第112話 陰謀――衝突
茂みの中から聞こえていた葉擦れの音が、突然途絶えた。
白樺林は再び静寂に包まれる。
カインの狼耳が小さく動いた。
琥珀色の瞳孔が闇の中で細い線へと変わる。
「おかしい……」
低く呟きながら、右手の長剣を強く握り締めた。
「確かに、今――」
その瞬間。
カインの背後に広がる暗闇の中で、三つの幽緑色の光が瞬いた。
髪の毛ほどに細い毒針が鋭い風切り音を立てて飛来する。狙いは無防備になっていたカインの首筋だった。
「危ない!」
アーガはほとんど反射的に右手を上げた。
赤カード3《草》の力が一瞬で地面へ流れ込む。
カインの足元が盛り上がり、数本の太い蔓が勢いよく伸びた。
蔓は互いに絡み合い、二人の間へ棘の盾を形成する。
――キン、キン、キンッ!
三本の毒針が硬化した蔓へ突き刺さった。針の先端には不気味な紫色の液体が付着している。月光を受け、粘り気のある毒液が鈍く輝いていた。
カインは勢いよく振り返った。口元から牙を剥き出しにする。
「誰だ!」
暗闇の奥から衣服の擦れる微かな音が聞こえた。
直後、一つの黒い影が木々の間を駆け抜け、森の奥へ逃げていく。
「待て!」
カインは怒鳴り、すぐにそのあとを追った。
アーガも走り出そうとしたが胸と背中の傷が鋭く痛んだ。足が僅かに止まる。
(今の身体では、全力で追うのは無理だ)
(それなら――)
アーガは右手を前へ伸ばし、何かをつかむように指を曲げた。
先ほど強化した緑カード2《射術》の力が、掌へ集まっていく。
半透明の魔法銃が右手の中へ形成された。
銃口の周囲へ空気が吸い寄せられ、細長い弾丸へ圧縮される。
圧縮弾は高速で回転しながら、淡い緑色の光を放っていた。
アーガは片目を閉じる。
木々の隙間を走り、間もなく闇へ消えようとしている人影を狙った。
無形の引き金を引く。
――ヒュンッ!
圧縮弾が夜の空気を切り裂いた。
鋭い破裂音とともに一直線に飛び、黒い人影の右肩へ命中する。
暗闇の中で、赤い血が一瞬だけ弾けた。
「ぐっ!」
低い呻き声が聞こえる。人影は大きく体勢を崩した。
しかし、倒れることはなかった。
右肩を押さえながらも走り続け、間もなく深い森の中へ姿を消した。
「くそ……」
アーガは魔法銃を消し、血痕を追って前へ進んだ。
少し先で、カインが立ち止まっている。地面には、数滴の新しい血が落ちていた。
その先はいくつもの獣道へ分かれている。
「逃げられた」
カインは悔しそうに唸った。拳を近くの木へ叩きつける。
「この辺りの地形を知り尽くしている」
そして、怒りのこもった独眼をアーガへ向けた。
「やはり人間だ!」
牙を剥き、血痕を睨みつける。
「俺を暗殺するつもりだったんだ!」
アーガは地面へ膝をつき、落ちている血を指先で確認した。
それから立ち上がり、手についた土を軽く払う。
「その可能性は低い」
「何だと?」
「今の相手は、気配の隠し方がうまかった」
アーガは逃げた方向へ視線を向ける。
「走る速度も速く、毒針まで使っている。弱い相手ではない」
「お前はすでに俺との戦いで負傷していた」
「本気で殺すつもりなら、毒針を防がれたあとも、そのまま襲いかかればよかったはずだ」
カインは眉を深く寄せた。
「お前がいたから、諦めたのかもしれない」
「それなら、なおさら不自然だ」
アーガは即座に否定した。瞳が鋭く細められる。
「お前の話を聞く限り、この辺りでは人間と獣人の関係が良くない」
「人間が獣人のお前を殺そうとしているのなら、同じ人間である俺が止めるとは限らないだろう」
「相手が複数なら、俺ごと始末しようと考えてもおかしくない」
カインの瞳孔が僅かに収縮した。
「では、何を恐れて逃げた?」
「顔を見られることだ」
アーガは冷たく笑った。
「俺に限らない」
「誰かに正体を知られること自体を恐れていた」
冷たい夜風が木々の梢を揺らした。
カインはしばらく黙り込み、逃亡者が消えた方向を睨んでいる。
アーガは近くの木の根元へ腰を下ろした。
「一体、何が起きている?」
「最初から説明してくれ」
カインはすぐには答えなかった。
長剣を地面へ突き立て、荒い息を吐く。
やがて、低い声で話し始めた。
「一週間前のことだ」
「第一隊長が、族長の二人の子供を連れて、森へ訓練に出た」
カインの牙が僅かに覗く。
「だが、第一隊長と護衛の獣人たちは、途中で何者かに襲撃され、全員殺された」
「二人の子供だけは逃げ延びたらしい」
「だが、まだ幼い。村へ戻る道も分からず、森の中で行方不明になった」
アーガは表情を変えずに聞いていた。
「夜になっても第一隊が戻らなかったため、捜索隊を出したということか」
「ああ」
カインの耳が後方へ伏せられる。
