第110話 リンタ村
三人は村へ続く土の道をゆっくりと歩いていた。道の脇を流れる川では数人の村人が洗濯をしている。
誰もが質素な麻の服を身につけていたがその腕や肩は意外なほど逞しい。老人や女性でさえ、日々の労働で鍛えられた身体をしていた。
三人の姿に気づいた村人たちは手を止めて視線を向けてくる。
血と泥に汚れた服。包帯の巻かれた身体。そして、白い狐耳と尻尾を持つイータ。
好奇心と警戒が混ざった視線を受け、イータはアーガの背後へ少しだけ身を隠した。
――コンッ。
――コンッ。
村の入り口に立つ古い槐の木の下で、腰の曲がった老人が薪を割っていた。
その隣では、小柄な老人が割られた薪を一つずつ積み上げている。
斧の刃が木の裂け目へ食い込んだとき、薪割りをしていた老人が顔を上げた。
三人の血まみれの姿を見たあと、イータへ視線を移す。
濁っていた瞳が僅かに明るくなった。
「随分と酷い姿だな」
老人は斧へ体重を預ける。
「山狼にでも追い回されたのか?」
アーガは自然な動作で一歩前へ出て、イータを背後へ隠した。
「魔獣に襲われました」
「どうにか逃げ切れましたが全員怪我をしています」
「そいつは災難だったな」
老人は斧の柄を杖代わりにして身体を起こした。
口を開くと、前歯が一本欠けているのが見える。
「俺はトムだ。堅苦しい呼び方は必要ない」
続いて、隣にいる小柄な老人を指さした。
「こっちはホーン。隣の家に住んでいる」
「よろしく」
ホーンは穏やかに笑い、三人へ軽く手を上げた。
トムは村の西側を指さす。
煙突から白い煙が上がる、小さな石造りの家があった。
「腹が減っているなら、うちで温かいスープでも飲んでいくか?」
その言葉に応えるように、リナの腹から小さな音が鳴った。
――ぐぅ。
リナの表情が固まる。
「……」
イータはアーガの服の裾をつかんだ。
白い尻尾の先が、期待するように小さく揺れている。
「ア、アーガ様……」
「お言葉に甘えます」
アーガは老人へ軽く頭を下げた。
しかし、右手の指は腰帯に隠したカードケースから離していなかった。
◇ ◇ ◇
トムの家は外から見た印象よりも広かった。分厚い土壁には、干した野兎や薬草の束が吊るされている。壁際には薪と農具が整然と並び、古い暖炉の上では、大きな鉄鍋が湯気を立てていた。
鍋の中で煮込まれているのは乳白色の茸スープだった。
山胡椒の香りが湯気とともに広がり、空腹だった三人の胃を刺激する。
「改めて、俺はアーガです」
アーガは椅子へ座る前に名乗った。
「こちらがリナ。狐人族の少女がイータです」
「リナです。お招きいただき、ありがとうございます」
「イ、イータです」
イータは少し緊張しながら頭を下げた。
「座ってくれ」
トムが木製の椀を並べる。
「ホーン、水が足りないから取ってきてくれるか?」
「ああ。お前は客人たちの相手をしていろ」
ホーンは木屑の積もった低い椅子を避け、桶を持って外へ出ていった。
トムは鍋のスープを掻き混ぜながら話し始める。
「この村には、何百世帯かが暮らしている」
「若い連中の多くは街へ働きに行ったから、残っているのは老人が多いがな」
温かなスープを椀へ注ぎ、三人の前へ置いた。
「それで、お前たちはどこへ向かっている?」
「サン・ローラン城です」
アーガは椀を手に取りながら答えた。
熱い湯気と香辛料の匂いが、顔を包み込む。
「トムさん、ここはリンタ村で間違いありませんか?」
「ああ、そうだ」
トムはうなずいた。
「ここがリンタ村だ」
「サン・ローラン城まで行くなら、相当な距離になるぞ」
「最近は街道も物騒だから、気をつけた方がいい」
