EP 11
「申し訳ありません。あなたのトリアージは『黒』です」
帝都の煌びやかな夜会から一夜明けた、翌日の午後。
私はレオン公爵の視察に同行する形で、帝国軍の総司令部に併設された『中央軍事病院』を訪れていた。
「使用済みの包帯は、必ず沸騰したお湯で煮沸消毒してから再利用してください。それから、傷口に触れる前には、この石鹸で念入りに手洗いを。これは絶対のルールです」
私が野戦病院のテントを模した病棟で指導を行うと、恰幅の良い軍医たちが、食い入るように私の言葉を羊皮紙にメモしていた。
「な、なるほど……! 目に見えぬ病魔(細菌)を、熱と泡で物理的に死滅させるのですね!」
「素晴らしい! これで、魔力切れによる兵士の感染死を防ぐことができる! さすがは公爵閣下が見出した『奇跡の聖女』様だ!」
白髪の軍医長までもが、私に向かって深々と頭を下げる。
前世の限界ブラック病棟では、私がどれほどエビデンス(医学的根拠)に基づいた衛生管理を提案しても、「ナースの分際で口出しするな」「今までこのやり方でやってきたんだ」と、プライドの高い医師たちに一蹴されるのがオチだった。
それが今世ではどうだろう。私の持つ現代の看護知識が、国家のトップエリートたちから『最先端の奇跡の医療』として大絶賛され、即座に現場に導入されていくのだ。
「コハル嬢の言葉は、我が帝国軍の新しい軍規だ。これに背き、不衛生な環境で兵士を死なせた者は、私が軍法会議にかける」
私の斜め後ろに立つレオン公爵が、氷のように冷たく、しかし絶対的な権力を孕んだ声で告げる。
軍医たちは「ははっ!」と直立不動で敬礼した。
前世では誰も守ってくれず、責任ばかりを押し付けられた。
今世では、天才公爵様が私の言葉に絶対の権威を持たせ、最高の働きやすさ(ホワイト環境)を整えてくれている。搾取ゼロ、やりがいと感謝は無限大。これこそが、真の有給休暇だ。
その時だった。
「ど、退けぇっ! 俺を通せ!! コハルに、聖女に会わせろぉっ!!」
病棟の入り口で、怒声と揉み合うような物音が響いた。
憲兵たちを振り切って、一人の男が病棟の床に転がり込んでくる。
「……ッ、コハル!! コハルゥゥゥッ!!」
泥と汚物にまみれ、酷い悪臭を放つその男。
落ち窪んだ目に、ボロボロになった甲冑。かつて自慢にしていた整形の白い歯は泥で薄汚れ、ガチガチと無様に震えている。
それは数日前、夜会で私を「魔法が使えない無能」と高笑いしながら追放した元婚約者、エリート魔闘騎士のゼロスだった。
「ぜ、ゼロス様……?」
あまりの変わり果てた姿に、私は目を丸くした。
「おおっ、コハル! 探したぞ!」
ゼロスは私の姿を認めるなり、這いつくばるようにしてすがり寄ってきた。
「お、俺の部隊が……! あの『3型』のせいで腹を下し、泥の中で傷が化膿して、皆動けなくなってしまった! 誰も俺の言うことを聞かない! このままでは俺は、戦う前に部隊を全滅させた無能として裁かれてしまう!」
「……はあ」
「頼む、お前は聖女なのだろう!? お前のその『衛生』とやらで、俺の部下たちを治してくれ! そして、俺の傷も! お前がいれば、俺はまた英雄になれる! 婚約破棄は取り消してやるから、早く俺を助けろ!!」
自分の不手際と傲慢さで部下を危機に晒しておきながら、今さら「助けろ」「婚約破棄を取り消してやる」と上から目線で喚き散らすゼロス。
前世でも、こういうモンスターペイシェント(理不尽な患者)はよくいた。
自分の不摂生で体を壊したくせに、医療従事者に「なんとかしろ! 金を払ってるんだぞ!」と怒鳴り散らす人たち。
私は、一切の感情を排した、極めて冷徹な『プロのナースの目』でゼロスを見下ろした。
彼の腕は、不衛生な布で縛られていたせいで赤黒く腫れ上がり、すでに細胞の壊死が始まっているのが見て取れた。部下たちの状態は、推して知るべしだろう。
「……私の知識は魔法ではありません。一度壊死した細胞を元に戻すことも、失われた信頼を蘇らせることもできません」
「な、なんだと……!? お前は俺の婚約者だろうが! 俺を助ける義務があるはずだ!」
叫びながら、ゼロスが泥だらけの手で私のドレスの裾を掴もうと腕を伸ばした、その瞬間。
「気安くコハルに触るなや、この泥ボウキが!!」
ドゴォォォンッ!!
