第104話 副城主ヴァルガ
赤骸城の城主府にある宴会場は、昼間のように明るかった。
天井から下がる水晶の照明が、冷たい光を幾重にも反射し、深紅の布を掛けられた長い食卓を照らしている。
銀製の食器は寸分違わず並べられ、透明な酒杯には暗赤色の葡萄酒が満たされていた。
甘く濃厚な香りが、広い室内を漂っている。
「やはり城主府は快適だな」
主賓席へ腰掛けたヴァルガは、葡萄酒を一口飲み、満足そうに息を吐いた。
「次にここへ座るときは、城主代理ではなく、正式な城主として迎えられたいものだ」
間もなく、宴会場の扉が開いた。
アーガとケイスが並んで中へ入る。
従者は恭しく頭を下げ、二人を用意された席まで案内した。
アーガは歩きながら、周囲へ視線を巡らせる。
壁際の暗がりには、ヴァルガの親衛隊が無言で立っていた。
冷たい光を返す鎧。
いつでも抜けるように、剣の柄へ置かれた手。
歓迎の宴にしては、あまりにも物々しい警備だった。
「ようこそ、勇敢なる剣闘士たちよ」
ヴァルガの低く威厳に満ちた声が、宴会場へ響いた。
暗金色の鎧は蝋燭の光を受け、溶けた金属のような光沢を放っている。
「ところで、ロックの姿が見えないようだが?」
アーガはわずかに頭を下げた。
「分かりません」
「何か用事があり、遅れているのではないでしょうか」
ヴァルガは目を細め、指先で食卓を軽く叩いた。
数度音を響かせたあと、隣に控えていた親衛隊長へ視線を送る。
「何人か連れて、ロックの家を見てこい」
「見つけたら、丁重にこちらへ“招待”しろ」
「承知しました」
親衛隊長が頭を下げる。
背を向ける直前、ヴァルガは意味深な視線を送った。
言葉はない。
だが、親衛隊長は小さくうなずいた。
ロックを連れてくるのではなく、機会を見つけて殺せ。
その命令は、十分に伝わっていた。
ケイスは冷たく笑い、酒杯の縁を指先でなぞった。
鋭い視線だけが、立ち去る親衛隊長の背中を追っている。
◇ ◇ ◇
間もなく、従者たちが料理を運び始めた。
黄金色に焼かれた魔獣の肉。
濃厚なソースを掛けられた野菜。
焼きたての香りを立てる柔らかなパン。
並べられた料理は、どれも美しく、食欲を誘うものばかりだった。
しかしアーガもケイスも、食器へ手を伸ばさない。
二人はただ、主賓席に座るヴァルガを静かに見ていた。
「どうした?」
ヴァルガは穏やかな笑みを浮かべた。
「口に合わないのか?」
自ら肉を一切れ切り分け、口へ運ぶ。
十分に咀嚼して飲み込んだあと、葡萄酒の杯を持ち上げた。
「北境から特別に取り寄せた葡萄酒だ」
「一口くらい味わってはどうだ?」
アーガとケイスは、一瞬だけ視線を合わせた。
それからようやく、食器へ手を伸ばす。
動作は遅く、慎重だった。
その様子を見て、ヴァルガの笑みがさらに深くなる。
瞳の奥に、嘲るような光が一瞬だけ浮かんだ。
数度杯が空になり、表面上は穏やかな宴が続いた。
しかし、和やかな会話の下では、冷たい殺意が絶えず流れていた。
そのときだった。
宴会場の扉が、勢いよく開かれる。
一人の親衛隊員が、足をもつれさせながら飛び込んできた。
顔は血の気を失い、荒い呼吸を繰り返している。
「ヴァ、ヴァルガ副城主様!」
「鉱脈で暴動が発生しました!」
ヴァルガの表情が止まった。
「何だと?」
「労働者たちが一斉に反乱を起こしています!」
「鎮圧へ向かった親衛隊長も、ロックの不意打ちを受けて重傷を負いました!」
「すでに現場は制御不能です!」
「何だと!」
ヴァルガが勢いよく立ち上がった。
手にしていた酒杯が床へ落ち、鋭い音を立てて砕け散る。
暗赤色の葡萄酒が、血のように床へ広がった。
ケイスは小さく鼻を鳴らし、布でゆっくりと口元を拭った。
「どうやら、ロックは今夜、随分と忙しいらしい」
ヴァルガの顔から、笑みが完全に消えた。
毒蛇のような視線が、アーガとケイスへ向けられる。
「貴様ら……」
「最初から手を組んでいたのか?」
アーガは食器を置いた。
顔を上げたとき、その瞳にはすでに一片の敬意も残されていなかった。
