EP 12
冷徹な論理と法による、完璧な「合法ざまぁ」
甘く、香ばしいバターの香りが、公爵邸の豪奢なサロンに漂っていた。
「うおおおっ! なんやこれ、雲みたいにふかふかや! この琥珀色のとろとろしたシロップ、悪魔的な甘さやで!」
「ふふっ、美味しいでしょ。これが『パンケーキ』よ、マシロ」
目の前のテーブルには、私が【通販】アプリの食料品カテゴリからポイントを使って取り寄せた、現代日本のファミレス『ルナキン』の特製パンケーキが並んでいた。
3段に重ねられた分厚い生地に、たっぷりのホイップクリームとメープルシロップ。前世の限界ブラック病棟で、過労死する直前の私が「最後に食べたい」と切望していた、あのパンケーキだ。
ナイフを入れると、湯気と共に卵とミルクの優しい香りが広がる。
一口大に切って口に運ぶと、ふわふわの食感と、脳髄を痺れさせるような暴力的な甘さが口いっぱいに広がった。
「……っ、おいし……」
ホロリと、自然に涙がこぼれ落ちそうになる。
前世の休日といえば、夜勤の疲労で泥のように眠り、起きたらもう次のシフトが迫っているという絶望感の中で、コンビニの栄養ゼリーを啜るだけだった。
ゆっくりと座って、美味しいものを「美味しい」と感じながら、大好きな親友と笑い合って食べる。
そんな当たり前の幸福が、今の私には手の届くところにあるのだ。
私がパンケーキの味に感動していると、サロンの重厚な扉が静かに開いた。
「二人とも、至福のバイタルサインだな。何よりだ」
入ってきたのは、漆黒の軍服を隙なく着こなしたレオン公爵だった。
軍の総司令部へ出向いていたはずの彼は、少しだけ疲労の色を滲ませていたが、私とマシロの姿を見るなり、ふっと目元を和らげた。
「レオン様、お疲れ様です。お仕事、終わったんですか?」
「ああ。帝国の癌細胞を一つ、法と論理のメスで完全に切除してきたところだ」
レオン公爵は私の向かいのソファに腰を下ろし、従者が淹れた紅茶を一口飲んだ。
「ゼロス元魔闘騎士の、軍法会議が終わった」
その名を聞いて、私がパンケーキを運ぶ手を止めると、彼は極めて平然とした、氷のように冷徹な声で事の顛末を語り始めた。
「あの愚か者は、法廷でも己の非を認めようとしなかった。『部下の気合いが足りなかった』『魔法使いが無能だった』と喚き散らしていたよ」
「……」
「だが、いかなる詭弁も、客観的なデータとデカルト的論理の前では無力だ。私は、君が病院で提示した『エビデンス(医学的根拠)』を元に、彼が強要した『3型』がもたらす胃腸障害の発生率、不衛生な環境下における破傷風菌の増殖速度、そして部隊の壊滅プロセスを完璧に立証した」
レオン公爵の言葉に、私は思わず息を呑んだ。
異世界における裁判は、声の大きい者や、身分や闘気の強い者が勝つのが常識だと思っていた。しかし、天才公爵である彼が用いたのは、どこまでも冷徹でフェアな『証拠と法』だった。
「結果として、ゼロスの指揮は『帝国資産(兵士)に対する重大な過失および破壊行為』と認定された。奴は魔闘騎士の階級を剥奪され、貴族としての身分も永久に失った」
「身分を……」
「ああ。さらに、部下たちの遺族や傷病兵への莫大な賠償金が課せられた。当然、無一文となった奴に払える額ではない」
レオン公爵はそこで一度言葉を切り、カップをソーサーに置いた。
「ゆえに、帝国の法に基づき、彼は債務を労働で返済することとなった。……シーラン国の、『マグローザ漁船』の無期限乗組員としてな」
「マ、マグローザ漁船!?」
私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
それ、私のスマホアプリが『滞納者をドナドナする』って警告してきた、あの伝説のブラックカニ漁船的なやつじゃないですか! 一度乗ったら借金を返すまで二度と陸には上がれないという、正真正銘の生き地獄。
