EP 9
絶対過保護宣言。公爵様は夜勤(徹夜)を許さない
夜のポポロ村。
静寂に包まれた村長宅の一室で、私はランプの微かな明かりを頼りに、羊皮紙へカリカリと羽ペンを走らせていた。
「ええと、トマスお爺ちゃんの水分摂取量は今日で2リットルクリア。熱は完全に平熱まで下がったわね。明日は消化の良いお粥から再開して……」
村人たちの経過観察記録(看護記録)の作成だ。
患者のバイタルサインや食事量、排泄の有無などを記録しておくことは、急変を防ぎ、確実な回復を促すための基本中の基本である。
『ピロリン♪』
スマホが小さく鳴る。日中の指導と、夜間の自主的なカルテ作成が評価されたのか、また少し善行ポイントが加算されたようだ。
「ふぁぁ……」
小さく欠伸が出た。時刻は深夜を回っているだろう。
前世の限界ブラック病棟では、深夜2時はまだまだ『戦いの最中』だった。ナースコールがひっきりなしに鳴り、患者の急変に走り回りながら、合間を縫って電子カルテを打ち込む。
『休むな。手が空いてるなら次の仕事を探せ』
師長の冷たい声が、今も耳の奥にこびりついている。だからだろうか。こうして夜中に起きていると、なんだかソワソワして、何か仕事をしなければと焦燥感に駆られてしまうのだ。
「もうちょっとだけ、見回りをしておこうかな……」
椅子から立ち上がろうとした、その時だった。
「――却下だ。君の業務は、すでに終了している」
静かで、しかし絶対的な威厳を持った声が室内に響いた。
ハッとして振り返ると、ドアの枠に寄りかかるようにして、レオン・ド・ルナミス公爵が立っていた。漆黒の瞳が、ランプの光を反射して静かに私を見据えている。
「れ、レオン公爵様!? どうしてここに……」
「コハル嬢。君の心拍数と呼吸数から推測するに、自律神経が過覚醒状態にある。交感神経が優位になりすぎている証拠だ」
レオン公爵はズカズカと部屋に入ってくると、私の手から羽ペンを容赦なく奪い取った。
そして、私の細い手首をその大きな手でそっと握り、脈を測り始めた。
「……やはり。脈が速い。なぜ休まない? 村の熱病はすでに終息したはずだが」
「それは……記録をつけておかないと、急変に気づけないかもしれないし。以前の癖というか、夜中に一度は見回りしないと落ち着かなくて……」
私が言い訳がましく口ごもると、レオン公爵はふっと美しく、しかし底知れぬ凄みを孕んだ笑みを浮かべた。
「君は、己の価値を全く理解していないようだな」
「え?」
「君のその頭脳と知識は、魔法という野蛮な奇跡に依存するこの帝国の医療を、根底から覆す至宝だ。国家予算10年分……いや、それ以上の価値がある」
レオン公爵は私の手首を引いた。あっという間に、私はふかふかのベッドの端に座らされていた。
「そのような国宝を、睡眠不足で摩耗させるなど、帝国軍最高技術顧問である私が断じて許さん。君のバイタルを正常値に戻すことが、現在の帝国の最重要課題だ。強制睡眠を命じる」
「きょ、強制睡眠って……私はまだ、起きて確認したいことが……!」
私が抗議しようと立ち上がろうとした瞬間、レオン公爵は私をベッドに押し戻し、あろうことか、自分も革靴を脱いでベッドの上に上がってきた。
そして、私を横たわらせると、大真面目な顔で私のすぐ隣に添い寝するように身を横たえたのだ。
「えっ!? こ、公爵様!?」
「落ち着け。デカルト的論理に基づき、極めて合理的なアプローチをとっているだけだ」
「ご、合理的……!?」
至近距離。レオン公爵の端正な顔がすぐ目の前にある。彼から漂う、清潔な石鹸と微かな香草の香りが鼻腔をくすぐった。
「人間の入眠には、安定した心拍音のリズムが効果的だ。私が隣に添い寝し、規則正しい呼吸と鼓動を感じさせることで、君の過覚醒状態を強制的に鎮静化させる。……さあ、目を閉じろ」
ポンポン、と。
一定のリズムで、彼の手が私の背中を優しく叩く。
それはまるで、小さな子供を寝かしつけるかのような、極上の過保護だった。
「(こんなの、心臓が爆発しそうなんだけど……!)」