「副城主様が準備されたのは、最初から俺たちを殺すための宴だったのでしょう?」
静かな声で続ける。
「こちらも、相応の返礼を用意しただけです」
「いいだろう」
ヴァルガは怒りを通り越したように笑った。
「実にいい」
腕を大きく振り、周囲の兵士たちへ命令を下す。
「親衛隊と付近の守備兵を、全員鉱脈へ向かわせろ!」
「何としても暴動を鎮圧しろ!」
兵士たちが一斉に動き始める。
「そして、この二人は――」
ヴァルガは腰の長剣をゆっくりと抜いた。
蝋燭の炎を受けた刃が、冷たい光を返す。
「副城主暗殺を企てた罪により、この場で処刑する!」
親衛隊の大半が、命令を受けて宴会場から飛び出していく。
従者たちも、争いへ巻き込まれることを恐れ、料理を置いたまま姿を消した。
やがて、広大な宴会場に残されたのは、ヴァルガ、アーガ、ケイスの三人だけとなった。
ヴァルガは長剣を置き、ゆっくりと手首を回した。
「酒に毒を入れなかった理由を知りたいか?」
その身体から、校尉級の濃密な魔力が溢れ始める。
「貴様らの首は、この手で直接へし折りたかったからだ」
アーガの指先が、腰のカードケースへ触れた。
ケイスの袖からは、音もなく短剣が滑り出す。
刃には、幽青色の毒光が浮かんでいた。
窓の隙間から強い風が入り込み、蝋燭の炎が激しく揺れた。
壁に映った三人の影が、今にも互いへ飛びかかろうとする猛獣のように歪んでいく。
ケイスは席を立ち、毒を塗った短剣を構えた。
「死人に口なし、というわけか」
冷たい笑みを浮かべる。
「本当に、俺たち二人を殺せると思っているのか?」
ヴァルガは肩に掛けていた深紅の外套を外した。
その下から、精鋼で作られた重厚な腕甲が姿を現す。
――カチッ。
小さな作動音とともに、腕甲の隙間から三寸ほどの刃が飛び出した。
「貴様らは、俺を誰だと思っている?」
ヴァルガは冷笑した。
片手で長い食卓をつかみ、力任せに横へ投げ飛ばす。
料理と食器が宙へ舞い、壁や床へ激突した。
抑え込まれていた怒気によって、宴会場全体が微かに震え始める。
「俺は《砕骨者》ヴァルガ・クルーガー!」
「この二十年間、俺へ挑んだ者の死体だけで、闘技場の半分を埋められる!」
ヴァルガの身体から、黒い魔力が噴き出した。
筋肉が膨張し、骨格が不自然な音を立てながら変形していく。
皮膚の表面に、漆黒の鱗が次々と現れた。
背骨が一節ずつ盛り上がり、腰の後ろへ伸びていく。
やがて、それは太く長い竜の尾へ変わった。
両腕は黒い鱗に覆われた巨大な爪となる。
背中から肉が裂ける音が響き、二枚の異形の翼が飛び出した。
翼膜には無数の血管が浮かび、血色の蜘蛛の巣のように広がっている。
頭部も前方へ長く変形した。
鋭い牙が唇を突き破り、黄金色の縦長の瞳孔が二人を捉える。
鼻孔からは、硫黄の臭いを含んだ白煙が吹き出していた。
ヴァルガは一枚のカードを、変形した爪の間へ挟んだ。
「タロットカード――《剣の三》」
低い声は、すでに人間のものではなかった。
宴会場の空気を震わせる、竜の咆哮へ変わっている。
「《竜の力》」
巨大な翼が広がった。
「このカードの力によって死ねることを、光栄に思え」
アーガとケイスは、互いの顔を見た。
二人とも遊侠級中位。
対するヴァルガは校尉級だった。
その力の差は、変身前から理解していた。
しかし実際に竜の姿となったヴァルガを目の前にすると、想像以上の圧力を感じる。
それでも、退路はすでになかった。
アーガは迷うことなく、クロードから渡された高級強化薬を取り出した。
一本をケイスへ投げ渡す。
二人は栓を抜き、同時に薬液を飲み干した。
灼熱のような感覚が喉から腹部へ流れ落ちる。
直後、全身の血液が沸騰したかのように、筋肉と魔力回路が激しく脈打ち始めた。
アーガの腰へ、四つの色を帯びた魔力腰帯が形成される。
「融合変身――」
四枚のカードを、立て続けにスロットへ差し込んだ。
「《森林形態・一一一号》!」
緑色を基調とした魔力装甲が、アーガの全身へ展開された。