弾丸のような速度で横から飛び出してきたマシロの蹴りが、ゼロスの脇腹にクリーンヒットした。
「ごぶぁっ!?」
カエルが潰れたような悲鳴を上げ、ゼロスは病棟の壁際までボールのように吹っ飛んでいき、無様に壁に激突してずり落ちた。
「マシロ、ナイスキック。でも病院内だから少し静かにね」
「おん! せやけど、こいつコハルを捨てたアホやろ? 腹立ってしゃーないわ!」
ウサギ耳を逆立てて威嚇するマシロの頭を、私は「ありがとう」と撫でて落ち着かせる。
壁際でうずくまるゼロスに向かって、私は静かに、しかしはっきりとした声で告げた。
「ゼロス様。私とあなたの婚約は、すでにあなたが公衆の面前で破棄しました。私の『退職手続き』は完了しています。私はもう、あなたの専属でも、あなたの所有物でもありません」
「そ、そんな……! 頼む、俺を見捨てないでくれ! お前は優しい女だったはずだ! 聖女なら、俺を救うのが仕事だろう!?」
見苦しく命乞いをする元婚約者。
私は静かに首を横に振った。
「申し訳ありません。あなたのトリアージは『黒』です」
「黒……? な、なんだそれは!?」
「トリアージにおける黒は、『救命不可能』、あるいは『対応範囲外』を意味します」
私は淡々と、事実だけを述べる。
「不衛生を放置し、部下を見殺しにしたあなたのキャリアはすでに手遅れです。そして何より、あなたという理不尽なモンスターとの関わりは、私の業務時間外です」
見下すわけでも、憎むわけでもない。
ただ、医療従事者が「これ以上の蘇生措置は無意味である」と宣告する時と同じ、静かで揺るぎない事実の通告だった。
私が彼を見切ったと同時に、それまで黙って事態を見据えていたレオン公爵が、静かに一歩前に出た。
「……聞いたな、憲兵。コハル嬢の診断は下った。あの男の社会的生命は、すでに『黒(死亡)』だ」
「はっ!」
レオン公爵の合図とともに、待機していた重武装の憲兵たちがゼロスを取り囲み、その両腕を容赦なく拘束した。
「は、離せ! 俺は魔闘騎士だぞ! エリートだぞ!」
「ゼロス元部隊長。貴様には、劣悪な糧食の強要、不衛生環境の放置による部隊の崩壊、ならびに公爵家保護下の聖女に対する暴行未遂の容疑がかかっている。軍法会議にて、極刑を含む厳正なる裁きを受けてもらう」
「い、いやだ……! 嘘だろ、コハル! 助けてくれ、コハルゥゥゥッ!!」
泣き喚き、鼻水を垂らしながら引きずられていくゼロスの姿が、やがて病棟の扉の向こうへと消えていく。
彼が勝手に落ちぶれ、自滅していく様を見ても、私の心には一切の「ざまぁみろ」という黒い感情は湧かなかった。
ただ、「これでやっと、あのブラックな関係から完全に縁が切れた」という、深い安堵の息が漏れただけだ。
「……コハル嬢」
不意に、レオン公爵が私の手を取り、泥の跳ねた私のドレスの裾を気にすることもなく、自らの純白のハンカチで私の指先を優しく拭い始めた。
「あ、レオン様、汚れてしまいます……!」
「構わん。君の清らかな手に、あの愚か者の放つ悪臭が少しでも触れたかと思うと、私の自律神経が乱れそうになる。念入りに消毒せねばな」
極めて大真面目な顔で、しかしどこか熱を帯びた漆黒の瞳で私の指先を見つめるレオン公爵。
彼の手の温もりが、冷たかった私の指先をじんわりと温めていく。
「さあ、帰ろう、コハル。これ以上の残業は禁止だ。邸宅に戻り、マシロと共に甘い菓子でも食べて、バイタルを回復させるんだ。君の笑顔を見ることが、今の私にとって最大の特効薬なのだから」
「……ふふっ、はい。帰りましょう、レオン様」
私は、私を心から大切にしてくれる天才公爵様のエスコートを受けながら、明るい光の射す外の世界へと歩き出した。
過去のしがらみは、もう何一つない。
私の絶対有給休暇は、ここからさらに甘く、穏やかに、幸福の絶頂へと向かっていくのだった。
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