リナは両手で椀を持ち、少しずつスープを飲んでいた。
「トムお爺さんは、道をご存じですか?」
「もちろんだ」
トムは暖炉の横に置いてあった火掻き棒を手に取った。
床に積もった灰の上へ、簡単な地図を描いていく。
「リンタ村から北西へ進め」
「まず、鉄鉱石の街と呼ばれている《暮星城》を通る」
火掻き棒が地図の上へ一本の線を引く。
「そこからしばらく長い街道を進めば、商業都市《金穂城》へ着く」
「金穂城を抜け、そのまま北へ向かえばサン・ローラン城だ」
「徒歩なら、どれくらいかかりますか?」
アーガが尋ねる。
「順調でも一か月以上だ」
トムは少し考えた。
「怪我人がいるなら、二か月は見た方がいいだろうな」
「そうですか……」
アーガは灰の地図を見つめた。
その視線がふと部屋の隅へ向く。
そこには農家の家には不釣り合いなほど新しい騎兵剣が立て掛けられていた。
さらに、トムの手を見る。
掌だけでなく、親指と人差し指の間にも分厚い硬い皮ができている。
ただ斧や農具を使い続けただけでは生まれにくい痕だった。長年剣や手綱を握り続けた者の手だ。
(元兵士か……?)
アーガは何も尋ねなかった。
自分たちにも隠していることがある。
相手が危害を加えてこない限り、過去を詮索する理由はなかった。
◇ ◇ ◇
温かなスープを飲み終える頃には三人の身体へ少しずつ熱が戻っていた。
トムは三人の怪我を見ると、頑として家に泊まるよう勧めた。
「そんな身体で、今から野宿なんてするものじゃない」
「奥の部屋を使え」
「ですが――」
「年寄りの家で遠慮するな」
トムは笑いながら手を振った。
結局、三人は厚意を受け入れることにした。
リナとイータは寝台へ横になると、ほとんど同時に眠りに落ちた。
長い逃亡と戦闘の疲れが限界まで溜まっていたのだろう。
アーガだけはすぐには眠らなかった。
扉の近くへ座り、いつでもカードを取り出せる姿勢を保つ。月光が窓の隙間から差し込み、床の上へ細い線を描いていた。
トムは暖炉のそばへ敷いた草の寝床で、大きないびきをかいている。
三更を告げる鐘の音が遠くから聞こえた頃。
アーガはようやく警戒を解き、壁へ背中を預けたまま目を閉じた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
三人は久しぶりに追手を恐れず目を覚ました。
窓から差し込む朝日の中で、イータが毛布に包まれたまま欠伸をする。
リナは温かい茶を両手で持ち、昨夜よりも柔らかな表情を見せていた。
アーガは窓辺に腰掛け、借りた小刀で林檎の皮を剥いている。
「それにしても……」
アーガの手が一瞬だけ止まった。
「ロックのあの性格では、俺が計画を立てていなければ、ヴァルガへ正面から突っ込んでいただろうな」
薄く長くつながっていた林檎の皮が切れ、窓の外へ落ちる。
皮は下にいた鶏のそばへ落ち、鶏が驚いたように羽をばたつかせた。
「本当に危険でした」
リナは眉を寄せた。
「アーガ様が最後に分身のカードでレイモンドを騙さなかったら、私たちは……」
「で、でも、勝ちました!」
イータは毛布へ包まれたまま、温かいスープを少しずつ飲んでいた。
その尻尾は、毛布の下で嬉しそうに揺れている。
昨日、自分たちの力で格上の敵を倒したことが、よほど誇らしいらしい。
アーガは窓の外へ目を向けた。
朝の光が村を少しずつ明るくしている。
「他の奴らが無事に逃げられたかは分からない」
「三方向へ分かれた以上、誰かがヴァルガと遭遇している可能性は高い」
ロック。
ケイス。
モルハンとモルブ。
全員が十分な力を持っている。
