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第109話 逃亡の終わり

夜空は、墨を流したように暗かった。


三つの人影が、荒野を駆けている。


リナの金髪は夜風に乱され、頬や首元へ何度も張りついた。


彼女は隣を走るアーガへ顔を向ける。


その足取りは不安定で、今にも倒れそうだった。


「アーガ様、これからどこへ向かうんですか?」


「確か……この先に、村があったはずだ……」


アーガの声は途切れ途切れだった。


一言発するたび、苦しそうに息を吸う。


イータの狐耳が警戒するように立ち上がった。


白い尻尾も、不安そうに左右へ揺れている。


「あと、どのくらいですか?」


「おそらく……歩いて一日ほど――」


言い終える前に、アーガの足がもつれた。


身体が大きく傾き、片膝を地面へつく。


膝が硬く凍った土へ激突し、鈍い音を立てた。


「アーガ様!」


リナがすぐに駆け寄り、倒れそうになった身体を支える。


イータも反対側から腕を抱えた。


緊張によって、柔らかな尻尾の毛が完全に逆立っている。


アーガの胸は激しく上下していた。


額から流れた汗が顎を伝い、地面へ落ちていく。


「誰か……追ってきているか?」


「調べます」


イータはアーガの腕から手を離し、後方へ素早く走った。


鼻を高く上げ、何度も空気を吸い込む。


琥珀色の瞳が、暗闇の中で淡く輝いていた。


周囲の匂いを確認し終えると、すぐに二人のもとへ戻る。


「追手の匂いはありません」


「誰も、ついてきていないと思います」


「そうか……」


アーガは長く息を吐いた。


周囲を見渡し、少し離れた場所を指さす。


「あそこに川がある」


「今夜は……あの辺りで休もう」


リナとイータは顔を見合わせ、同時にうなずいた。


「はい」


二人はアーガの身体を左右から支え、ゆっくりと川辺へ向かった。


月光を受けた水面が、銀色に輝いている。


静かな夜の中では、細い流れの音さえ、はっきりと聞こえた。


◇ ◇ ◇


「先に傷を処置します」


リナは布を取り出し、冷たい川の水へ浸した。


アーガの背後へ膝をつき、血を吸って重くなった衣服を慎重に持ち上げる。


裂けた布の下には、開いた傷口がいくつも残されていた。


リナは血と汚れを拭き取っていく。


冷水が傷へ触れるたび、鋭い痛みが背中を走る。


アーガは全身の筋肉を強張らせたが、声を上げずに耐えた。


布から落ちた水と血が混ざり、草の上へ暗赤色の染みを作る。


「包帯は私が巻きます」


イータは清潔な包帯を取り出した。


傷口へ触れないように気をつけながら、アーガの胸と背中へ巻いていく。


肋骨付近にある最も深い傷へ包帯を通した瞬間、アーガは耐えきれず低い呻き声を漏らした。


「ご、ごめんなさい!」


イータの耳が、すぐに頭へ張りついた。


尻尾も真っすぐに固まり、動かなくなる。


「大丈夫だ……」


アーガは無理に口元を緩めた。


「続けてくれ」


アーガの傷を処置し終えると、リナとイータもそれぞれ自分の傷を洗った。


リナは下唇を噛み、腕や脇腹についた血を静かに拭う。


イータは川の水を肩へかけ、剣で切られた傷口を洗った。


水が触れるたび、狐耳が小さく震え、時折痛そうに息を呑んでいる。


◇ ◇ ◇


夜風が草原を撫で、川辺の草が静かに音を立てていた。


澄んだ水面には月光が揺れ、細かな光の波が流れている。


アーガは柔らかな草の上へ仰向けに横たわった。


呼吸に合わせ、包帯を巻かれた胸がゆっくりと上下する。


リナとイータも、その左右へ身体を横たえた。


三人の影は、草の上で重なり合っていた。


「綺麗……」


リナは夜空を見上げ、小さく呟いた。


深い青色の空には、無数の星が宝石のように散らばっている。


天の川が空を横切り、淡い光の帯を作っていた。


煙と灰に覆われ、いつも暗く濁っていた赤骸城の空とは、まるで違う。


イータの尻尾が、草の上でゆっくりと揺れた。


狐耳も、風の音を聞くように小さく動いている。


「イータは、この空が好きです」


静けさを壊さないようにするかのような、小さな声だった。


アーガも夜空を見つめた。


口元へ、微かな笑みが浮かぶ。


「ああ」


「赤骸城の空より、ずっと綺麗だ」


「本当に、逃げ出せたんですね」


リナの指が、無意識にアーガの袖をつかんだ。


しばらく黙っていたが、やがて小さく呼びかける。


「アーガ様……」


「何だ?」


「いえ……」


リナは一度言葉を止めた。


「もしアーガ様がいなかったら、私はきっと、あの檻の中で死んでいました」


アーガは少し驚いたように顔を向けた。


すぐに、小さく笑う。


「どうした。急にそんなことを言って」


「ただ……言いたくなっただけです」


リナの頬が、微かに熱を帯びる。


暗い夜のおかげで、その表情はほとんど見えなかった。


イータも身体を寄せてきた。


柔らかな尻尾の先が、アーガの腕を撫でる。


「イータも……アーガ様が大好きです」


柔らかな声だったが、言葉には強い真剣さが込められている。


「今まで会った奴隷の持ち主の中で、アーガ様が一番優しかったです」


アーガはしばらく何も言わなかった。


やがて深く息を吸う。


「お前たちが生き残れたのは、お前たち自身の力だ」


リナは唇を結び、それ以上何も言わなかった。


ただ、少しだけアーガのそばへ身体を寄せる。


イータも、それを真似するように反対側から近づいた。


アーガは再び夜空を見上げた。


思考が、遠い過去へ流れていく。


(流刑にされてから、もう三年以上か)