半透明の装甲の下では、植物の蔓を思わせる無数の紋様がゆっくりと動いている。
胸元から伸びた蔓模様が、肩、腕、腰、両脚へ絡みつくように広がった。
両腕の外側には、木質化した鋭い甲刃が形成される。
揃えた指先からは、植物の棘のような緑色の刺突光が伸びていた。
一方、ケイスは目を閉じ、深く息を吸った。
再び瞼を開いたとき、瞳は不気味な氷青色へ変わっていた。
「《感知魔法》」
彼の認識する世界が、一変する。
ヴァルガの鱗が擦れ合う微かな音。
肺へ吸い込まれる空気の量。
体温の変化。
攻撃の直前に起こる、筋肉と魔力の収縮。
それらすべてが、普段よりも明瞭に感じ取れる。
薬剤による強化を受け、二人の力は一時的に戍佐級へ到達していた。
「行くぞ!」
アーガが先に飛び出した。
床を蹴った瞬間、足元から三本の蔓が伸びる。
一本は天井の梁へ絡みつき、残る二本が左右の柱をつかんだ。
蔓が同時に収縮し、アーガの身体を通常ではあり得ない軌道へ加速させる。
正面から飛び込む本体に加え、蔓で作られた二体の人影が左右へ分かれた。
三方向から、同時にヴァルガへ襲いかかる。
本物のアーガは右手の指を揃えた。
蔓を巻きつけた鋭い手刀が、ヴァルガの腹部へ真っすぐ突き出される。
「強化薬だと?」
ヴァルガは三つの人影を見回し、冷笑した。
「どこから手に入れたかは知らんが――」
太い竜尾を横薙ぎに振るう。
「その程度で俺に勝てると思うな!」
凄まじい風圧が、宴会場を駆け抜けた。
長い食卓が地面から浮き上がり、壁へ叩きつけられる。
左右の蔓人形は、竜尾が通過した瞬間に砕け散った。
しかしアーガは、尾が身体へ届く直前、手首から蔓を射出した。
蔓がヴァルガの左脚へ幾重にも巻きつく。
そのまま地面へ手刀を突き立て、自分の身体を固定した。
ヴァルガの尾がアーガの肩を掠め、装甲の表面から緑色の光が飛び散る。
同時に、ケイスがヴァルガの背後へ潜り込んだ。
音もなく踏み込み、毒を帯びた短剣を後頭部と首の間へ突き出す。
狙いは、鱗と鱗のわずかな隙間だった。
「甘い!」
ヴァルガの首を覆う鱗が、一瞬で厚く硬化した。
――ギィン!
短剣が鱗へ弾かれ、無数の火花が散る。
ヴァルガは身体を反転させ、巨大な爪をケイスの喉へ振るった。
ケイスは爪が動き始めるよりもわずかに早く、上半身を後方へ反らした。
鋭い爪先が、首の皮膚すれすれを通り過ぎる。
感知魔法によって筋肉の収縮を読み取り、攻撃の開始を先回りしたのだ。
「鬱陶しい虫けらどもが!」
ヴァルガが怒鳴った。
二枚の肉翼を大きく広げる。
宴会場の空気が、一気に熱を帯びた。
「《竜の吐息》!」
口腔の奥から、灼熱の炎が噴き出した。
アーガは両手を地面へ突き立てた。
大量の蔓が床を破り、互いに絡み合いながら巨大な盾を形成する。
炎が蔓の盾へ直撃した。
表面の水分が一瞬で蒸発し、緑色だった蔓は次々に黒く炭化していく。
アーガは燃え崩れる盾を捨て、床を転がって炎の範囲から脱出した。
ケイスも横へ飛んだ。
だが、炎の広がりは想像以上に速かった。
完全には避けきれず、右腕を高温の炎が掠める。
皮膚が焼け、肉の焦げる臭いが漂った。
「ぐっ……!」
ケイスは焼けた腕を押さえながらも、ヴァルガから目を離さなかった。
氷青色の瞳が、翼の動きと鱗の重なりを追い続ける。
「弱点は翼の付け根だ!」
ケイスが叫んだ。
「左側、上から三枚目の鱗の下!」
「古い傷が残っている!」
アーガはすぐに理解した。
床から生えた蔓を足場にして、上空へ跳ぶ。
植物の魔力が右腕へ集まり、指先の手刀が長い木槍のように伸びていく。
狙いは、ヴァルガの左翼の付け根。
指摘された鱗の隙間だった。
ヴァルガは翼を守るため、巨大な爪を振り上げた。
手刀を突き出そうとするアーガへ、掌を叩きつける。
アーガは空中で身体を捻り、爪の直撃を避けた。
その一瞬。
防御のために身体を動かしたことで、ヴァルガの首元へ小さな隙が生まれる。
ケイスは、その好機を逃さなかった。
床を蹴り、一気に距離を詰める。
毒蛇の牙のような短剣が、鱗の隙間へ正確に突き込まれた。
