第111話 狼型獣人
獣人が右腕を振るう。骨の鎖が空気を切り裂き、耳を刺すような音を響かせた。
鎖の先につながれた長剣には、魔晶鉱粉が青白い光を放っている。
アーガは半歩だけ後退した。
右手へ赤カード5《氷》の力を集中させると、掌の周囲で刃のような冷気が渦を巻き始める。
「俺の同族を放さないというのなら――」
狼型獣人が低く唸った。
左目を覆う青銅製の眼帯の下で、残された右の瞳が細い線へ変わる。
「どちらの血が先に尽きるか、試してみるか!」
その言葉が終わるよりも早く、棘蔓へ拘束されていた二頭の灰狼が、耳をつんざくような咆哮を上げた。
全身の筋肉が異常に膨れ上がる。毛皮の下では、青黒い血管が縄のように浮かび上がっていた。二頭は棘が口内へ刺さることも構わず、蔓へ何度も噛みついた。
――ブチッ。
硬化した蔓が、鋭い牙によって引き千切られる。
狼たちの瞳は完全な血赤色へ変わっていた。
牙の隙間から粘り気のある唾液が滴り落ち、地面へ触れるたびに白い煙が上がる。
(狂暴化か?)
(いや、魔晶鉱粉による強化だ)
魔晶鉱粉は魔晶石鉱脈で採取される副産物の一つだった。人間が使用しても、ほとんど効果はない。
しかし、魔獣や獣人の体内へ取り込まれると、短時間だけ肉体能力と魔力を大幅に高める作用を持つ。
アーガたちが以前服用した上級強化薬と、性質はよく似ていた。
ただし、使用できるのは学徒級と遊侠級程度の者に限られる。
それ以上の実力者が使えば、体内の魔力と激しく衝突し、逆に身体を傷つけてしまう。
「だが、これは管理されている物資のはずだろ……?」
考える時間はなかった。巨大化した二頭の狼が、同時に地面を蹴った。
アーガは後方へ大きく跳ぶ。右手を虚空へ向かって握り込み、赤カード1《火》を発動した。
「燃えろ!」
掌から噴き出した炎が、長い鞭の形へ変化する。
炎の鞭は空気を焼きながらしなり、正面から飛びかかってきた巨狼へ叩きつけられた。
一頭は前脚を炎に包まれ、悲鳴を上げながら地面を転がった。
しかし、もう一頭は毛皮を焼かれながらも止まらない。
血走った目でアーガを見つめ、そのまま牙を剥いて飛びかかってくる。
「ちっ!」
アーガは身体を横へ捻った。
巨狼の爪が肩を掠め、衣服と皮膚を浅く切り裂く。
数本の赤い血筋が宙へ舞った。
アーガはすれ違いざまに身体を回し、肘を巨狼の鼻先へ叩き込む。
その反動を利用して後方へ宙返りし、両脚で地面へ着地した。
だが、獣人は休む時間を与えなかった。
右腕を強く引く。
骨の鎖が蛇のように軌道を変え、アーガの首へ巻きつこうと迫った。
アーガは即座に姿勢を低くした。
鎖が頭上すれすれを通過する。
そのまま背後にあった、腕ほどの太さを持つ白樺へ激突した。
――ズバンッ!
白樺の幹が真横に切断される。
木屑が舞う中、アーガの指はすでに腰のカードケースへ触れていた。
黄カード1《棕熊》。
熊の怪力が右腕へ流れ込む。
アーガは拳を地面へ叩きつけた。
――ドンッ!
衝撃波が円形に広がる。
土と枯れ葉が一斉に吹き飛び、狼型獣人の身体が大きく揺れた。
二頭の巨狼も衝撃によって横転する。
しかし、ほんの数秒で立ち上がり、再び血赤色の瞳をアーガへ向けた。
アーガは獣人の持つ長剣を横目で確認した。
刀身に付着した魔晶鉱粉は獣人の呼吸に合わせるように明滅している。青い光が強まるたび、二頭の狼の筋肉も膨張していた。
(あの剣を通じて、魔晶鉱粉の力を狼たちへ送っているのか)
(本人を気絶させれば、すぐに終わるだろうが……)
アーガの口元へ、薄い笑みが浮かぶ。
(まあいい)
(少しくらい、付き合ってやるか)
狼型獣人は、その視線から狙いを察したらしい。
骨の鎖を振り回しながら、獰猛な笑みを浮かべた。
「どうした、人間」
「怖くなったか?」
「誰がお前なんかを怖がるか」
アーガは鼻で笑った。直後、地面を蹴って急加速する。
獣人は剣を構えた。
しかし、アーガが向かった先は彼ではない。
右側にいた巨狼だった。
獣人が一瞬、目を見開く。
「止めろ!」
命令を受けた巨狼が牙を剥いて正面から飛びかかった。両者が接触する寸前。
アーガは急激に姿勢を低くし、左手を地面へ触れさせる。
「赤カード3――《草》!」
大地が割れ、棘を持つ無数の蔓が飛び出した。
生き物のように巨狼の四肢へ巻きつき、その身体を地面へ引き倒す。
狼型獣人はすぐに鎖を引き、長剣を藤蔓へ振り下ろそうとした。
だが、その動きはアーガの予想どおりだった。
アーガは右手を虚空へ伸ばし、強く握り込む。
「《氷》!」
獣人の足元へ、急速に白い霜が広がる。
次の瞬間、鋭い氷柱が地面から突き出した。
獣人は舌打ちし、攻撃を中断して上空へ跳ぶ。
その僅かな隙に、アーガはもう一頭の巨狼へ接近していた。
黄カード1《棕熊》の力が、右腕へ集中する。
「ふっ!」
腰を大きく捻り、拳を巨狼の脇腹へ叩き込んだ。
――ドゴッ!