顔がカッと熱くなる。だが、不思議なことに、彼の大きくて温かい手に背中を叩かれていると、張り詰めていた神経が嘘のように解けていくのを感じた。
前世では、「休みたい」と懇願しても「甘ったれるな」と鞭打たれた。
それなのに、今世では、帝国の最高権力者が「休め」と強要し、私が安眠できるようにと大真面目な顔で添い寝までしてくれている。
搾取されるだけの地獄から、絶対的な庇護の温もりへ。
「……公爵様は、過保護すぎます」
私が小さく呟くと、彼は漆黒の瞳を細めて微笑んだ。
「君が己を大切にしない分、私が何倍でも過保護になろう。君のすべては、私が守る」
その甘く、重たい言葉に胸が高鳴った、その時。
「むにゃ……? おっ、コハル、もう寝るんか?」
部屋の隅で丸まって寝ていたマシロが、目を擦りながらウサギ耳を揺らして起きてきた。
そして、ベッドに横たわる私と公爵を見るなり、パァッと顔を輝かせた。
「なんや、添い寝か! ワテも混ぜろや!」
「えっ、マシロ!?」
どすん! と効果音がつきそうな勢いで、マシロが私の背中側に潜り込んできた。
「ふふっ、コハルあったかいなぁ。ワテが後ろからしっかり護衛したるから、安心して寝ぇや」
「マシロ……ありがとう」
正面には私を過保護に溺愛する天才公爵。背中には最強の武力と明るさを持つウサギ耳の親友。
二人からの、全く違う方向性の温かい愛情に挟まれて、私はどうしようもないほどの幸福感に包まれた。
「……ふふっ」
自然と笑みがこぼれ、私のまぶたはゆっくりと重く落ちていった。
ナースコールは、もう聞こえない。
私は深い、極上の眠りの中へと落ちていった。
――同刻。ルナミス帝国、最前線からの撤退路。
「ぜ、ぜぇっ……はぁっ……!」
泥濘の中を這いつくばるようにして進む男の姿があった。
かつては純白だったはずの鎧は泥と血で汚れ、見る影もない。エリート魔闘騎士、ゼロスである。
「なぜだ……! なぜ、こんなことになった……ッ!」
彼の後ろには、数十名いたはずの部下の姿はない。
劣悪な食事『3型』による胃腸障害と、不衛生な環境での傷の放置。破傷風と感染症が部隊を瞬く間に食い尽くし、ただの一度も魔族と剣を交えることなく、部隊は壊滅(自滅)した。
総司令部からは「衛生管理の怠慢による部隊崩壊」という前代未聞の失態として、即時撤退と帝都への帰還命令が下された。
「俺は悪くない! 気合いが足りなかった部下どもが悪いのだ! それに、魔法使いが役立たずだったせいだ!」
ゼロスは泥まみれになりながら、己の責任を他人に押し付けるように虚空に向かって喚き散らす。
彼の脳裏に、かつて自分が「無能」と見下し、追放した黒髪の令嬢の姿が浮かんだ。
「そうだ、コハルだ……! あいつさえ、あいつのせいだ! いや、あいつは回復魔法が使えない無能だ、関係ない! 俺は完璧なのだから!」
ゼロスは往生際悪く叫びながら、這うようにして帝都への道を急いだ。
彼は全く理解していなかった。コハルが持つ『現代医療と衛生の知識』がどれほど偉大であったかを。そして、彼女を失ったことが、自分の破滅の引き金であったことを。
敗残兵として無様に帝都へ戻る彼を待ち受けているのは、栄光などではなく、決定的な社会的な死である。
そして翌朝。
極上の睡眠からスッキリと目覚めた私の前で、レオン公爵は紅茶のカップを傾けながら、極めて平然とした口調で告げた。
「コハル嬢。私と共に、帝都へ来てくれ」
「帝都へ、ですか?」
「ああ。君のその素晴らしい価値を、正しく世界に知らしめよう。そして、君を不当に貶めた愚か者どもに、己の無知を骨の髄まで思い知らせる時だ」
公爵の漆黒の瞳の奥で、冷徹なデカルトの論理が、容赦のない『合法ざまぁ』の牙を剥いていた。
私の絶対有給休暇は、マシロと公爵様という最強のスポンサーを得て、いよいよカタルシスの頂点へと向かおうとしていた。
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