第106話 ロックの能力
赤骸城の東門は、完全な混乱に陥っていた。
暴動を起こした鉱夫や剣闘士たちは勇敢に戦っていたが、次々と押し寄せる衛兵たちによって、少しずつ後退を強いられている。
地面には、負傷した者たちが折り重なるように倒れていた。
苦痛に満ちた呻き声と、武器を振るう兵士たちの怒号が入り混じる。
夜の闇で無数の松明が激しく揺れ、入り乱れる人影を、傷だらけの城壁へ映し出していた。
ヴァルガは損傷した竜翼を動かし、戦場の上空へ浮かんでいる。
黄金色の縦長の瞳が、眼下の戦場を隅々まで見渡した。
(東門へ集合するつもりなのか?)
ヴァルガは眉を寄せる。
(奴らは一体、何を企んでいる?)
赤骸城が築かれて以来、城外の荒野を越えて逃げ延びた者はいない。
城壁の外には、有毒な瘴気に覆われた沼地が広がっている。
仮に東門を突破できたとしても、生きたまま外の土地へ辿り着ける可能性は極めて低かった。
やがて、ヴァルガの視線が戦場の一角で止まった。
ロックが全身を血に染め、城壁へ背中を預けている。
手にした戦斧の刃はすでに欠け、柄にも無数の亀裂が入っていた。
それでもロックは、白い歯を見せて挑発するように笑っていた。
周囲には、十人を超える衛兵が倒れている。
そのほとんどが、ロックの怪力によって正面から叩き伏せられていた。
「こいつも強化薬を飲んだのか」
ヴァルガは、ロックから放たれる魔力を感じ取った。
闘技場で見たときとは、明らかに密度が違う。
損傷した翼を畳み、戦場へ急降下した。
巨大な竜爪が地面へ着地する。
轟音とともに石材が砕け、周囲へ小石が飛び散った。
「役立たずどもが!」
ヴァルガの怒声に、周囲の衛兵たちが身体を震わせる。
「これだけの人数がいて、剣闘士一人も捕らえられないのか!」
一人の親衛隊長が、その場へ片膝をついた。
兜の奥から聞こえる声は、恐怖によって震えている。
「申し訳ございません、副城主様」
「ですが、あの男の能力は異常です」
「一度印をつけた物体と、自分の位置を入れ替えることができます」
「あと少しで捕らえられるという瞬間になると、突然別の場所へ移動してしまうのです」
「位置を入れ替えるだと?」
ヴァルガは目を細めた。
ロックの周囲へ視線を巡らせる。
足元には、無数の小石や壊れた武器が散乱していた。
城壁にも、所々に不自然な傷のついた煉瓦がある。
ヴァルガはすぐに理解した。
すべて、ロックが事前に印を刻んだ転移地点なのだ。
おそらく、遠く離れた鉱脈にも同じ印が残されている。
「思い出したぞ」
ヴァルガはゆっくりとロックへ近づいた。
「貴様は闘技場で親衛隊長と戦ったときにも、その力を使っていたな」
太い竜尾が、邪魔な死体や武器を無造作に払い退ける。
「東門から外へ出れば、生き延びられるとでも思っているのか?」
低く危険な声が、ロックへ向けられた。
「城外の瘴気を吸えば、数分で肺が腐り始める」
「沼地にいる人食い蔓へ捕まれば、泥の中へ引きずり込まれ、骨すら残らんぞ」
そのとき――
――ドンッ!
