EP 10
崩壊した魔闘騎士と、公に選ばれる聖女
パカラッ、パカラッ。
ルナミス帝都の滑らかな石畳を、公爵家の紋章が刻まれた豪奢な馬車が進んでいく。
「うおおおっ! 帝都や! 建物がデカい! 人がいっぱいおるで!」
馬車の窓にべったりと顔をくっつけ、ウサギ耳をぴょこぴょこと動かしてはしゃいでいるのはマシロだ。彼女の手には、私が【通販】で取り寄せた『クレープ(チョコバナナ味)』が握られている。
「マシロ、窓から身を乗り出しすぎないでね。危ないから」
「おん! せやけど、このクレープっちゅう食べ物、片手で歩きながらでも食えるなんて大発明やな! コハルの出すもんは全部最高や!」
口の周りにクリームをつけながら無邪気に笑う親友の姿に、私はふわりと微笑んだ。
私のエプロンのポケットでは、今日も『ピロリン♪』と心地よい電子音が鳴っている。ポポロ村の村人たちが、私が教えた衛生管理を続けながら、日々私に感謝を捧げてくれている証拠だ。
現在の善行ポイントは5000ptを突破。マグローザ漁船の影は完全に消え去り、私はポイント長者として優雅なスローライフ(と、時々の人助け)を満喫できる状態にあった。
「……コハル嬢。緊張しているのか?」
向かいの席に座るレオン公爵が、漆黒の瞳を細めて私を見た。
彼が用意してくれたのは、以前実家の侍女に投げつけられた古びたドレスとは雲泥の差の、最高級の絹で仕立てられたミッドナイトブルーのドレスだ。公爵の瞳の色と同じ、深い夜空のような色が、私の黒髪と驚くほどよく調和していた。
「あ……いえ、少しだけ。あんな形で追い出された場所に、こんなに早く戻ってくることになるとは思っていなかったので」
私が正直に答えると、レオン公爵は長い足を組み替え、極めて理路整然とした、しかし酷く甘い声で告げた。
「君が追放されたのではない。この帝都が、君という至宝の価値を理解できない愚か者の巣窟だっただけだ。だが案ずるな。本日の夜会で、私が彼らの狂った認識を、論理的かつ徹底的に是正してやる」
「ぜ、是正って……。私はただ、手を洗うように教えただけですよ?」
「謙遜は不要だ。魔法という非論理的な力に依存せず、物理的に病魔を退ける『衛生』という概念。君がポポロ村で起こした奇跡は、すでに皇帝陛下のお耳にも入っている」
レオン公爵は私の隣に移動してくると、手袋越しに私の手をそっと握った。
「君の心拍数を上げるような輩がいれば、私が全て排除する。君はただ、私の隣で微笑んでいればいい」
前世で、失敗の責任を押し付けられ、カンファレンスで大勢の医師から吊るし上げられた時のことを思い出す。
あの時、私を庇ってくれる人間は誰もいなかった。震える足で立ち尽くし、ただ謝り続けるしかなかった。
『お前はプロ失格だ』という冷たい言葉の刃から、一人で身を守らなければならなかった。
でも今は、違う。
私の技術を真っ当に評価し、国家レベルの力で私を全力で守り抜こうとしてくれる人がいる。
温かくて、大きくて、絶対的な安心感。
「……はい。ありがとうございます、レオン様」
私が自然と微笑み返すと、天才公爵はわずかに耳まで赤くして、咳払いを一つした。
帝都、皇城の夜会。
星屑のようなシャンデリアが輝く大広間は、数日前に私がゼロスから婚約破棄を突きつけられ、実家から追放された、まさに因縁の場所だった。
重厚な扉が開く。
「レオン・ド・ルナミス公爵閣下、ならびに――コハル・ルナミス嬢、ご入場!」
給仕の甲高い声が響き渡った瞬間、華やかな音楽がピタリと止まり、数百人の貴族たちの視線が一斉に私たちに突き刺さった。
『なっ……!? ルナミス男爵家の無能令嬢!?』
『追放されたはずでは……! なぜ、あの冷徹で知られるレオン公爵閣下のエスコートを!?』
『見なさい、あのドレス……! 公爵家が国賓を迎える際にのみ使用する、幻の夜光絹よ!』
ざわめきが、波のように広がる。
数日前、私を「魔力もない役立たず」と嘲笑っていた令嬢や貴族たちが、今は信じられないものを見るような目で、私とレオン様を見つめていた。
私は少しだけ背筋を伸ばし、レオン様にエスコートされながら、優雅にフロアの中心へと歩みを進めた。
復讐してやろうなんて気は微塵もない。ただ、私は今、とても幸せで、とても満たされている。その事実だけで、彼らを見返すには十分すぎるほどだった。
「皆様、静粛に」
レオン様が通るよく響く声で一言発すると、広間は水を打ったように静まり返った。
帝国軍最高技術顧問であり、皇帝の右腕。誰も彼には逆らえない。
「数日前、この場所で、極めて非論理的で愚かな茶番が繰り広げられたと聞く。魔闘騎士のゼロスとやらが、コハル嬢を『魔法が使えぬ無能』と罵り、追放したそうだな」
レオン様の言葉に、私の実の父親である男爵が、顔を青ざめさせて群衆の中から進み出た。
