EP 8
天才公爵の来訪。「君のその手は、国家予算10年分の価値がある」
「はい、ご飯を食べる前には必ず石鹸で手を洗うこと。生水はそのまま飲まずに、一度しっかり火にかけて沸騰させること。約束ですよ」
ポポロ村の広場に、私の声が響く。
集まった村人たちは、まるで神の教えを聞くかのように真剣な顔でウンウンと頷いていた。
「聖女様の言う通りだ! 手を洗うだけで、腹痛にならなくなったぞ!」
「お湯を沸かすだけで、熱病を防げるなんて……!」
村の熱病騒動が落ち着いて数日。
私は村人たちに、現代日本では当たり前の『衛生管理』と『予防医学』の基礎を教えていた。
病気になってから慌てて魔法で治すのではなく、そもそも病気にならない環境を作ること。それは、魔法が使えない私にもできる、最も確実で効果的な人助けだ。
前世の限界ブラック病棟では、予防医療など見向きもされなかった。「ベッドが空けば次の患者を入れろ」と回転率ばかりを求められ、激務の末に私自身が過労で倒れてしまった。
どれだけ患者のために衛生環境を整えても、師長からは「そんな暇があったらカルテの整理をしなさい」と一蹴されるだけ。私の努力は、誰にも評価されなかった。
でも今は、私が教えた手洗いを実践するだけで、村の子供たちが笑顔で野原を駆け回っている。
『ピロリン♪』
エプロンのポケットでスマホが鳴る。
【システム通知】
善行ポイント:200 pt を獲得しました!(※継続的な予防医療の指導によるボーナス)
現在保有ポイント:3410 pt
「ふふっ、順調順調」
「コハル! この『ポテトチィップス』っちゅう食い物、なんやこれ!? 塩気といいパリパリ感といい、悪魔の食べ物やんけ!」
広場の隅で、マシロが【通販】で取り寄せた袋入りのポテトチップス(うすしお味)を貪り食いながら歓喜の声を上げていた。ウサギ耳が幸せそうにパタパタと揺れている。
「食べすぎると喉が渇くから、お茶も飲んでね」
「おん! コハルがおる限り、ワテは世界一幸せなウサギやで!」
太陽の下、親友と笑い合いながら、無理のない範囲で人の役に立つ。
私の心は、前世では決して得られなかった静かで確かな充実感で満たされていた。
その時だった。
パカラッ、パカラッ、パカラッ。
のどかな村の空気を切り裂くように、統率の取れた複数の馬蹄の音が響き渡った。
村の入り口から現れたのは、磨き上げられた黒塗りの豪奢な馬車と、それを護衛する数名の屈強な騎士たち。
馬車には、ルナミス帝国の高位貴族のみが使用を許される『三日月と剣』の紋章が燦然と輝いていた。
「な、なんだべ!? 貴族様だ!」
「どうしてこんな辺境に……!」
村人たちが恐れおののき、道を開ける。
馬車が広場の中心でピタリと止まると、従者が恭しく扉を開けた。
そこから降り立ったのは、まるで夜の闇を切り取ったかのような、深い漆黒の髪と瞳を持つ長身の青年だった。
無駄のない洗練された身のこなし、冷徹で知的な顔立ち。彼が纏う空気だけで、周囲の温度が数度下がったかのような錯覚を覚える。
(うわぁ……いかにも『大物』って感じの人だ)
私が呆然と見上げていると、青年は迷うことなく真っ直ぐに私の元へと歩み寄ってきた。
「コハル!」
マシロが持っていたポテトチップスを投げ捨て、瞬時に私の前に立ち塞がる。その赤い瞳は、神獣としての鋭い警戒の光を放っていた。
「待って、マシロ。大丈夫だから」
私はマシロの肩にそっと手を置き、青年と向き合った。
「あなたが、コハル・ルナミス嬢か」
青年の声は、冷たい氷のように透き通っていた。
「はい。ですが、今はただのコハルです。実家からは勘当されましたので」
「そうか。私はレオン・ド・ルナミス。この国の軍事および技術顧問を務めている」
レオン公爵!
帝国軍のトップであり、マルクス皇帝の右腕とも称される、帝国の超重要人物だ。
なぜそんな大貴族が、わざわざこんな辺境の村に?
