第103話 話し合い
夕暮れを迎える頃には、脱出の準備もほとんど終わっていた。
アーガは住居へ戻ると、扉を閉め、窓辺から通りの様子を確認した。
街には今も大勢の人間が行き交っている。
酒場の前では数人の酔漢が怒鳴り合っていたが、通行人たちは見向きもしなかった。
赤骸城では、あの程度の騒ぎなど珍しくもない。
喧嘩や刃傷沙汰は毎日のように起こり、時には路地裏で人が殺される。
死体が運び去られれば、残された血も、やがて新しい泥水に覆い隠されていった。
アーガは窓掛けを下ろし、三年間暮らした部屋を見回した。
決して広くはない。
石壁の至るところに補修の跡があり、炉の周辺は煙で黒く染まっている。
傾いた木製の食卓は、短くなった脚の下へ木片を挟むことで、どうにか水平を保っていた。
初めて入った頃から、住めないほど壊れていたわけではない。
それでも壁の隙間から冷気が入り込み、冬には壁際の水入れへ薄氷が張るほど荒れていた。
その後、アーガが少しずつ金を稼ぎ、リナが一つずつ部屋を整えたことで、ようやく人の住む家らしくなったのだ。
食卓の上には、すでに荷物がまとめられていた。
数着の着替え。
残った金貨。
二袋の保存食と、数本の治療薬。
その隣には、アーガのカードケースが置かれている。
それ以外のものには、ほとんど手をつけていなかった。
鍋も器も、食卓も寝床も、そのまま残されている。
まるで数日だけ外出し、すぐに帰ってくるかのようだった。
リナは寝床のそばへしゃがみ込み、最後に残った服を畳んで布袋へ入れていた。
すでに三度も中身を確認している。
すべて準備できていると分かっているのに、その手は止まらなかった。
袋の紐を結び直したかと思えば、再び中身を取り出して確かめている。
イータは、自分の寝床のそばに座っていた。
炉の近くに敷かれた、二枚の古い毛布と乾いた草で作られた小さな寝床だ。
以前、リナがきちんとした寝台へ替えようとしたことがあった。
しかしイータは、どうしても嫌だと言って聞かなかった。
ここならアーガとリナの声が聞こえるから、夜も怖くない。
そう言って、ずっと同じ場所で眠り続けていた。
アーガは二人の様子をしばらく眺め、食卓の前へ腰を下ろした。
「準備は終わったか?」
「はい。すべて終わっています」
リナはすぐに答えた。
それでも、もう一度布袋へ視線を落とす。
「薬と食料は中に入れました。着替えもありますし、水筒にも水を入れてあります」
イータもうなずいた。
だが、寝床のそばから動こうとはしない。
白く擦り切れた古い毛布を小さな手で撫で、顔を伏せて二度ほど頬を寄せた。
その様子に気づき、アーガが尋ねる。
「ここを離れたくないのか?」
「そういうわけではありません」
イータは顔を上げ、少し考えてから答えた。
「ただ……もう戻ってこられないかもしれないから、最後に見ておきたくて……」
部屋の中をゆっくりと見回す。
炉、食卓、壁際に置かれた木箱。
一つ一つを、記憶へ刻みつけるように眺めた。
もちろん、決して良い家ではなかった。
冬は寒く、夏は蒸し暑い。
近所に住む者たちも荒々しく、夜中には悲鳴が聞こえてくることさえあった。
それでも、イータがここへ来て初めて、自分だけの居場所を手に入れた。
檻の中へ入れられることもない。
眠っている間に、誰かに連れ去られる心配もしなくていい。
二枚の古い毛布の上へ横になれば、翌朝もアーガとリナに会える。
それだけで、この寝床はイータにとって何よりも大切な場所だった。
「私、ここが結構好きだったんです」
イータは毛布を撫でながら、少し恥ずかしそうに言った。
「初めて来たときは、すごく壊れていると思いましたけど……」
「アーガ様は家を買うときに、騙されたんじゃないかとも思いました」
「でも、長く暮らしているうちに慣れました」