刃が、硬い皮膚を破る。
「グオオオオオッ!」
ヴァルガが苦痛の咆哮を上げた。
竜尾が反射的に振るわれる。
ケイスは避けようとしたが、短剣を引き抜く動作がわずかに遅れた。
太い尾が脇腹へ直撃し、その身体を吹き飛ばす。
ケイスは石柱へ背中から叩きつけられた。
口から大量の血を吐き、床へ崩れ落ちる。
それでも、口元には冷たい笑みを浮かべていた。
ヴァルガの傷口から、幽青色の液体が血とともに流れ出している。
短剣に塗られていた神経毒が、すでに体内へ入り込んでいた。
「貴様……!」
ヴァルガは傷口へ爪を当てた。
しかし、毒が回り始めた左翼は、先ほどよりも動きが鈍くなっている。
アーガは床へ着地し、口元の血を拭った。
先ほど尾に掠められた肩には痛みが残っている。
だが、止まるわけにはいかなかった。
腰帯から赤の三《草》を引き抜く。
代わりに差し込んだのは、赤の五《氷》だった。
腰帯の内部で、四種類の魔力が再び組み替えられる。
緑色の蔓模様が次々と消え、白い霜が全身の装甲へ広がっていく。
「融合変身――」
冷気が宴会場へ溢れ出した。
「《冷凍形態・一一一号》!」
室内の温度が急激に低下する。
食卓に残された料理の表面が凍りつき、床へこぼれた葡萄酒にも薄い氷が張った。
アーガの魔力装甲は、淡い氷青色へ変化していた。
両腕の外側には透明な氷の甲刃が形成され、揃えた指先から鋭い氷柱が伸びている。
ヴァルガの意識は、今も負傷したケイスへ向けられていた。
アーガは床へ掌を触れさせる。
冷気が一気に広がり、ヴァルガの足元から天井へ向かって氷の柱が伸びた。
次の瞬間、アーガの姿が氷柱の陰へ消える。
ヴァルガが振り返ったときには、氷の装甲をまとったアーガが目前へ迫っていた。
右腕を大きく後方へ引く。
五本の指を揃え、細長い氷の手刀を作る。
刺突の魔力が一点へ集中した。
アーガは踏み込みと同時に、手刀をヴァルガの胸へ突き出した。
――ドン!
鈍い衝撃音が、宴会場全体へ響く。
氷の手刀は鱗を完全には貫けなかった。
それでも刺突の衝撃が一点へ集中し、胸部を覆う黒い鱗を大きく陥没させる。
ヴァルガは数歩後退した。
だが、次の瞬間には狰獰な笑みを浮かべる。
巨大な爪が伸び、アーガの喉をつかんだ。
「この程度か?」
爪へ力を込める。
氷の装甲へ、何本もの亀裂が走った。
「戍佐級へ一時的に届いた程度で、校尉級の俺に勝てると思ったか?」
アーガは喉を締めつけられ、声を出せない。
それでも突然、口元を吊り上げた。
「……違う」
掠れた声を漏らす。
ヴァルガが眉を動かした。
「何?」
「この程度では……終わらない」
次の瞬間。
ヴァルガにつかまれていたアーガの身体が、白い霜に覆われた。
皮膚も装甲も急速に透明になり、完全な氷の像へ変わっていく。
ヴァルガが目を見開いた。
氷像は細かな亀裂を生じさせ、その場で粉々に砕け散った。
「偽物だと!?」
氷で作られた分身体だった。
本物のアーガは、すでに天井近くへ移動していた。
先ほど作り出した氷柱を足場にし、梁の上まで駆け上がっていたのだ。
アーガは天井から真下へ飛び降りる。
全身の魔力を、右脚へ集中させる。
足先を覆う氷の甲刃が伸び、巨大な刺突杭へ変わった。
身体を回転させながら、踵と甲刃をヴァルガの頭部へ叩き込む。
――轟音。
氷の杭をまとった蹴りが、ヴァルガの頭部と肩へ直撃した。
ヴァルガの片膝が、床へ沈む。
周囲の石床に、蜘蛛の巣のような亀裂が走った。
アーガは反動を利用して後方へ跳び、ケイスの近くへ着地する。
砕けた氷片が、二人の間へ雨のように降り注いだ。
ヴァルガは、ゆっくりと顔を上げた。
額を覆っていた鱗が数枚砕け、黒い血が片目の横を流れている。
黄金色の瞳に宿る怒りは、先ほどまでとは比べものにならなかった。
「貴様ら……」
低い声とともに、身体から黒い魔力が噴き上がる。
毒によって鈍っていた翼さえ、怒りに呼応するように大きく広がった。
「完全に――」
竜の咆哮が、城主府全体を震わせる。
「俺を怒らせたな」




