平静を装っていた。
しかし燻製肉の香ばしい匂いが漂い始めると、狐耳も尻尾も正直に反応し始める。
耳はぴくぴくと動き、尻尾は期待するように揺れていた。
アーガは苦笑し、自分の皿にあった燻製肉を半分切り分ける。
そのままイータの椀へ載せた。
「えっ?」
イータは目を丸くする。
「私にですか?」
「さっきからずっと見ていただろう」
「み、見てません!」
イータは慌てて首を振った。
「ちょっとしか見てません!」
「結局見ていたんだな」
アーガが笑うと、イータは耳まで赤くした。
リナはそのやり取りを見ながら、小さく微笑む。
それからアーガへ視線を向けた。
「アーガ様も、もっと召し上がってください」
「これで十分だ」
「でも……」
リナは少し躊躇いながら言葉を続ける。
「昨日、帰ってきたのはとても遅かったですよね」
アーガがパンを持つ手を止めた。
リナは視線を落としたまま話す。
「扉の音で目が覚めました」
イータも不思議そうに顔を上げる。
「アーガ様、昨日の夜に出かけてたんですか?」
二人の心配そうな表情を見る。
アーガは少しだけ黙り込んだ。
昨夜の出来事をすべて話すことも考えた。
しかし今は、まだ情報が少なすぎる。
「少し面倒事があった」
結局、それだけを答えた。
「もう片付いたから心配するな」
リナはそれ以上尋ねなかった。
代わりに、自分の前にあったスープをアーガの方へ押し出す。
「それなら、なおさら食べてください」
真剣な表情だった。
アーガは少しだけ苦笑し、その椀を受け取った。
◇ ◇ ◇
朝食を終えると、アーガは一人で外へ出た。
隣の家では、トムが朝から薪を割っている。
老人の動きは決して速くない。
だが、一振り一振りが驚くほど正確だった。
斧が振り下ろされるたび、薪は真っ二つに割れていく。
農夫というより、長年武器を振ってきた者の動きだった。
「起きたか」
トムが振り返る。
「昨日は遅かったな」
アーガは驚かなかった。
「気づいていたんですね」
「歳を取ると眠りが浅くなる」
トムは笑う。
「それで、何か聞きたいことでもあるのか?」
アーガは数歩近づき、周囲を確認してから声を落とした。
「昨日の夜、陌狼村の獣人と会いました」
その瞬間だけ。
トムの斧が止まった。
「その獣人によれば、以前あなたが助けた二人の獣人の子供は、村へ戻ったあと高熱を出して倒れたそうです」
「陌狼村では、リンタ村の誰かが毒を盛ったのではないかと疑っています」
トムはしばらく何も言わなかった。
やがて、大きく息を吐く。
「……やはり、そうなってしまったか」
老人は斧を薪割り台へ立て掛けた。
家の前に置かれた低い木椅子へ腰を下ろし、皺だらけの両手でゆっくり膝を擦る。
「あの日、森で見つけたときには、あの子たちは二人とも限界だった」
「一人はまだ話せたが、もう一人は水を飲むことさえできなかった」
トムは遠くを見るような目で話し続ける。
「家へ運び、水を飲ませ、薬草を煎じて飲ませた」
「その後は眠り続けていた」
「途中で目を覚ますこともなかった」
「誰かが一人だけで近づいたこともない」
アーガは静かに尋ねる。
「何か不審なことは?」
「少なくとも、私には分からなかった」
トムは首を横へ振った。
「翌日には、元気な方の子供が話せるようになった」
「だから、その子を連れて陌狼村へ向かった」
「残っていたもう一人も、その頃には容体が少し安定していた」
アーガは眉を寄せた。
「村人は?」
「リンタ村には獣人を嫌う者もいるでしょう」
「あなたが気づかない間に、誰かが何かをした可能性はありませんか?」
その言葉にトムの目つきが僅かに鋭くなった。
「私は昔、騎士団支部に所属していた」
静かな声だった。
しかし、その言葉には重みがあった。
「この村の連中は、ほとんど私が子供の頃から知っている」