アーガは小さく笑った。
「俺も、初めて見たときは同じことを思った」
腕を食卓へ置き、改めて部屋を見回す。
自分がこの家で三年間も暮らすことになるとは、まったく考えていなかった。
赤骸城の住民の多くは、ほかの土地から逃げてきた犯罪者や傭兵、ならず者だった。
故郷を失った難民や、奴隷として売られてきた者も少なくない。
街には数多くの規則が存在する。
しかし、実際に守られているのは、力を持つ者だけだった。
城主府へ逆らわない限り、強盗や殺人が起きても、まともに取り締まられることはほとんどない。
アーガも最初は、身体が回復するまで一時的に滞在するつもりだった。
すぐに出ていくと考えていたため、家を修理する気さえなかった。
だが、一日が十日になった。
十日が数か月へ変わった。
やがて血髑髏闘技場へ出場し、鉱脈へ向かい、クロードと取引を交わした。
気づけば、三年もの月日が流れていた。
「最初は、こんなに長くいるとは思わなかった」
アーガは静かに言った。
「この街は、人が暮らすのに向いていない」
「外を歩いている連中も、善人とは言えない奴ばかりだ」
「それでも俺たちは、ここで三年間暮らした」
「この街にも、良い人はいます」
リナが小さな声で言った。
「確かにいる」
アーガはうなずいた。
「だが、もうここへ残ることはできない」
部屋の中が、しばらく静まり返った。
リナは布袋を抱えたまま、寝床の端へ腰を下ろす。
視線がアーガの顔から窓へ移った。
窓掛けによって通りは見えず、わずかに暗赤色の夕日だけが室内へ差し込んでいる。
リナは、初めてこの家へ来た日の自分を思い出していた。
檻から出されたばかりで、身体は骨が浮き出るほど痩せていた。
傷口も、まだ完全には塞がっていなかった。
寝床へ座ることも、部屋にあるものへ触れることもできなかった。
アーガに食事を勧められても、部屋の隅へ身を縮め、彼の表情を窺いながら少しずつ口へ運んでいた。
夜になっても、目を閉じることが怖かった。
眠りから覚めたとき、再び首や手足へ鎖がつけられているのではないかと思っていた。
その後、アーガは服を用意し、傷を治すための薬を買ってくれた。
悪夢にうなされた夜には、そばへ寄ることも許してくれた。
屋根から雨が漏れ、炉の火もしばしば消えた。
それでもリナにとって、この壊れかけた家は、初めて本当の生活を送った場所だった。
自分はずっと、ここで暮らすのだと思っていた。
赤骸城がどれほど危険でも、毎日アーガの帰りを待ち、夕食を作り、彼から離れすぎない場所で眠ることができれば、それで十分だった。
だが、今日を境にすべてが変わる。
これから起こるかもしれない出来事を想像し、リナの指へゆっくりと力が入った。
アーガが長い時間をかけて準備してきたことは知っている。
この街へ残れないことも分かっていた。
それでも、計画が失敗したときのことを考えてしまう。
逃げ切れなかったら。
自分とイータを守るために、アーガだけが捕まったら。
家も、服も捨てられる。
再び満足に食べられない生活へ戻ることにも耐えられる。
リナが本当に恐れているのは、この家を失うことではなかった。
ここを出たあと、二度とアーガに会えなくなることだった。
リナは立ち上がり、アーガのそばへ歩み寄った。
そっと彼の袖をつかむ。
「アーガ様……」
「私たちは、本当にこの街から出られるのでしょうか?」
アーガはすぐには答えなかった。
聞こえなかったのだと思い、リナはさらに声を小さくする。
「もし失敗したら……」
「私はもう、アーガ様に会えなくなるんですか?」
その声は、わずかに震えていた。
涙は流さなかった。
ただ身体を寄せ、額をアーガの肩へつける。
三年前と比べれば、ずっと自然にできるようになった仕草だった。
それでも、袖をつかむ指には強い力が入っている。