それでも、ヴァルガの強さを知るアーガは、完全には安心できなかった。
ふと、イータの椀へ目を向ける。
スープはほとんど減っていなかった。
「イータ、食欲がないのか?」
「ち、違います」
イータの耳が小さく動いた。
椀へ視線を落とし、少しだけ口を尖らせる。
「アーガ様が作ったスープの方が、おいしいです」
一瞬の沈黙のあと、アーガは思わず笑った。
「そうか」
「なら、今度は俺が作ってやる」
「本当ですか?」
イータの耳が勢いよく立ち上がる。
「約束だ」
「はい!」
リナは二人のやり取りを見ながら、静かに笑っていた。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
トムはすでに自分の部屋へ戻り、家の中には静けさが訪れていた。
三人はまだ僅かに熱を残している暖炉を囲んで座っている。
赤い炎が小さく揺れ、三人の顔へ不規則な影を落としていた。
リナは昼間、トムから聞いた道のりを思い返していた。
「サン・ローラン城まで、最低でも一か月以上……」
「途中で問題が起これば、二か月かかるかもしれませんね」
「ああ」
アーガは腰のカードケースへ触れた。
「それでも行く」
声には迷いがなかった。
「古巴特商会には、必ず代償を払わせる」
古巴特商会。
アーガを陥れ、流刑へ追い込み、赤骸城で三年以上を過ごさせた存在。
その名を口にした瞬間、暖炉の空気が僅かに重くなった。
リナもイータも何も言わなかった。
ただ、アーガの決意を否定することなく見つめている。
やがて火が小さくなり、三人はそれぞれ寝床へ入った。
窓の外には、丸い月が浮かんでいる。
遠くからは狼の遠吠えが聞こえた。
だが、石造りの家の中に響くのは、薪の弾ける音と、三人の静かな呼吸だけだった。
◇ ◇ ◇
深夜。
アーガはゆっくりと目を開いた。
リナとイータが眠っていることを確認し、音を立てないように起き上がる。
荷物の中から、赤骸城の城主府で手に入れた魔晶石を取り出した。
月光の下で石を並べ、その中から特に純度の高い三つを選ぶ。
掌の上で、上等魔晶石が淡い光を放った。
(もっと強くならなければならない)
(もう二人を危険な目に遭わせたくない)
サン・ローラン城までは遠い。
暮星城と金穂城を通り、長い街道を越える必要がある。
道中で何が起きるかは分からない。
(今のうちに、どのカードを強化するか決めておく必要がある)
アーガは静かに家を出た。
村人を起こさないよう、眠った家々の間を東へ進む。
やがて村外れを越え、白樺の林へ入った。
白い幹が月光を反射し、無数の影が地面へ伸びている。
林の奥まで来ると、アーガは足を止めた。
掌の魔晶石は、体温へ反応するように熱を帯び始めていた。
深く息を吸う。
一つ目の魔晶石を口へ入れた。
――ガリッ。
鋭い結晶が舌を切り裂く。
鉄のような血の味と、冷たく甘い魔晶石の味が、口の中へ広がった。
次の瞬間。
暴れ狂う魔力が、刃となってアーガの五臓六腑へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
これまでに何度か経験したことで、最初の頃よりは苦痛へ耐えられるようになっている。
それでも、身体を引き裂かれるような痛みは変わらなかった。
アーガは近くの白樺へ手をついた。
爪が樹皮へ深く食い込み、指先から血が滲む。
血管が皮膚の下で異様に膨れ、青紫色の筋となって全身へ広がっていく。
肌の表面には、細かな氷晶に似た紋様が浮かび上がった。
アーガは震える手で、一枚のカードを取り出した。
黄色い枠を持つカード。
――黄カード2《チーター》。