「周囲の森や街道を探し回った」
「だが、第一隊長たちの遺体は見つかっても、子供たちは見つからなかった」
「それで、子供たちは?」
アーガが尋ねる。
「無事だったのか?」
カインの瞳に浮かんでいた敵意が、僅かに薄れた。
「二日後、西にあるリンタ村の老人が、薬草を採りに森へ入った」
「その老人が、二人の子供を見つけた」
「一人はすでに意識を失い、もう一人も満足に歩けない状態だったらしい」
老人は持っていた食料と水を二人へ与えた。
しかし、意識を失った子供の容体は悪く、その場で回復を待つことはできなかった。
そこで老人は二人をリンタ村まで連れ帰ったという。
「獣人を村へ入れることに反対した者もいたそうだ」
カインは苦々しそうに言った。
「だが、その老人は反対を押し切り、子供たちを自分の家で看病した」
「翌日、意識のある方の子供を連れて、一日かけて陌狼村へ来た」
「もう一人はまだ意識を失っているが、リンタ村で安全に保護されていると伝えた」
「それなら、問題は解決したように思える」
アーガの瞳に真剣な光が浮かぶ。
「そのあと、何が起きた?」
「族長も最初は喜んだ」
カインは地面へ視線を落とした。
「老人を村へ招き、手厚くもてなした」
「次の日、俺と数人の戦士がリンタ村へ向かい、残った子供を迎えに行った」
「俺たちが着いた頃には、意識を失っていた子供も目を覚ましていた」
「二人とも会話ができ、食事も取れる状態だった」
カインの両手が強く握り締められる。
「だから、その日のうちに連れて帰った」
声の奥へ、抑えきれない怒りが滲み始めた。
「だが、村へ戻って一日か二日経った頃、二人とも突然高熱を出した」
「熱は下がらず、そのまま意識を失った」
カインは牙を食いしばる。
「リンタ村の人間が、何かをしたに決まっている!」
アーガは先ほど落ちた血痕へ、赤カード1《火》の小さな炎を近づけた。
暗い血の色が、炎の光によってはっきりと見える。
「それで、陌狼村の者たちはリンタ村へ説明を求めた」
「だが、村長も子供を助けた老人も、原因を突き止められなかった」
「族長はそれを人間側の攻撃だと判断し、両方の村が争い始めた」
「そういうことか?」
「そのとおりだ」
カインは怒りを抑えきれず、近くの木へ拳を打ちつけた。
樹皮が砕け、細かな木片が落ちる。
「もともと、俺たちと隣の人間の村は関係が良くなかった」
「小さな争いは何度もあった」
「だが、今回の件は違う」
「族長の子供たちへ手を出したとなれば、族長が黙っているはずがない」
アーガは黙って考え込んだ。子供たちはリンタ村にいる間は回復していた。陌狼村へ戻ったあと、時間を置いて同時に高熱を出した。
さらに、事情を知っているカインを狙う正体不明の襲撃者。
偶然にしては出来過ぎている。
「その老人は……」
アーガは無意識にカードの縁を指で撫でた。
「何という名前だ?」
カインは頭を振り、鬣についた夜露を落とす。
「村の者は、トムと呼んでいた」
アーガの瞳孔が、一瞬で収縮した。
(トム……)
(よりによって、俺たちを泊めている老人か)
面倒なことへ巻き込まれたという感覚が急に現実味を帯びてくる。
(また厄介事か)
(正直、これ以上は関わりたくないんだが……)
「どうした?」
カインが目を細めた。
「知っているのか?」
アーガは答えず、立ち上がった。
外套の裾が夜風を受け、激しく揺れる。
「また会おう」
「何?」
「族長へ伝えておけ」
アーガはカインへ背中を向ける。
「数日以内に、俺が陌狼村へ行く」
カインが返事をするより早く、アーガは木々の間へ踏み込んだ。
間もなく、その姿は深い影の中へ消えていく。
林に残されたカインは困惑した表情で立ち尽くしていた。
長剣に付着した魔晶鉱粉が青白く明滅している。
その光が彼の表情を不規則に照らしていた。
◇ ◇ ◇
夜はさらに深くなっていた。湿った苔を踏みながら、アーガはリンタ村へ戻る。
村の入り口が見えてきた頃、木製の柵の前で二つの松明が揺れているのに気づいた。
「止まれ!」
二人の見張りが柵の陰から姿を現した。
長槍を交差させ、村へ続く道を塞ぐ。
アーガは静かに足を止めた。松明の炎が目の前で揺れ、二人の顔を照らす。夕方に村を出たとき、入り口に立っていた者たちとは違う。
どうやら、夜の見張りへ交代したらしい。
「どこの者だ?」
左側にいる、やや背の低い見張りが尋ねた。
低く太い声だった。
松明をアーガの顔へ近づけ、注意深く確認する。
「こんな夜中まで、村の外で何をしていた?」
アーガは後退せずに答えた。
「昨日、この村へ来た旅人です」
「トムさんの家へ泊めてもらっています」
二人の見張りは顔を見合わせた。右側の男が眉を寄せる。
「トム?」