遠くから、大きな爆発音が響いた。
ロックは荒い呼吸を繰り返しながら、夜空を見上げた。
そして突然、声を上げて笑い始める。
ヴァルガの胸に、言い知れない不安が走った。
すぐに東門の完全封鎖を命じようとした、その瞬間。
背後の夜空で、眩い光が炸裂した。
特殊な信号弾が、赤骸城の夜を昼のように照らし出す。
ヴァルガは勢いよく振り返った。
信号弾が上がった方角は、東門ではない。
城主府だった。
「なるほど。そうかよ」
背後から、ロックの声が聞こえた。
ヴァルガが再び振り返る。
ロックの輪郭が、すでに薄く揺らいでいた。
「それじゃあ、また会おうぜ」
ロックは最後まで挑発的な笑みを崩さなかった。
「老いぼれ蜥蜴!」
次の瞬間。
ロックの身体が、その場にあった煉瓦の一つと入れ替わった。
人影は完全に消え、代わりに印の刻まれた煉瓦だけが血に濡れた地面へ落下する。
「貴様ぁっ!」
ヴァルガは怒りのまま、近くの城壁へ爪を振り下ろした。
厚い石壁の一部が粉々に砕け、瓦礫となって周囲へ飛び散る。
ロックの挑発。
絶妙なタイミングで打ち上げられた信号弾。
各地に印をつけ、遠距離を移動できる交換能力。
それらの情報が、ヴァルガの頭の中で一本につながっていく。
黄金色の瞳孔が、大きく収縮した。
一つの可能性が思い浮かぶ。
あまりにも無謀で、現実的とは思えない計画。
それでも、もし成功すれば――
「全員、聞け!」
ヴァルガは損傷した翼を広げ、戦場全体へ怒声を響かせた。
「一部の兵はここへ残り、暴動の鎮圧を続けろ!」
「残りは全員、ただちに城主府へ向かえ!」
その顔は、完全に怒りへ染まっていた。
「たかが数人の小僧が……」
ヴァルガは地面を蹴り、城主府の方角へ飛び上がる。
「この俺を、まんまと利用したつもりか!」
◇ ◇ ◇
赤骸城の夜空は、炎によって赤く染め上げられていた。
通りの至るところに、暴動の痕跡が残されている。
転倒した露店。
炎上する馬車の残骸。
地面へ散らばった剣や槍。
衛兵たちは住居を一軒ずつ調べ、逃亡者や暴動の関係者を捜していた。
城主府の周辺を守る兵士たちも、今夜起こった出来事について、小声で言葉を交わしている。
その通りを、ヴァルガと六人の武装した衛兵が歩いていた。
ヴァルガの姿は、すでに人間へ戻っている。
「ここからは歩いて進む」
低い声で命じ、城主府へ向かう。
鉄製の靴が青石の上へ落ちるたび、重い足音が響いた。
途中、一人の衛兵が何かに気づいたように立ち止まった。
周囲を確認したあと、向かい側にある部屋へ入っていく。
残る者たちはそのまま城主府へ入り、金色に装飾された階段を上った。
「異常はないか?」
ヴァルガは、道中で警備に当たる兵士へ尋ねた。
「ご報告いたします、副城主様!」
魔法陣室を守っていた衛兵が、直立して敬礼する。
「こちらに異常はありません!」
一行が三階へ到着した頃、先ほど一階で離れた衛兵も後方から追いついた。
ヴァルガは全員が揃ったことを確認し、魔法陣室の扉を開けるよう命じる。
厚いオーク材の扉が、ゆっくりと開かれた。
室内では、数人の白衣の魔法使いが書物を読んでいた。
突然現れたヴァルガの姿を見て、慌てて席を立つ。
「逃亡者たちは、すでに東門から街の外へ出た」
ヴァルガは最も近くにいた魔法使いの肩をつかんだ。
「城外の荒野を抜けるため、何らかの手段を用意しているはずだ」
「すぐに転移魔法陣を起動しろ」
「俺たちを、沼地の外側にある安全地帯へ送れ」
「先回りして、奴らを捕らえる」
「しょ、承知しました!」
白衣の魔法使いたちは、慌てて定められた位置へ移動した。
水晶球へ魔力を流し込み、一斉に印を結ぶ。
床に刻まれた魔法陣が、淡い青色の光を放ち始めた。
ヴァルガと六人の衛兵が、魔法陣の中央へ立つ。
青い光が次第に強くなり、床の紋様が外側から一つずつ点灯していった。
転移回路が完成しようとした、そのとき。
室内の空気が、突然凍りついた。
――ガシャァン!