「うああっ……!」
押し殺した叫び声が、静かな白樺林へ響いた。
枝に止まっていた鳥たちが、一斉に夜空へ飛び立つ。
体内を荒れ狂っていた魔力を、アーガは強引にカードへ流し込んだ。
カードの表面に描かれた獣の姿が明るく輝き、魔晶石の力を吸収していく。
やがて激痛が引くと、アーガは樹幹へ背中を預けた。唇の端には自分で噛み切った血の跡が残っている。掌の黄カードは、以前より強い光を帯びていた。
しかし、まだ終わりではない。
アーガは二つ目の魔晶石を取り出す。
同じように噛み砕き、狂暴な力を青カード2《血怒化》へ流し込んだ。
さらに三つ目の魔晶石を緑カード2《射術》へ吸収させる。三度にわたる激痛が終わった頃には、全身から大量の汗が流れていた。
アーガは苔に覆われた岩へ腰を下ろした。上半身の衣服を脱ぎ、冷たい夜風を受ける。
月光が白樺の枝葉の隙間から差し込み、包帯の巻かれた背中へ斑模様の光を落としていた。
「ようやく終わった……」
荒い息を整えながら、三枚のカードを確認する。
黄カード2《チーター》。
青カード2《血怒化》。
緑カード2《射術》。
三枚とも、魔力の密度が明らかに増していた。
「戻るか」
アーガは夜空を見上げ、小さく呟いた。
そのときだった。
近くの茂みが、激しく揺れた。
低い唸り声とともに二頭の灰色狼が飛び出してくる。口を大きく開き、月光に濡れた牙を剥き出しにしていた。
アーガは即座に身体を捻り、後方へ跳ぶ。着地点へ、一枚の赤いカードが出現した。
――赤カード3《草》。
アーガの足がカードへ触れる。
次の瞬間。
地面から数十本の棘蔓が噴き出した。
空中へ飛びかかっていた二頭の狼へ絡みつき、その身体を強引に吊り上げる。
「ギャウッ!」
狼たちは身体を捻り、蔓から逃れようと暴れた。
しかし、棘が毛皮へ食い込み、動くたびに低い呻き声を上げる。
アーガは狼たちではなく、その背後に広がる暗闇へ視線を向けた。
「出てこい」
静かな声が、白樺林へ響く。
「獣だけを先に戦わせるとは、随分と礼儀を知らないらしいな」
しばらくの沈黙。
やがて、木々の影が揺れた。
一人の男がゆっくりと月明かりの中へ姿を現す。
灰色の毛に覆われた狼型の獣人だった。
人間より一回り大きな身体をしており、裂けた衣服の下から鍛えられた筋肉が見えている。
右腕には骨で作られた鎖が幾重にも巻きついていた。
鎖の先には一本の長剣がつながれている。
肩には新しい血の跡が残っており、何者かとの戦闘で負傷したばかりらしい。
「俺の同族を放せ」
狼人が低く唸る。
腕を動かすたび、骨の鎖が音を立てた。
剣身には月光を受けて氷青色に輝く紋様が刻まれている。
ただの装飾ではない。
魔晶鉱石の粉末を混ぜて鍛えた、魔力を通しやすい武器だった。
「冗談だろう」
アーガの指が腰に収めた赤カード5へ触れる。
「先に襲ってきたのは、そっちだ」
狼人の瞳が細くなる。
「放さないと言うなら――」
腕を大きく振り抜いた。
骨の鎖に引かれた長剣が、弧を描いて飛ぶ。
――ズバンッ!
太い白樺の幹が一撃で切断された。木が倒れ、林の中へ激しい音が響き渡る。
狼人は牙を剥き出しにした。
「貴様の血を、我ら一族の戦旗へ捧げる!」
その直後。
二頭の灰色狼を拘束していた蔓が激しく震え始めた。
狼たちの瞳が異様な赤色へ変わる。骨が軋む音とともに、身体が少しずつ膨れ上がっていった。
脚が太くなり、牙と爪が伸びていく。
巨大化した二頭の狼は棘が刺さることも構わず、拘束している蔓へ噛みついた。硬化されたはずの蔓が鋭い牙によって少しずつ引き裂かれていく。
アーガの表情から、僅かに余裕が消えた。




