第11話 A+ランクの新入生
「まずは宿へ戻って、少し休んでください」
セシはアーガの肩を軽く叩いた。
その視線が、血の気を失った彼の顔にしばらく留まる。
「試験までは、まだ数時間あります。今のあなたに一番必要なのは、少しでも体力を回復させることです」
アーガは素直にうなずいた。
銀鹿亭へ戻った頃には、空の端がすでに薄い灰色へ変わり始めていた。
一階の広間に客の姿はなく、夜番の従業員が受付の奥でうつらうつらと船を漕いでいる。
アーガは重い足を引きずるようにして二階へ上がった。
ノエルの部屋の前を通りかかったところで、一度足を止める。
中からは何の音も聞こえない。
どうやらノエルは、まだ眠っているらしい。
アーガは音を立てないように自分の部屋へ戻った。
上着すらきちんと脱ぎ終えないまま、ベッドへ倒れ込む。
一晩中張り詰めていた身体から、ようやく力が抜けていった。
頭が枕へ触れた、その瞬間。
アーガは深い眠りへ落ちていた。
◇ ◇ ◇
ドンドンドン――。
扉を叩く音で、アーガは眠りから引き戻された。
ぼんやりと目を開ける。
カーテンの隙間からはすでに朝日が差し込み、床の上に細長い光を作っていた。
「もうすぐ七時です」
扉の向こうから、ラスティの声が聞こえる。
「そろそろ起きないと、受付に遅れてしまいますよ」
アーガは寝返りを打ち、布団をもう少し強く身体へ巻きつけた。
「あと少しだけ……」
「ノエル様は、もう下で朝食を食べていますよ」
隣からウムの声もした。
「学院の受付は八時からだ」
アーガの目が、一瞬で見開かれた。
勢いよく上体を起こし、数秒間呆然とする。
それから慌ててベッドを飛び降りた。
昨夜、短剣で切り裂かれた服は、もう着ることができない。
急いで新しい服へ着替え、冷たい水で顔を洗い、乱れた髪も簡単に整えた。
一階へ下りた頃には、ノエルはすでに朝食を終えていた。
窓際の席に一人で座り、自分のカードを一枚ずつ確認している。
ラスティはアーガの手へパンを押し込んだ。
「道中で食べてください」
アーガはパンをかじりながら、三人とともに宿を出た。
ラスティが通りで馬車を呼び止める。
四人が乗り込むと、御者は手綱を振り、早朝の石畳を聖イース学院へ向けて走り始めた。
王都の街は、ようやく目を覚ましたばかりだった。
商店では次々と戸板が外され、荷物を積んだ馬車が通りを行き交っている。
学院へ向かう子供と、その保護者の姿も至るところに見えた。
学院へ近づくほど人の数は増えていき、街道の両側には秩序を守る王城衛兵の姿も現れ始めた。
馬車が最後の角を曲がる。
その瞬間、巨大な建造物の集まりがアーガの視界へ飛び込んできた。
聖イース学院は、王都北西部の高台に建てられていた。
いくつもの尖塔が朝の光の中で連なり、灰白色の外壁は高く、荘厳な雰囲気を放っている。
正門は三つの巨大な石造りのアーチで構成されていた。
その表面には複雑な魔法紋様が刻まれ、淡い青色の光が線に沿ってゆっくりと流れている。
アーチの両側には、学院の護衛が二列に並んでいた。
片側には法衣をまとった魔導師。
もう片側には、武器を装備した戦士たちが立っている。
学院へ入る者は、例外なく彼らの検査を受ける必要があるようだった。
アーガは車窓へ身を寄せ、長い間その光景を眺めていた。
「ここが、聖イース学院……」
反対側に座っているノエルも窓の外を見ていた。
だが、何も口にはしなかった。
馬車が学院の門前へ止まる。
受付を担当している職員が近づき、ラスティとウムへ説明した。
「護衛の方が同行できるのは、ここまでです。身分確認を終えた受験生は、学院側で一括して案内いたします。校内の安全についてはご安心ください」
ラスティはうなずくと、アーガの前へしゃがみ込んだ。
そして、もう一度襟元を整える。
「中へ入ったら、学院の先生たちの指示に従うんですよ」
「うん」
「今夜はきちんと休んでください」
ラスティは少し間を置いた。
「もう一人で、勝手に外へ出てはいけませんよ」
アーガは気まずそうにうなずいた。
「分かってる」
ウムは長弓を反対側の肩へ掛け直した。
「俺とラスティは、あと二日ほど王都に残っている。試験が終わったら、銀鹿亭へ戻ってこい」
「何かあったときは、学院の人に頼んで俺たちへ知らせてくれ」
「分かった」
ラスティは立ち上がると、アーガの肩を軽く叩いた。
「行ってらっしゃい」
続いてノエルにも、試験では緊張しすぎないようにと声をかける。
ウムも二人の肩を順番に叩き、それを別れの挨拶とした。
アーガとノエルは、学院職員のあとについて正門へ向かった。
少し歩いたところで、アーガは一度だけ振り返る。
ラスティはまだその場に立っていた。
アーガが振り返ったことに気づくと、笑顔で手を振ってくれる。
ウムはうつむいたまま、昨夜締める暇のなかった矢筒の留め具を、改めて結び直していた。
間もなく、二人を乗せた馬車の蹄音が遠ざかっていった。
◇ ◇ ◇