魔法陣室の西側にあった色硝子が、外から粉々に砕かれた。
無数の硝子片とともに、一つの巨大な影が室内へ飛び込んでくる。
全身を黒い竜鱗で覆ったヴァルガだった。
「貴様ら、何をしている!」
侵入者が怒鳴った。
その声は、魔法陣の中央に立つヴァルガとまったく同じだった。
三人の魔法使いが、その場へ尻餅をつく。
手にしていた水晶球が床へ転がった。
彼らの目の前には、同じ顔を持つ二人の赤骸城副城主が立っていた。
「驚いたか?」
魔法陣の中央にいるヴァルガが、突然小さく笑った。
暗金色の鎧を脱ぎ捨てる。
その下から現れた身体は、ヴァルガのように大きくも、鍛え上げられてもいなかった。
むしろ小柄で、腹部もわずかに膨らんでいる。
顔の皮膚が蝋のように溶け始めた。
目、鼻、口の位置が崩れ、再び別の形へ組み上がっていく。
数秒後、そこに立っていたのはヴァルガではなかった。
「モルブ……!」
本物のヴァルガが、怒りに満ちた声で名前を吐き出す。
同時に、六人の衛兵たちも次々と兜と鎧を脱ぎ捨てた。
現れたのは、アーガ、リナ、イータ、ケイス、ロック、そしてモルハンだった。
リナは得意そうな笑みを浮かべ、一枚のカードを掲げた。
「タロットカード――《金貨の二》」
カードの表面で、二つの金貨が互いの位置を入れ替えるように回転している。
「《相似変身》です」
その魔法については、以前にも聞いたことがあった。
イータを迎えた日、血髑髏闘技場について話しながら歩いていたとき、アーガが話題に出していた人物。
それが、モルブだった。
二日前。
アーガはクロードへ頼み、モルハン兄弟の現在の住所を調べてもらっていた。
二人の兄弟は、昔から強い絆で結ばれている。
モルハンは赤骸城の人間によって腕を折られ、闘技場から密かに排除されていた。
当然、弟のモルブも、そのことを許してはいなかった。
アーガが赤骸城からの脱出と復讐を持ちかければ、協力する可能性は高いと考えていた。
そして、その予想は正しかった。
モルブが本来持っているのは、《写生魔法》と呼ばれる能力だった。
かつて学院にいた頃。
彼は他人が使った魔法結界を写し取り、それを再現することで、セシー教師たちの捜索から逃れたことがある。
今回は、以前見たことのある《相似変身》の魔法を写し取り、自分の身体へ再現していた。
その結果、外見だけでなく、声や僅かな魔力の気配までヴァルガに似せることに成功したのだ。
「貴様ら……!」
本物のヴァルガが、一歩踏み出した。
だが、すでに遅かった。
魔法陣の青い光は天井へ届くほど強くなり、部屋全体を激しく震わせていた。
床に刻まれた最後の紋様が点灯する。
完全な転移回路が形成された。
白衣の魔法使いの一人が、青ざめた顔で叫ぶ。
「止められません!」
「転移はすでに始まっています!」
「今から強制的に中断すれば、魔法陣全体が爆発します!」
「ふざけるな!」
ヴァルガが咆哮した。
竜の口腔内に、灼熱の光が集まる。
「《竜の吐息》!」
白熱した炎が、魔法陣へ向かって放たれた。
だが、青い光に包まれた七人の身体は、すでに透明になり始めていた。
竜息は、彼らが残した幻影を通り抜ける。
背後の石壁へ直撃し、巨大な焦げ跡と穴を作り出した。
「ご馳走さまでした!」
転移が完了する寸前、イータが突然声を上げた。
懐から、一つの黒檀製の箱を取り出す。
それは、ヴァルガの屋敷から持ち出されたものだった。
箱の蓋を開く。
内部には、三個の上級魔晶石。
三個の生命泉石。
二個の集能石。
そして、一個の夜光石が収められていた。
色とりどりの宝石が青い光を反射し、転移魔法陣全体を深海のような輝きで満たす。
ヴァルガの顔が、怒りと驚愕によって大きく歪んだ。
アーガは、その表情を見ながら不敵に笑った。
「お前が貯め込んでいた宝は――」
青い光が、七人の姿を飲み込んでいく。
「俺たちが有効に使わせてもらう」
次の瞬間。
魔法陣を満たしていた光が、一本の細い線へ収束した。
アーガたち七人の姿は、完全に消え去った。
室内に残されたのは、ゆっくりと薄れていく青い残光と――
すべてを奪われたヴァルガの、怒りに満ちた咆哮だけだった。