「ああ。村の西側にある石造りの家だ」
「トムの家へ泊まっていると言えば、信じてもらえると思っているのか?」
背の低い見張りは長槍を下ろさなかった。
「証明できるものはあるか?」
アーガは黙り込んだ。白樺林へ出る際、簡単な外套しか身につけていない。
旅人であることを示す書類もなければ、トムの客人だと証明できる物もなかった。
そもそも、泊まる際に証文を書いてもらう必要があるとは考えていなかった。
「トムさんを呼んでもらえば、確認できる」
アーガが提案する。背の低い見張りは鼻で笑った。
「この時間なら、トムはもう眠っている」
「老人を一度起こせば、そのあと眠れなくなるかもしれないだろう」
「それに、あの方は昔、この地方の騎士団支部にいた人だ」
もう一人の見張りも口を開いた。声にはトムへの敬意が含まれていた。
「身元の分からない者のために、夜中に家の扉を叩くわけにはいかない」
アーガは口を開きかけ、結局何も言わなかった。
見張りたちの対応は村を守る者として間違っていない。
自分が逆の立場でも、同じように警戒するだろう。
まさか、夜中に獣人と戦い、村同士の争いに関する話を聞いていたと説明するわけにもいかない。
短い沈黙が流れる。
夜風に煽られた松明がぱちぱちと音を立てた。
そのとき。
「おや、アーガじゃないか?」
背後から、聞き覚えのある声がした。
アーガが振り返る。
灰色の布外套を着た中年の男が、油灯を手に近づいてきた。
身体は小柄ながらも厚みがあり、顎には短い髭が生えている。トムの隣人であるホーンだった。
「ホーンさん」
アーガはすぐに彼を確認した。
ホーンは柵の前まで来ると、見張りたちとアーガを交互に見る。
「どうした。村へ入れてもらえないのか?」
「この男の素性が分かりません」
背の低い見張りが答える。
「夜中に一人で村へ戻ってきたので、確認していたところです」
ホーンは見張りの肩を軽く叩いた。
「こいつはトムの客人だ」
「昨日、二人の少女と一緒に村へ来た」
「悪い奴ではない。通してやってくれ」
二人の見張りは、もう一度アーガを見た。
最後にホーンの表情を確認し、ようやく交差させていた長槍を下ろす。
背の低い見張りが柵の内側を顎で示した。
「入れ」
「ありがとうございます」
アーガは短く頭を下げ、開けられた隙間を通って村へ入った。
ホーンは油灯を手にアーガの隣を歩き始める。歩調はゆっくりとしていた。
「随分と遅かったな」
何気ない口調で尋ねる。
「遠くまで行ったのか?」
「東側の白樺林まで」
アーガは嘘をつかなかった。
ただし、カインや襲撃者については話さなかった。
ホーンも深く追及しようとはしない。
小さく笑った。
「若いというのはいいな」
「俺たちくらいの年齢になると、日が沈めば家の中へ戻りたくなる」
二人は静かな村道を歩いた。
家々の窓は暗く、聞こえるのは時折家畜が動く音だけだった。
やがて、ホーンの家の前へ到着する。
ホーンは自宅の門を開けたあと、一度振り返った。
「早く休め」
「この辺りは城とは違う。夜になると、山から獣が下りてくることもある」
「気をつけろよ」
「分かりました」
アーガは軽く頭を下げた。
「助かりました。ありがとうございます」
「気にするな」
ホーンは片手を振り、油灯を持ったまま庭へ入った。
木製の門が、背後で静かに閉じられる。
アーガは隣にあるトムの石屋へ向かった。
音を立てないよう、ゆっくりと扉を開く。
窓から差し込んだ月光が、部屋の床と寝床を斜めに照らしていた。
リナは猫のように身体を丸めている。
金色の髪が枕一面へ広がり、規則正しい寝息を立てていた。
その隣では、イータの白い尻尾が毛布へ巻きついている。
「アーガ様……スープ……」
口元を動かし、何か寝言を呟いた。
アーガは思わず口元を緩めた。
少し離れた場所では、トムも深く眠っている。
顔には穏やかな表情が浮かび、低い鼾を立てていた。
アーガはしばらく、その老人を見つめた。
(族長の子供を助けた老人)
(本当にトムが、子供たちへ何かをしたのか?)
少なくとも、この二日間に見た彼の姿からは、幼い子供を毒にかけるような人間には思えない。
だが、人の本性が表面だけで分かるものでもなかった。
起こして事情を聞くことも考えた。
しかし、今話したところで、確かな答えが得られるとは限らない。
アーガは何も言わず、自分の寝床へ横になった。
目を閉じても、カインの話と、正体不明の襲撃者の姿が何度も脳裏へ浮かぶ。
リンタ村。
陌狼村。
黒槌町で売られている魔晶鉱粉。
そして、両方の村を争わせるかのような不可解な事件。
いくつもの疑問を抱えたまま、アーガの意識は少しずつ眠りの中へ沈んでいった。