学院へ入った二人は、広い受付ホールへ案内された。
中央には数台の長机が並び、それぞれの前に受験生の列ができている。
アーガとノエルを担当した学院職員は、アルバートと名乗った。
彼は眼鏡を押し上げ、机の上に置かれた透明な石を指さす。
「順番に、この魔力情報石へ手を置いてください」
ノエルが先に進み、右手を石の表面へ当てた。
すると石の内部に金色の光がともり、その中から数行の文字が浮かび上がる。
【ノエル・ラインハルト】
【年齢:七歳】
【出身地:グレイクリフ王国フラン】
【魔力事前評価:B-】
【申請状況:確認済み】
ノエルは目の前に浮かんだ情報を見て、驚いたように目を見開いた。
「これは何ですか?」
「魔力情報石です」
アルバートが説明する。
「事前に登録された受験生の情報は、すべてこの中に記録されています」
「ウィンスロー先生が昨夜のうちに、あなた方の身元確認を済ませています。そのため今日は、内容に間違いがないか確認するだけで構いません」
次はアーガの番だった。
同じように、手のひらを石へ当てる。
再び金色の光が現れた。
【アーガ・ラインハルト】
【年齢:七歳】
【出身地:グレイクリフ王国フラン】
【魔力事前評価:A+】
【申請状況:確認済み】
最後の評価を見た瞬間。
眼鏡を押し上げようとしていたアルバートの手が、わずかに止まった。
周囲で順番を待っていた受験生たちも、石に浮かんだ文字へ気づいた。
「A+?」
「事前評価って、そんなところまで上がるのか?」
「僕なんてBにも届かなかったのに……」
「どこの家の子なんだ?」
小さなざわめきが、周囲へ広がっていく。
アーガは石から手を離した。
自分でも、その評価をもう一度見上げる。
学院がどのような基準で判断しているのかは分からなかった。
だが、周囲の反応を見る限り、A+という評価が珍しいことだけは理解できた。
アルバートはすぐに平静を取り戻し、登録用紙を取り出した。
「身分確認は完了です。続いて、受験する実技試験を選択してください」
「魔法実技試験は、基礎カードの色に合わせて、赤、黄、緑、青の四会場に分かれています」
「一つの会場だけを受験することもできますし、複数の会場へ参加することも可能です」
アルバートは少し間を置いた。
「最終的に、異なる五枚の基礎カードで合格判定を得られれば、魔法実技試験の入学基準を満たしたことになります」
「二人は、どの会場を受験しますか?」
「黄色と緑」
ノエルはほとんど迷わず答えた。
この半年間、成功率が高かったカードは、その二色に集中している。
不得意な色へ無理に手を広げるより、使い慣れたものへ絞った方がいいと考えたのだろう。
アルバートはうなずき、用紙へ記入した。
それからアーガへ視線を向ける。
アーガは少しだけ考えた。
「赤の会場だけにします」
少し離れた場所にいたセシが、その言葉を聞いて振り返った。
アルバートも意外そうな表情を浮かべる。
「赤だけですか?」
一つの色だけで試験を通過するためには、赤の会場だけで最低五枚の異なるカードを成功させなければならない。
「はい」
アーガは軽い調子で答えた。
「赤だけで十分です」
アルバートはそれ以上問い返さなかった。
登録用紙へ選択内容を書き込み、ノエルへ二枚の異なる色の番号札を渡す。
続いてアーガへ、赤い番号札を一枚手渡した。
「各試験会場で使用する受験番号です。なくさないように保管してください」
「現在は中央ホールで待機してください。試験が始まりましたら、担当教師がそれぞれの会場へ案内します」
学院の長い廊下には、滑らかな灰色の石材が敷かれていた。
両側の色鮮やかな窓ガラスから朝日が差し込み、床の上に大きな光の模様を描いている。
アーガは、セシのあとについて中央ホールへ向かった。
昨夜まで盗賊に捕らえられていた。
それが数時間後には、大勢の人々が憧れる聖イース学院の中を歩いている。
あまりにも多くのことが短時間に起こりすぎて、今もどこか現実味がなかった。
中央ホールには、すでに数百人の受験生が集まっていた。
ノエルはすぐに隅の静かな場所を見つけて座った。
カードケースを取り出し、一枚ずつ表面を丁寧に拭き始める。
アーガはすぐには座らなかった。
ホールの中をゆっくりと歩き、さまざまな土地から集まった受験生たちを観察する。
「今年の試験官は、去年より厳しいらしいよ」
人混みの中で、髪を一つに結んだ少女が、指先で服の裾を何度も巻いていた。
「僕のお祖父様は、王都魔法協会の会員なんだ」
その隣では、金縁の眼鏡をかけた少年が得意げに顎を上げている。
「こんな入学試験、最低限の点数さえ取れれば十分さ」
ホールの中では、さまざまな声が重なり合っていた。
緊張した様子で術式を繰り返し暗唱する者。
自分の得意なカードについて、興奮しながら語る者。
わざと声を大きくして、家柄や師匠の立場を自慢する者もいる。
試験開始の時刻が近づくにつれ、中央ホールを満たす空気は、少しずつ張り詰めていった。




