第107話 計画の全貌
転移による眩暈が消えるよりも早く、七人の身体が柔らかな苔の上へ投げ出された。
赤骸城の外に広がる荒野は、想像していた以上に荒れ果てていた。
灰紫色の瘴気が薄い布のように地表付近を漂い、捻じ曲がった枯れ木が、腰の曲がった老人のように点在している。
遠方には、赤骸城の黒曜石の城壁が聳えていた。
月光を受けた城壁は冷たい光を放ち、荒野に伏せる巨大な魔獣のようにも見える。
転移魔法の青い残光が、ゆっくりと消えていった。
周囲へ漂う瘴気の中で、枯れ木の影が異形の怪物のように揺れている。
「成功したようだな」
最初に立ち上がったのはアーガだった。
まだ揺れる視界を無理やり安定させ、素早く周囲を確認する。
「すぐに移動するぞ」
「転移魔法陣は、一度使ってから三分ほどで再使用できる」
ヴァルガたちが追ってくるまで、残された時間は少ない。
アーガは仲間たちを見回し、わずかに笑った。
「ここで、俺たちの協力関係は終了だ」
七人は次々と立ち上がった。
解放された喜びよりも、追手への警戒が勝っている。
誰もが武器を手放さず、周囲の霧へ鋭い視線を向けていた。
その中で、ロックだけが突然、夜空へ向かって大声を上げた。
「ははははっ!」
「ようやく外へ出られたぞ!」
両腕を広げ、冷たい夜気を胸いっぱいに吸い込む。
「四年だ! 四年間、あの腐った街に閉じ込められていたんだ!」
ロックはアーガへ向き直り、大きな拳を差し出した。
「小僧、いい仕事だった」
「協力できて楽しかったぜ」
アーガも拳を出し、軽く打ち合わせる。
「死ぬなよ」
「そいつは俺の台詞だ!」
ロックは豪快に笑った。
続いてケイスへ顔を向ける。
「ケイス、今度会ったら酒を奢れよ!」
「お前たちだけ副城主の宴へ招かれて、うまいものを食いやがって!」
「あれを宴と呼べるならな」
ケイスは口元へわずかな笑みを浮かべた。
強化薬の効果が薄れ、《感知魔法》によって氷青色へ変わっていた瞳も、少しずつ本来の色へ戻り始めている。
「次に会えたら、酒くらいは用意しておこう」
アーガへ軽くうなずいた。
「では、またどこかで会おう」
「今回は、俺がお前に借りを作ったな」
モルブもアーガの前へ歩み出た。
その隣には、兄のモルハンが立っている。
「俺と兄貴を、あの地獄から連れ出してくれてありがとう」
アーガは首を横へ振った。
「お前も十分に働いた」
「互いに必要なものを得ただけだ」
最後に、リナとイータへ視線を向ける。
「二人とも、準備はいいか?」
リナは迷うことなく、アーガの手首をつかんだ。
「いつでも行けます」
イータも深く息を吸い、両手でアーガの腕を握る。
「はい!」
「それなら――」
アーガはもう一度、全員の顔を見回した。
「また会おう」
「おう、またな!」
ロックは大声で答えると、巨大な戦斧を肩へ担ぎ、木々が密集する西側へ走り出した。
ケイスも音もなく後退する。
数歩進んだだけで、その姿は灰紫色の霧へ溶け込むように見えなくなった。
モルハンとモルブの兄弟も、互いにうなずき合い、南西の荒野へ向かって走り始める。
アーガ、リナ、イータの三人は一度だけ顔を見合わせた。
そして、北へ向かって駆け出す。
月明かりの下。
三方向へ分かれた人影は、荒野を覆う霧の中へ次々と消えていった。
その直後。
遠く離れた赤骸城から、警戒を告げる鐘の音が響いた。
城外の転移地点には、ヴァルガと数人の親衛隊長が姿を現している。
だが、彼らが追うべき獲物は、すでに三方向へ分散していた。
◇ ◇ ◇
アーガたち三人は、荒野を流れる細い川に沿って走っていた。
浅い水の音が、三人の足音を覆い隠す。
月光によって、地面には長い影が伸びていた。
「アーガ様」
しばらく走ったあと、リナが声を落として話しかける。
「結局、作戦の全体はどうなっていたんですか?」
「ケイスさんたちへ、何を頼んでいたんです?」
アーガは速度を落とさずに答えた。
「以前、話したことがあるだろう」
「イータと出会った日のことだ」