鈍い音とともに巨狼の身体が横へ吹き飛ばされる。何本もの低木をへし折り、土の上を転がった。
「グゥ……!」
巨狼は苦しそうな声を漏らした。
起き上がろうと前脚を動かしたが身体へ力が入らない。
その場へ倒れたまま、荒い呼吸を繰り返す。
「貴様!」
狼型獣人が怒鳴った。骨の鎖へ付着した魔晶鉱粉が、今まで以上に強い青色の光を放つ。残された巨狼の身体が再び大きく膨れ上がった。皮膚の下で骨格が軋み、筋肉が異常なほど隆起する。
拘束していた蔓が一本ずつ引き裂かれていった。
「ガアアアッ!」
自由を取り戻した巨狼は大きな口を開けてアーガへ飛びかかった。
生臭い風が正面から吹きつける。巨大な牙の奥では、暗赤色の血管が脈打っているのさえ見えた。
アーガは上半身を大きく後方へ反らす。
同時に、右手の指を刃のように揃えた。
黄カード2《チーター》の力が、全身へ流れ込む。
先ほど強化したばかりのカードだった。
「遅い」
アーガの姿が掻き消えた。
巨狼の牙は空を噛む。
気づいたときには、アーガはすでに巨狼の背後へ回り込んでいた。
身体を一回転させ、右脚を鞭のように振るう。
踵が、巨狼の後脚の関節へ正確に命中した。
――ゴキッ!
骨の折れる音が夜の林へ響く。巨狼は悲鳴を上げ、その場へ崩れ落ちた。
片方の後脚は不自然な方向へ曲がり、もはや立ち上がることができない。
「この野郎!」
ついに狼型獣人が自ら攻撃へ移った。骨の鎖を勢いよく引き、長剣を流星のように投げ放つ。
狙いはアーガの背中だった。
アーガは振り返らない。
左手を背後へ向ける。
赤カード5《氷》の力が爆発し、厚い氷の盾が一瞬で形成された。
――ギィン!
長剣が氷盾へ突き刺さる。
鋭い亀裂が表面へ走ったが、刃はアーガの身体まで届かなかった。
しかし、それは獣人の本命ではない。
剣を盾へ食い込ませた直後、狼型獣人自身が正面から飛びかかってきた。
鋭い爪がアーガの喉元を狙う。剥き出しの牙からは、硫黄に似た熱い息が漏れていた。
アーガは右脚を強く踏み込み、膝を突き上げる。
膝頭が獣人の腹部へ深く食い込んだ。
「ぐっ!」
獣人の身体が僅かに浮く。
同時に、アーガは左手を獣の爪のように広げた。
「捕まえた」
赤カード3《草》へ、残された魔力を一気に注ぎ込む。
地面から、数十本もの棘蔓が爆発的に伸び上がった。
獣人の両脚へ絡みつき、腰、胸、腕へ次々と巻きついていく。
「こんなもの!」
狼型獣人は両腕へ力を込めた。鋭い爪が何本もの蔓を引き裂く。
しかし、切断された数よりも、新たに伸びてくる蔓の方が多い。
一本、また一本と太い蔓が身体へ巻きつき、最後には両腕まで完全に固定した。
「離せ!」
獣人は何度も身体を捻った。
それでも、棘蔓は地面へ深く根を張り、動きを許さない。
アーガは荒い息を吐きながら、二歩後退した。
額の汗を手の甲で拭う。
まだ傷が完全に癒えていない身体で、複数のカードを連続して使用した。
胸と背中の傷が、再び熱を帯びている。
「さて」
呼吸を整え、拘束した獣人の前へ歩み寄った。
「これで、少しは落ち着いて話せるだろう」
狼型獣人は牙を剥いた。
瞳には、まだ強い怒りが残っている。
「人間は……どいつもこいつも、卑怯な手ばかり使う……」
「お互い様だろう」
アーガは獣人の前へしゃがみ込んだ。
指先で、骨の鎖へ残っていた青い粉末を僅かに掬い取る。
「この魔晶鉱粉は、誰から手に入れた?」
獣人の瞳孔が、ほんの僅かに縮んだ。
やがて喉の奥から、低い笑い声を漏らす。
月光の下で、鎖に付着した魔晶鉱粉が不気味な青色へ輝いていた。
「これか?」
獣人は横へ唾を吐いた。
牙の隙間から、嘲るような言葉を絞り出す。
「お前たち人間が、俺たちに売ったものだろうが」
アーガは眉を寄せた。
「何だと?」
「とぼけるな」
獣人が身体を動かす。
そのたびに藤蔓が食い込み、棘が皮膚を浅く傷つけた。
それでも彼は、アーガから目を逸らさない。
「北にある黒槌町の市場だ」
「お前たち人間は、そこで三つも露店を並べていた」
「この粉を《強化薬》と呼び、獣人や魔獣を連れた者へ売りつけている!」
(黒槌町……?)