レオン公爵の視線は、私を通り越し、背後のテーブルに置かれていた『消毒用エタノール』のボトルや、『煮沸消毒された真っ白な包帯』へと注がれた。
「報告通りだ。……嬢、君は水に熱を加え、傷口をこの透明な液体で拭うことで、『目に見えない病魔』を退けたと聞いた。それは、真実か?」
「ええ。病魔というか、細菌やウイルスですね。清潔な環境を保つことが、一番の治療ですから」
私がそう答えると、レオン公爵の漆黒の瞳が、驚愕に見開かれた。
「『細菌』……! 魔法という非論理的な奇跡に頼るのではなく、目に見えぬ脅威を物理的かつ論理的に排除する概念……! それを、君はたった一人で体系化したというのか!」
彼は感嘆の息を漏らし、ズカズカと私との距離を詰めた。
そして、戸惑う私の両手を、彼自身の大きな手で包み込むように取った。
「えっ……あの、公爵様?」
エタノールで消毒を繰り返し、少しばかり荒れてしまった私の小さな手を、レオン公爵はまるで壊れ物の国宝でも扱うかのように、恭しく、そして熱を帯びた瞳で見つめた。
「回復魔法が使えない無能、だと? 愚かにも程がある。あの魔闘騎士の男は、眼球の代わりにビー玉でも入っているのか?」
「……え?」
「コハル嬢。君のその手は、我が帝国の国家予算10年分の価値がある」
レオン公爵の断言に、私は言葉を失った。
こ、国家予算10年分!? 私のこの手洗いうがいレベルの処置が!?
「……少し、手が荒れているな。バイタルも、まだ完全には休息しきれていないように見える」
レオン公爵は私の顔をじっと覗き込み、極めて真面目な顔で、しかしどこか甘さを孕んだ声で告げた。
「私は、無知なる者たちが君を不当に搾取することを決して許さない。君のような国の至宝に、これ以上夜勤などという真似はさせん」
「や、夜勤なんてしてませんよ!? ちゃんと寝てますし!」
「足りない。私の邸宅で、最高の環境で睡眠をとるべきだ」
冷徹で理路整然としているはずの天才公爵が、なぜか私に対してだけ、強烈な『絶対過保護』のスイッチを入れてしまった瞬間だった。
強引なまでの言葉の中に、私を何があっても守り抜くという確固たる意志が感じられ、前世では誰からも庇ってもらえなかった私の胸の奥が、トクリと大きく鳴った。
――同刻。ルナミス帝国軍、最前線。
「ひぃぃぃっ! た、助けてくれぇぇっ!」
「顎が……! 顎が開かないっ! 身体が弓なりに……ッ!」
泥濘に沈む塹壕の中で、帝国兵たちが次々と痙攣を起こし、背中を反らせて絶叫していた。
傷口から侵入した破傷風菌が、彼らの中枢神経を完全に破壊し始めていたのだ。
「ええい、騒ぐな! 気合いが足りんのだ!」
ゼロスは苛立ちに任せて怒鳴り散らしたが、彼の声に耳を貸す者はもはや一人もいなかった。
「おい、魔法使い! 何をしている、早くこいつらを回復魔法で治せ!」
ゼロスが怒鳴りつけると、土気色の顔をした魔法使いの部下が、虚ろな目で首を振った。
「む、無理です……。あの『3型』のせいで胃腸がやられ、魔力も底を突きました。それに、魔法で傷口を塞いでも、中の『何か』が暴れ回っていて……魔法が効かないんです……ッ!」
ドサリ、と魔法使いはそのまま泥の中に倒れ伏し、動かなくなった。
衛生管理を怠った傷口に蓋をする行為は、嫌気性細菌である破傷風菌の増殖を助長する最悪の手だということを、彼らは知る由もなかった。
「な……なんだと? 馬鹿な! 俺の闘気は、俺の部隊は最強のはずだ!」
ゼロスは慌てて痙攣する部下の胸倉を掴み、己の強力な闘気を注ぎ込もうとした。
しかし、どんなに巨大な闘気を叩き込んでも、目に見えない細胞レベルの細菌を物理的に殴り飛ばすことなどできるはずがない。
周囲を見渡せば、数十人いた部下たちは皆、劣悪な食事と不衛生な環境によって倒れ、完全に戦闘不能に陥っていた。
魔族の軍勢は、まだ一度も攻撃を仕掛けてきていない。それなのに、部隊は自らの無知と傲慢さによって『自滅』したのだ。
「……嘘だ。俺が、この俺が、戦う前から敗北するだと……!?」
泥にまみれ、美しいはずの白い歯をガチガチと鳴らしながら、ゼロスは絶望のどん底で膝を突いた。
彼の頭上に、無情なる『トリアージ:黒』の札が、決定的に振り下ろされようとしていた。
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