「闘技場には、自分と体格が近い相手へ変身できる魔法を持った人間がいた」
リナは少し考え、記憶を辿った。
「《相似変身》のことですか?」
「ああ」
アーガは低く伸びた枝を、上半身を傾けてかわした。
「そして俺は、他人の魔法を写し取れる男を知っていた」
「モルブの《写生魔法》だ」
「だから、脱出計画への協力を求める手紙を送った」
リナがうなずく。
「私が届けた、あの手紙ですね」
「そうだ」
「モルブには、《写生魔法》を使って《相似変身》を再現してもらった」
「そのうえで、イータには黒市でヴァルガの鎧に似た装備を用意してもらった」
イータの耳が、少し誇らしげに立ち上がる。
「ヴァルガはモルブよりも体格がいい」
アーガは説明を続けた。
「だが、厚い鎧を着て、肩や腹へ詰め物を入れれば、遠目にはほとんど分からない」
「顔と声、それに僅かな魔力の気配を《相似変身》で再現すれば、城主府の兵士程度は騙せる」
イータの耳が小さく動いた。
「そ、それなら……」
「どうしてロックさんを東門へ行かせたんですか?」
「ヴァルガの兵力を分散させるためだ」
アーガの靴が、湿った地面へ沈む。
それでも歩幅は乱れず、ほとんど音も立てなかった。
「今の鉱脈には、価値の高い魔晶石がほとんど残っていない」
「守備兵の数も以前ほど多くなく、実力のある親衛隊長が一人配置されているだけだった」
「だから、最初にロックがその男を奇襲した」
「そのあと、鉱夫たちへ赤骸城が強者を密かに処分していることを伝え、暴動を起こさせた」
リナが小さく鼻を鳴らす。
「ヴァルガは、見事に引っかかりましたね」
「あいつは、俺とケイスなら自分一人で倒せると考えていた」
アーガは地面から突き出た木の根を飛び越える。
「そのため、親衛隊の大半を鉱脈の暴動鎮圧へ向かわせた」
「城主府の警備が薄くなれば、偽のヴァルガを中へ連れていくのも簡単になる」
リナは走りながら考え込んだ。
やがて何かに気づき、顔を上げる。
「ロックの能力は、印をつけた物体と自分の位置を入れ替える魔法でしたね」
「確か、印を維持できるのは半日ほど」
「私に持たせた、あの紋様のついた石も、ロックが印をつけたものだったんですか?」
「そのとおりだ」
アーガはうなずいた。
「ロックには、事前に鉱脈から東門まで、いくつもの物へ印をつけてもらった」
「だから、大勢の兵士を相手に勝てなくても、位置を入れ替え続けることで時間を稼げる」
「暴動を鉱脈から東門まで広げ、最初の信号弾を上げる」
「あれが、俺たちへ暴動の成功を伝える合図だった」
イータはアーガのすぐ後ろを走っていた。
跳躍するときには尻尾を左右へ伸ばして平衡を取り、湿った苔の上へ軽やかに着地する。
「それでは、二発目の信号弾は……」
「あれは、私が黒市で買ったものですよね?」
「ああ」
アーガは不敵に笑った。
「俺たちが城主府の近くへ集まり、変装の準備を終えたあとに打ち上げた」
「城主府から信号弾が上がれば、ロックは城内への潜入準備が整ったと分かる」
「同時に、ヴァルガにも城主府で何かが起きていると気づかせられる」
「そこでロックは、リナが持っていた印つきの石と位置を交換した」
「東門から一瞬で俺たちのところへ合流したということですか?」
イータが目を丸くする。
「そうだ」
「そのあと全員で、イータとリナが用意した衛兵の鎧を着た」
アーガの笑みが深くなる。
「偽の城主代理と、六人の親衛兵が完成した」
「そうすれば、正面から堂々と城主府へ入れる」
リナは感心した様子でうなずいた。
しかし、すぐに新たな疑問が浮かんだらしい。
「ですが、アーガ様はどうして、転移魔法陣の場所や仕組みを知っていたんですか?」
「クロードと別れた夜に、城主府の設計図をもらった」
アーガは少し得意そうに答えた。
「ついでに、転移魔法陣についても聞いておいた」
「俺たちには、長時間空を飛ぶ能力がない」
「城外の瘴気を完全に防ぐ方法もなかった」
「普通に門から出ても、沼地を越える前に追いつかれるか、瘴気で動けなくなる」