手を離した瞬間、アーガが消えてしまうと恐れているかのようだった。
その様子を見たイータも、寝床から立ち上がった。
最初は二人の隣へ立っているだけだったが、やがてアーガの反対側へ身体を押し込み、頭で腕を軽く擦る。
「私も……少し怖いです」
「外にはたくさんの兵士がいますし、城門もきっと厳しく守られています」
少し考えたあと、真剣な表情で言った。
「私が先に外へ出て、兵士たちを引きつけましょうか?」
「必要ない」
アーガはイータの頭へ手を置いた。
そのまま狐耳の間を撫で、もう片方の手でリナの髪にも触れる。
「俺は、お前たちを死なせるために計画へ加えたわけじゃない」
リナは顔を上げなかった。
「でも……」
「でも、も何もない」
アーガの口調は強くなかった。
それでも、二人を黙らせるには十分だった。
「俺が、この日のためにどれだけ準備してきたと思っている」
「心配するな」
一度言葉を切り、食卓の上に置かれたカードケースへ視線を向ける。
「この街を出たあとも、安全とは限らない」
「追手が来るかもしれない」
「長い距離を歩き続けなければならないかもしれないし、しばらく住める場所が見つからない可能性もある」
「それでも、ここを出たあとは――」
リナとイータを見た。
「俺たち三人で、一緒に進む」
リナがようやく顔を上げた。
目元が、わずかに赤くなっている。
「本当に、私を置いていきませんか?」
「置いていかない」
「わ、私もですよね?」
イータが慌てて尋ねた。
アーガは横目で小狐を見た。
「もう一度そんなことを聞いたら、お前の寝床を燃やすぞ」
イータはすぐに自分の尻尾を抱え込んだ。
「それは困ります……」
リナは思わず小さく笑った。
胸の奥へ積もっていた恐怖も、少しだけ薄れていく。
アーガは再び窓へ目を向けた。
外はすでに完全に暗くなり、遠くの通りでは松明が灯され始めている。
「そろそろ時間だ」
アーガは立ち上がり、カードケースを腰へ固定した。
「最後にもう一度、荷物を確認しろ」
「持ちすぎるな。走るときに邪魔になるものは置いていく」
リナは布袋を持ち上げた。
そして、もう一度寝床の方へ振り返る。
枕元には、三年間使い続けた古い木製の櫛が置かれていた。
歯は二本折れ、表面にも細かな傷がついている。
リナは少し迷ったあと、櫛を手に取り、服の内側にあるポケットへ入れた。
イータも自分の寝床へ戻った。
二枚の毛布を丸ごと持っていこうと何度か試したが、どうしても大きすぎる。
最後には毛布の端から小さな布切れを一枚だけちぎった。
丁寧に畳み、服の内側へしまう。
アーガは二人を急かさなかった。
自分が持っていくものは少ない。
一組のカードと、一つの袋。
それだけだった。
この家も、置いていく食卓や椅子も、三年間暮らした痕跡も、すべてここへ残していく。
いつか戻ってきて、もう一度見ることができるかもしれない。
あるいは、これが最後になるのかもしれなかった。
屋外は完全な闇に包まれていた。
三人は扉の前へ並ぶ。
アーガが右手を差し出すと、リナは迷うことなく自分の手を重ねた。
イータも二人の手を見つめたあと、一番上へ小さな手を載せる。
「全員、計画どおりに動け」
「はい」
リナが真剣な表情でうなずいた。
「分かりました」
イータも続けて答える。
アーガは、重なった二人の手を強く握った。
「俺たちは、この街を出る」
誰も、失敗したときのことを口にはしなかった。
アーガが扉を開ける。
冷たい夜風が室内へ流れ込み、炉に残っていた炎を大きく揺らした。
やがて火は弱まり、赤い熾火だけが残る。
リナとイータはアーガのあとへ続いた。
敷居を越える直前、二人は最後に一度だけ部屋を振り返る。
そして、何も言わず前を向いた。
三人はともに、赤骸城の夜へ足を踏み出した。