(あの闘技場で死ぬと思っていたのに……)


顔を横へ向け、隣にいる二人を見る。


リナの金髪は、月光を受けて柔らかく輝いていた。


イータの狐耳も、呼吸に合わせて小さく動いている。


(本当に……不思議なものだ)


「アーガ様?」


視線に気づいたリナが、不思議そうに首を傾げる。


「何でもない」


アーガは目を閉じた。


「眠ろう」


「明日も、長い距離を歩くことになる」


リナとイータは顔を見合わせ、同時にうなずいた。


「はい」


夜が深まっていく。


星明かりが三人の身体へ降り注ぎ、柔らかな薄布を掛けるように包んでいた。


遠くからは、時折虫の声が聞こえてくる。


荒野とは思えないほど、静かで穏やかな夜だった。


◇ ◇ ◇


空が白み始めた頃。


最初に目を覚ましたのはリナだった。


静かに上半身を起こすと、アーガはすでに起きていた。


少し離れた木の幹へ背中を預け、包帯の状態を確認している。


「アーガ様、傷は……」


「もう血は止まっている」


アーガは包帯を軽く引き、緩んでいないことを確かめた。


「それより、二人は眠れたか?」


「はい」


リナが答えると、イータも目を擦りながら身体を起こした。


「よく眠れました!」


寝起きにもかかわらず、白い尻尾は高く上がっていた。


三人は簡単に荷物をまとめ、川に沿って北へ進み始めた。


朝日が少しずつ霧を消し、前方の道を明るく照らしていく。


歩き続けるうちに、足元の景色も変わっていった。


硬く痩せた凍土は、柔らかな緑の草地へ変わる。


枯れかけた低木の間から新しい葉が芽吹き、小さな野花が朝風に揺れていた。


空気には、湿った土と青草の香りが混じっている。


「空気が……本当に違うな」


アーガは深く息を吸った。


胸にはまだ痛みが残っている。


それでも、清らかな空気を吸うと、少しだけ苦しさが和らいだように感じられた。


足取りも昨夜より安定していた。


イータは歩きながら、何度も鼻を動かしている。


尻尾は嬉しそうに高く立っていた。


「野兎の匂いがします!」


「それから……木の実もあるみたいです!」


琥珀色の瞳が、興奮によって輝いている。


赤骸城を出てから初めて見せる、年相応の明るい表情だった。


リナは道端に咲いていた淡紫色の花へ手を伸ばした。


指先で花弁を撫でると、朝露が透明な雫となって肌へつく。


「こんな花、赤骸城では見たことがありません」


金髪が朝日を受け、温かな色に輝いていた。


◇ ◇ ◇


正午になると、三人は大きな樫の木の下で足を止めた。


枝葉の隙間から光が差し込み、地面へ斑な影を作っている。


遠くでは、鳥が澄んだ声で鳴いていた。


イータは川の水を水筒へ汲み、氷魔法で適度に冷やした。


両手でアーガへ差し出す。


「どうぞ」


「ありがとう」


アーガは水筒を受け取り、少しずつ水を飲んだ。


そして、二人の顔を見た。


どちらにも疲労が残っている。


衣服も傷つき、完全に汚れていた。


それでも、その目には前へ進もうとする強い意志が宿っている。


短い休憩を終え、三人は再び歩き始めた。


◇ ◇ ◇


夕日が西へ沈み始めた頃。


遠くの地平線から、細い煙が何本も立ち上っているのが見えた。


リナが突然、足を止める。


前方を指さした。


「見てください!」


「あそこに……!」


低い石壁に囲まれた小さな村が、夕暮れの中へ姿を現した。


村の入り口には、長い間風雨に晒された石碑が立っている。


刻まれた文字は少し色褪せていたが、今も十分に読むことができた。


――リンタ村。


石造りの家々が、緩やかな丘の上へ並んでいる。


屋根の煙突からは白い煙が立ち上り、夕空へゆっくりと溶けていた。


村の外では数人の住民が畑仕事をしている。


風に乗って、子供たちの楽しそうな笑い声まで聞こえてきた。


アーガの歩みが、自然と遅くなった。


長い間、力が入っていた肩が、ようやく下がる。


リナとイータの顔にも、安堵の笑みが浮かんだ。


「俺たちは……」


アーガは小さく息を吐いた。


目の前にある村を、静かに見つめる。


「辿り着いたんだな」


夕日の残光が、リンタ村を温かな金色へ染めていた。


まるで、数えきれない傷を負いながら歩いてきた三人を、静かに迎え入れているかのようだった。


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