「だから最初から、転移魔法陣を使う以外に道はなかった」
リナは走りながら身体を回し、後ろ向きになった。
月光を受けた深青色の瞳が、楽しそうに輝いている。
「完璧な計画じゃないですか!」
アーガのそばへ近づくと、手を伸ばして髪を強く掻き回した。
「ヴァルガまで、完全にアーガ様の思いどおりに動いていました!」
イータも何度も大きくうなずく。
白い尻尾が、小さな風車のように左右へ振られていた。
「アーガ様は、本当にすごいです!」
「わっ――」
その直後。
アーガの足が大きく乱れた。
身体が前方へ傾き、咄嗟に近くの枯れ木へ手をつく。
幹をつかむ指へ強い力が入り、関節が白くなった。
冷たい汗が額から流れ落ち、月光を受けて光っている。
「アーガ様!」
リナは即座に引き返した。
倒れかけたアーガの身体を、両腕で支える。
触れた背中の布は、異常なほど熱く、濡れていた。
手を離して確認すると、掌が赤く染まっている。
アーガの背中は、すでに大量の血を吸っていた。
「血……!」
イータも慌てて駆け寄る。
尻尾の毛が、一瞬ですべて逆立った。
「こんなにたくさん……」
「大丈夫だ」
アーガは身体を起こそうとした。
だが、脚へ力が入らない。
一度後方を確認し、追手の気配がないことを知ると、ようやく緊張を緩めた。
「ヴァルガとの戦いで、急所は傷ついていない」
「少し休めば動ける」
「動かないでください!」
リナはアーガを地面へ座らせ、背中側の衣服を素早く裂いた。
ケイスが応急処置を施した傷口が、激しく走り続けたことで再び開いている。
傷の周囲は不自然な青紫色へ変色し、血が絶え間なく流れていた。
高級強化薬の反動も、身体の回復を妨げているのだろう。
イータは震える手で荷物を開き、治療薬を探した。
慌てているため、何度も小瓶を落としかける。
小さな爪が震え、栓をうまくつかめない。
アーガは青ざめた顔で、わずかに笑った。
「これで……計画の全貌が分かっただろう……」
「今は話さなくていいです!」
リナはイータの手から薬瓶を受け取り、歯で栓を引き抜いた。
傷口へ治療用の粉末を振りかける。
「ぐっ……!」
薬が触れた瞬間、アーガの全身の筋肉が硬直した。
喉の奥から、抑え込んだ呻き声が漏れる。
イータは唇を強く噛み、泣き声を出さないようにしていた。
「大丈夫だ」
アーガは震える右手を伸ばし、イータの頭を撫でる。
「それより……」
「ヴァルガの宝石を見つけたのは、予想外の成果だったな」
イータの尻尾が、少しだけ左右へ動いた。
「に、匂いがしたんです……」
「箱の中から、強い魔力の匂いが……」
「そうか」
アーガは短く笑った。
治療が終わると、枯れ木へ手をつきながら立ち上がろうとした。
顔は紙のように白く、呼吸も乱れている。
「もう長くは休めない」
歯を食いしばり、どうにか身体を起こした。
「ヴァルガと親衛隊が、いつ追いついても――」
その言葉が終わるよりも早く。
近くの茂みから、枯れ枝の折れる音が響いた。
三人は同時に振り返った。
月光の届かない木々の陰から、大柄な人影がゆっくりと現れる。
男は頭部を覆っていた兜を脱いだ。
顔には、古い傷痕が何本も走っている。
血髑髏闘技場で、第三位のグルーを倒した親衛隊長。
レイモンドだった。
「随分と……」
レイモンドは腰の剣をゆっくりと抜いた。
月光を受けた刃が、冷たく輝く。
傷痕の残る顔が歪み、不気味な笑みを作った。
「酷い姿ではありませんか、アーガ様」
イータの尻尾が大きく膨らんだ。
反射的に一歩前へ出て、負傷したアーガを背後へ隠そうとする。
リナの背中からは、複数の蔓が一斉に伸びた。
先端をレイモンドへ向け、いつでも攻撃できる状態へ変わる。
「イータ」
リナは敵から目を離さずに言った。
「アーガ様を連れて、先に逃げて」
「逃げる?」
レイモンドは、喉の奥で笑った。
「ここまで来て、まだ逃げられると思っているのか?」
長剣の切っ先を、三人へ向ける。
「今夜――」
その身体から、鋭い魔力が放たれた。
「貴様らは誰一人、生きてここを離れられない」