アーガの困惑は、表情にも現れていた。
狼型獣人は数秒間、その顔を注意深く見つめる。
瞳にあった怒りが少しだけ薄れ、代わりに疑いの色が浮かんだ。
「……お前、この辺りの人間ではないのか?」
「つい最近、この地域へ来たばかりだ」
アーガは正直に答えた。
「黒槌町という場所にも、行ったことはない」
狼型獣人は黙り込んだ。
荒かった呼吸が、次第に穏やかになっていく。
やがて、喉の奥で低く唸った。
怒りを無理やり飲み込んだような声だった。
「……俺の早とちりだった」
悔しそうに顔を背ける。
「降ろせ」
「もう、お前を攻撃しない」
アーガは獣人の目を見つめた。
鋭い眼光は変わっていない。
だが、先ほどまでの血に飢えたような殺気は消えていた。
少し考えたあと、アーガは右手を軽く振る。
獣人を拘束していた蔓が、生き物のように蠢いた。
棘を引っ込めながら身体から離れ、地中へ戻っていく。
狼型獣人は地面へ着地すると、手首と肩を軽く動かした。
骨の鎖が音を立てる。
続いて、倒れている二頭の灰狼へ視線を向けた。
魔晶鉱粉の効果が切れたのか、二頭の身体はすでに本来の大きさへ戻っている。
地面へ横たわり、苦しそうに息をしていた。
「俺はカインだ」
狼型獣人は粗い声で名乗った。
「東部にある陌狼村の出身で、第四隊の隊長を務めている」
遠くに見える山々へ、剣先を向ける。
「俺たちの領地は、あの山の麓にある」
アーガも短くうなずいた。
「アーガ・ラインハルトだ」
カインの耳が小さく動く。
「ラインハルト?」
「聞いたことのない家名だな」
「当然だ」
アーガは肩をすくめた。
「俺は、この辺りの人間ではないからな」
カインは鼻を鳴らした。それ以上追及せず、倒れた灰狼たちのそばへ歩いていく。
膝をつき、傷の状態を丁寧に確認し始めた。
特に、アーガに後脚を折られた狼を扱う手つきは慎重だった。
乱暴な印象とは裏腹に、傷ついた脚を必要以上に動かさないよう、細心の注意を払っている。
(自分の仲間は、本当に大切にしているらしい)
アーガは数歩だけ近づいた。
ただし、いつでもカードを取り出せる距離は維持している。
「それで」
「お前たちの村は、なぜ人間から買った《強化薬》を使っている?」
カインの手が一瞬だけ止まった。
横顔へ、暗い影が差す。
「……必要だからだ」
しばらくの沈黙のあと、ようやくそれだけを答えた。
それ以上話すつもりはないらしい。
「そうか」
アーガは追及しなかった。
「俺はこの土地の人間ではない」
「そっちの事情へ、無理に首を突っ込むつもりもない」
だが、心の中では一つの推測が浮かんでいた。
獣人たちが自分たちへ不利になるかもしれない人間の商品へ依存する理由。
それは、その危険を承知してでも、力を得なければ対抗できない敵がいるからではないか。
(黒槌町の市場)
(獣人用の魔晶鉱粉)
(管理されているはずの物資が、なぜ大量に売られている?)
アーガは得られた情報を静かに記憶へ刻んだ。さらに何か尋ねようとした、そのとき。
少し離れた茂みから、微かな音が聞こえた。
――ササッ。
葉の擦れる音。
一度ではない。
複数の場所から、僅かな間隔を置いて響いている。
カインが勢いよく顔を上げた。
両耳が真っすぐに立ち、鼻を何度も動かす。
「……誰か来る」
声を落とし、剣を握った。全身の筋肉が再び緊張する。
アーガもすぐに気づいた。足音は一つではない。しかも、かなり軽い。
ただ林を歩いているのではなく、意図的に足音と気配を隠している。
(赤骸城からの追手か?)
(それとも、別の連中か)
アーガはカインへ視線を向けた。
カインも骨の鎖を腕へ巻き直し、長剣を構えている。
「お前の仲間ではないのか?」
「違う」
カインは暗闇を睨んだ。
「俺たちの者なら、こんな盗人のような近づき方はしない」
「そうか」
アーガは静かに数歩後退した。右手を腰のカードケースへ添え、木々の隙間へ視線を巡らせる。茂みの奥で、再び何かが動いた。
気配は一つ。
二つ。
いや、さらに多い。
(どうやら、この土地の事情は……)
アーガの目が、鋭く細められる。
(思っていたより、ずっと複雑らしいな)