「確かに獣人を快く思わない者はいる」
「だが、私の家で、私の目の届く場所で、あの子たちへ危害を加えるような真似はしない」
老人は静かに付け加える。
「少なくとも、私が見ている前でそんな度胸のある者はいない」
「皆、私には多少なりとも敬意を払ってくれているからな」
アーガは老人の顔を見つめた。
深い皺。
長い年月を生きた者だけが持つ落ち着いた眼差し。
そこに嘘をついている様子は見えなかった。
トムは隠しているのではない。
本当に、自分の知る限りでは何も起きていないと信じているのだ。
「分かりました」
アーガは静かに頭を下げる。
「失礼なことを聞いてしまい、すみません」
トムは笑って手を振った。
「構わん」
「お前が疑問に思うのも当然だ」
「私だって、この一件には何か裏があるような気がしている」
アーガは黙って頷いた。
「ただな」
トムは空を見上げた。
「この辺りの事情は、お前が思っている以上に複雑だ」
「一言や二言では説明できん」
「……分かっています」
アーガは静かに答えた。
昨夜、自分たちを襲った謎の刺客。
黒槌町で密売される魔晶鉱粉。
高熱で倒れた獣人の子供。
どれも独立した事件には思えなかった。
(また厄介事が勝手に転がり込んできたな)
心の中で、小さくため息をつく。
◇ ◇ ◇
トムへ別れを告げ、アーガは家へ戻った。
リナは食器を洗っている。
イータは玄関先へしゃがみ込み、自分の靴紐を結んでは解き、また結び直していた。
「何をしている?」
アーガが尋ねる。
イータは真面目な顔で答えた。
「靴の点検です」
「どうして?」
「だって……」
イータは当たり前のように言った。
「アーガ様、また出かけるでしょう?」
アーガは言葉を失う。
リナも食器を置き、こちらを見る。
「アーガ様」
「私も、イータと同じことを考えていました」
二人とも、「一人で行くつもりでしょう」と言いたげな顔をしている。
アーガは小さく息を吐いた。
「出かけるのは当たりだ」
「でも、昨日の件を調べに行くわけじゃない」
イータが首を傾げる。
「じゃあ、何をするんですか?」
アーガは右手を軽く握った。
身体の奥にある魔力が、静かに沈んでいる。
以前のように皮膚の表面を流れるだけの感覚ではない。
もっと深く。
もっと重く。
ゆっくりと身体へ根を下ろしたような、不思議な安定感があった。
「訓練だ」
アーガは手を開いた。指先から淡い氷の霧が静かに立ち昇る。
「魔力が、以前よりも身体へ馴染んできた気がする」
リナが目を丸くした。
「馴染む……ですか?」
「うまく説明できないが」
「以前より、魔力を自然に扱えるようになっている」
イータの目がきらきらと輝く。
「アーガ様、また強くなったんですか?」
「少しだけな」
アーガは笑う。
「ほんの少しだ」
リナは嬉しそうに微笑んだ。
「それは良かったです」
イータは勢いよく立ち上がる。
白い尻尾が真っすぐ伸びた。
「じゃあ今日も訓練ですか?」
「アーガ様がどれくらい強くなったか見たいです!」
「そのために白樺林へ行く」
アーガは二人を見た。
「お前たちの成長も確認する」
イータは少しだけ肩を落とした。
「でも……」
「私は毎日練習してるのに、急に強くなった感じはしません」
リナも静かに頷く。
「私もです」
「前より動きは良くなったと思いますけど、魔力はアーガ様みたいな変化を感じられません」
アーガは二人を見渡し、穏やかに笑った。
「だからこそ続けるんだ」
「自分では変わっていないと思っていても、実際には少しずつ強くなっていることは多い」
「焦る必要はない」
二人は同時に頷いた。
「はい!」
準備を整えた三人は家を出る。
朝日に照らされたリンタ村を抜け、その足は再び東の白樺林へ向かっていった。