「こ、公爵閣下……! その娘は我が家の恥晒しでして……」
「恥晒しなのは貴公らの知能の方だ、ルナミス男爵」
レオン様は氷のような冷たい視線で男爵を一蹴した。
「コハル嬢は先日、辺境のポポロ村で発生した大規模な熱病と負傷兵の危機を、魔法を一切使わずに、彼女独自の『衛生・予防医学』の知識のみで完全に鎮圧した。帝国軍の魔法部隊ですら匙を投げた感染症を、だ」
『なっ……!?』
『魔法を使わずに、病を治したと!?』
「彼女の知識は、軍の生存率を飛躍的に高め、帝国の医療を百年は進化させる。我が公爵家は、コハル嬢を『帝国の至宝(国宝)』として正式に保護し、その研究と活動を全面的に支援する!」
レオン様が高らかに宣言すると、広間は衝撃に包まれ、やがて割れんばかりの称賛の拍手が巻き起こった。
手のひらを返したように、貴族たちが私に敬意の眼差しを向けてくる。私を捨てた実家の父親は、あまりの事態に腰を抜かし、床にへたり込んでいた。
誰も蹴落としていない。
私はただ、見返りを求めずに目の前の人を助けただけだ。
それだけで、前世では決して得られなかった『正当な評価と居場所』が、私を確固たる幸福のステージへと押し上げてくれたのだ。
「コハル、やったな!」
広間の隅のビュッフェコーナーから、可愛らしいドレスを着飾ったマシロが、両手いっぱいにローストビーフを抱えながら私に向かってサムズアップ(親指を立てる)してくれた。
私もこっそりと、彼女に向かって親指を立ててみせる。
「君の心拍数は……完璧だな。とても美しい笑顔だ」
レオン様が私を引き寄せ、誰にも聞こえない声で甘く囁いた。
「夜勤に縛り付けられていた前世より、ずっといいだろう?」
「ええ。最高の有給休暇ですわ、公爵様」
――同刻。
華やかな夜会の会場から遠く離れた、帝国軍総司令部の裏口。
ザーザーと冷たい雨が降りしきる中、泥と汚物にまみれた一人の男が、這いつくばるようにして門番の前に現れた。
「お、俺は……エリート魔闘騎士の、ゼロスだ……! 通せ……俺の、部隊は……」
かつて夜会で輝くような(整形の)白い歯を見せて笑っていた面影は、もはや欠片もなかった。
頬はこけ、目は落ち窪み、全身から酷い腐敗臭と吐瀉物の匂いを漂わせている。
超圧縮レーション『3型』と不衛生な野営によって、彼の部隊は破傷風と感染症のパンデミックを起こし、戦わずして全滅。
彼自身も、自慢の闘気で辛うじて命は繋いでいるものの、疲労と細菌によって限界を迎えていた。
「なんだこの乞食は! ゼロス隊長だと!? 馬鹿な、あの方は最前線に……ひぃっ、匂いが酷いぞ!」
「触るな、病気がうつる! 早く隔離施設へ運べ!」
駆けつけた衛生兵たちに乱暴に取り押さえられながら、ゼロスは錯乱したように叫んだ。
「俺は悪くない! 部下たちの気合いが足りなかったのだ! それに、魔法使いどもが無能だったから……!」
その時、雨よけのテントの下で休憩していた古参の将校たちの会話が、ゼロスの耳に飛び込んできた。
『聞いたか? レオン公爵閣下が、ある令嬢を国賓としてお迎えになったそうだ』
『ああ、ポポロ村で発生した感染症を、魔法を使わず、透明な水と純白の布だけで完全に治癒させたという、あの奇跡の聖女だろう?』
『なんでも、彼女の教える「衛生管理」さえ守れば、野戦での兵士の生存率が飛躍的に上がるらしい。軍の上層部も彼女の知識を喉から手が出るほど欲しがっているそうだ』
『その聖女様のお名前は……たしか、コハル・ルナミス嬢だったか』
「……え?」
ゼロスの動きが、ピタリと止まった。
泥まみれの顔に、信じられないという驚愕の色が張り付く。
コハル。
回復魔法が使えない、無能。
足手まといだからと、自分が一番の高みから見下して、追放した女。
「コハルが……? 聖女……? 軍を、感染症から、救う……?」
自分の部隊を壊滅させた『目に見えない病魔』を。
魔法ではなく、彼女の持つ知識だけで、容易く退けたというのか。
もし、彼女を追放せず、部隊に同行させていたなら。いや、せめて彼女の言うことに少しでも耳を傾けていたなら。
「あ、ああ……ああああっ!!」
後悔と絶望が、冷たい雨と共にゼロスの全身を貫いた。
自分が手放したものが、どれほど途方もない価値を持っていたのか。
自分を破滅させたのは、不運でも部下のせいでもない。他でもない、自分自身の『傲慢さと無知』だったのだ。
「コハル……! コハルを呼んでくれ! 俺には彼女が必要だ!!」
泥水に顔を擦り付けながら、魔闘騎士は惨めに泣き叫んだ。
しかし、その声が華やかな夜会の中心で公爵に溺愛される彼女に届くことは、二度とない。
彼らに残されたのは、決定的な『トリアージ:黒』の宣告だけだった。
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