「そうだ。闘気と体力だけはあるようだからな。波しぶきと魔獣が跋扈する過酷な遠洋漁業で、一生をかけて己の傲慢さを悔いるといい。……奴が陸に戻り、君の視界に入ることは、この先永久にない」
レオン公爵の報告を聞いて、私はポカンと口を開けたまま固まってしまった。
私が直接手を下したわけではない。復讐の言葉をぶつけたわけでもない。
私はただ、自分の知識で目の前の人を助け、安全な場所でパンケーキを食べていただけだ。
それなのに、私を不当に扱い、魔法が使えないと見下した男は、自分自身の無知で勝手に転落し、最後は公爵様の完璧な『合法ざまぁ』によって社会的に完全に抹殺されたのだ。
「……コハル嬢」
不意に、レオン公爵が立ち上がり、私の隣に腰を下ろした。
彼の大きな手が、私の頬をそっと包み込む。
「私を、恐ろしいと思うか? かつての婚約者を、情け容赦なく地獄へ突き落としたこの冷徹さを」
彼の漆黒の瞳が、少しだけ不安そうに揺れている。
自分の冷酷さが、私に引かれるのではないかと危惧しているようだった。
私は、彼の大きな手に自分の手を重ね、はっきりと首を横に振った。
「いいえ。……むしろ、こんなに安心したのは、生まれて初めてです」
「コハル……」
「前世の私は、理不尽な上司や医師に責任を押し付けられてばかりでした。私がいくら正しいデータを提示しても、誰も守ってくれなかった。……だから、レオン様が『法と論理』で私を守ってくださったこと、本当に、本当に嬉しいんです」
私が心からの笑顔を向けると、レオン公爵は小さく息を吐き、安堵したように私の肩を抱き寄せた。
「君のその言葉が、私にとってはいかなる勲章よりも価値がある。……コハル、君の平穏とバイタルを脅かす者は、私が帝国の総力を挙げて全て排除する。だから君は、ただ私の傍で、その美しい笑顔を見せていてくれればいい」
極甘の、致死量の溺愛。
前世で誰も休ませてくれなかった分を、今世でまとめて過保護にされているような、絶対的な安心感。
心臓がトクトクと早鐘を打ち、顔が熱くなるのを感じる。
「……っ、こ、公爵様、近いです……」
「強制睡眠の時も言っただろう。君の心拍音を近くで感じることは、極めて合理的な精神安定効果があるのだ」
公爵様が大真面目な顔で距離を詰めてきた、その時。
「あーっ! レオン、お前、隙を見てコハルにベタベタすんなや!」
パンケーキを平らげたマシロが、口の周りにシロップをつけたまま、私たちの間にずぼっと顔を突っ込んできた。
「コハルはワテの親友やぞ! イチャイチャすんのは、ワテの許可を得てからにせぇ!」
「っ……! 貴様、神獣とはいえ、空気を読むという概念はないのか!」
「空気なんか読んでも腹膨れへんわ! それよりレオン、お前ええ仕事したから、特別にワテのパンケーキ一口だけ食わせてやるわ。ありがたく思え!」
冷静沈着な天才公爵と、天真爛漫な野生児のウサギ耳少女が、私の両脇でワーワーと言い合いを始める。
その騒がしくて、温かくて、愛おしい光景に、私はたまらず声を上げて笑い出してしまった。
「あははっ! ふふっ、もう、二人ともやめて」
私の笑い声に、レオン様もマシロも目を丸くして、やがて釣られたように表情を和らげた。
「そういえば、コハル嬢。明日の夜は、ポポロ村で『満月祭』が催されるそうだ。村人たちが、君への感謝を伝えるために準備を進めているらしい」
「満月祭……!」
「おっしゃ! 満月や! ワテの力が最高潮に達する日やで! 腹ペコにして行くしかないな!」
マシロがぴょんぴょんと飛び跳ねて喜ぶ。
私を見下した者たちは、もういない。
ここにあるのは、純粋な感謝と、温かい友情と、少し過保護すぎるけれど信頼できる愛情だけ。
明日の満月の夜。
私はこの世界で、本当の意味での『自分の居場所』を確信することになる。
最高に甘くて幸せなスローライフの、第一章のフィナーレが、すぐそこまで近づいていた。
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