第九章『情報エリート』のフェイクニュースと、平民スマホの集合知
平和な帝都と、突然の『魔法放送』
「はい、血圧120の80! 完璧な数値ですね! この調子で、毎日のお風呂と野菜中心の食生活を続けてくださいね!」
「おおっ、ありがとうコハル様! 聖水を飲むのをやめてルナ・スパに通うようになったら、長年の頭痛までスッキリ治っちまったよ!」
抜けるような青空が広がる、帝都の昼下がり。
大司教ボルドーの失脚と聖神殿の解体から数週間が経過し、私が帝都下層区にオープンした『ルナ・スパ帝都本店』は、連日連夜、文字通りの大盛況を記録していた。
エントランスに設けた無料の『簡易健康診断コーナー』には、血圧や脈拍を測りに来る平民たちの行列が絶えない。
彼らの顔に、かつてのような「見えない病気や神の罰への恐怖」はなかった。自分の身体を『数値』として客観的に把握し、予防と休息によって健康を維持するという、極めて現代的で合理的なライフスタイルが、帝都にしっかりと根付き始めていたのだ。
「コハル! 厨房から『タローソン特製・無添加フルーツ青汁』が百杯分上がったで! お風呂上がりのオッチャンたちに飛ぶように売れとるわ!」
マシロが、緑色の液体がなみなみと注がれたジョッキを両手(両肉球)に抱え、ウサギ耳をピンと立てて走ってくる。
「ありがとうマシロちゃん! 冷たいうちにカウンターに出してあげて!」
「おう! 任せとき!」
「♪青汁飲んで〜、血液サラサラ〜! わたくしの歌声で〜、ストレスもゼロですわ〜!」
広間のステージでは、リーザが健康推進アイドルのような爽やかな衣装で、平民たちと一緒に独自の健康体操を踊っている。
「……あー、姉御。便所掃除と脱衣所のモップがけ、完了したっす。もう腕がパンパンで、パチンコのハンドルも握れねえっすよ……」
「お疲れ様、フェイト。ほら、まかないの『鶏むね肉のサラダチキン』よ。良質なタンパク質を摂って筋肉を休ませなさい」
「ううっ……ギャンブル狂の俺が、どんどん健康的なマッチョになっていく……っ」
フェイトが涙目でサラダチキンを齧り始めた、その時だった。
「――全く、君が創り出す空間は、いつも活力に満ち溢れているな。だが、君自身が働きすぎて倒れてしまっては本末転倒だぞ、私の至宝」
ふわりと。
大衆的な健康ランドの空気には絶対に混ざらないはずの、最高級のダージリンと極上の香水の匂いが、私の背後から漂ってきた。
「レオン様。今日も視察ですか?」
振り返ると、そこには漆黒の軍服を完璧に着こなしたレオン様が、ご自身で淹れた温かいハーブティーのカップを手に、極上の微笑みを浮かべて立っていた。
「視察ではない。君の顔を一秒でも長く見ていたいという、私の極めて個人的かつ最優先の公務だ」
レオン様はごく自然な動作で私の腰に腕を回し、私の手からバインダーを抜き取ると、代わりにハーブティーのカップを握らせた。
大勢の平民客やスタッフが往来するエントランスのど真ん中だというのに、彼の『特等席』の主張は一切揺らがない。
「さあ、少し休憩しなさい。君の美しい額に汗が滲んでいる。……私が直接拭ってやろう」
「れ、レオン様、大丈夫ですからっ! みんな見てますし……っ」
私が顔を赤くして抗議するものの、レオン様は楽しそうに目を細め、胸元からシルクのハンカチを取り出して、私の額を優しく撫でるように拭い始めた。
その圧倒的な色気と過保護ぶりに、周囲の女性客たちが「きゃあっ」と顔を覆いながらも指の隙間からガン見している。
平和で、賑やかで、そして極上に甘い日常。
私たちが構築した『公衆衛生』は、このまま帝都を優しく包み込んでいくはずだった。
――しかし。
神の加護を失い、次なる理不尽を求めた炎上神ワイズが、この完璧な平和を黙って見過ごすはずがなかったのだ。
『――ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!』
突如として。
帝都全域の空気を震わせるような、鼓膜を突き刺すけたたましいサイレン音が鳴り響いた。
「えっ……? な、何!?」
「防空警報か!?」
平民たちが一斉に空を見上げる。
帝都の上空、澄み切った青空の真ん中に、突如として巨大な『六角形の魔法陣』が展開されたのだ。
「あれは……『大魔導通信』。皇室や軍の緊急事態にしか使われない、全帝都同時放送の魔法陣だぞ」
レオン様が漆黒の瞳を細め、私を庇うように背中へと隠した。
やがて、魔法陣の中心から、莫大な魔力によって増幅された一人の男の巨大な顔が、ホログラムのように空中に投影された。
白髪混じりの髭を蓄え、目には知性を誇示するような片眼鏡。そして、最高級の魔導シルクで織られた、深い青色のローブ。
その表情には、自分以外のすべての人間を「無知な獣」として見下すような、特大の『傲慢と冷笑』が張り付いている。
『――愚かで哀れな、帝都の平民どもよ。よく聞くがいい』
男の低く響く声が、帝都中に降り注いだ。
「あの男は……帝国魔導学園のトップ、『最高賢者』のギデオンか。……なぜあのような学者が、緊急用の大魔導通信を無断で使用している?」
レオン様が忌々しそうに舌打ちをする。
『私は、帝国魔導学園の最高賢者ギデオン。高度な教育と真実の知識を独占する、この帝国で最も聡明なる存在である。……本日は、無知なる貴様らが、自らの命を縮める愚行を犯していることを見かねて、真実の警告を与えてやろう』
ギデオンは、空中から見下ろすように、杖で一点を指し示した。
その指先が向いていたのは――他でもない、私の『ルナ・スパ帝都本店』だった。
『貴様らが最近群がっている、下層区のあの不浄なる施設。あそこで提供されている湯や、怪しげな健康診断とやらが、いかに危険なものであるか。我々エリート賢者の研究により、恐るべき真実が判明したのだ!』
「真実……? 何を言っているの、あの人」
私が眉をひそめた、次の瞬間。
ギデオンの口から放たれた言葉は、私のナースとしての矜持を根底から踏みにじる、最悪の『デマ』だった。
『ルナ・スパの湯船には、致死率九割を超える未知の病原菌……【赤死病のウイルス】が大量に繁殖している! さらに、あの施設で出されているオロポとやらには、平民の脳を萎縮させ、奴隷のように従順にさせる洗脳薬が混入されているのだ!』
「な……っ!?」
私は息を呑んだ。
『信じられないか? だが、これは我々、高度な教育を受けた「賢者」だけが持つ特権的な情報網によって得られた、紛れもない【真実】である! 無学な平民どもには理解できまいが、あの施設に一度でも立ち入った者は、数日以内に全身から血を噴き出して腐り落ちるだろう!!』
「――――ッ!!」
その言葉が響き渡った瞬間。
ルナ・スパのエントランスにいた平民たちの間に、爆発的な『パニック』が巻き起こった。
「う、嘘だろ!? 俺、さっきまでお風呂に浸かってたぞ!?」
「あ、赤死病!? どうしよう、私、オロポを飲んじゃった!! 脳が萎縮するぅぅっ!!」
「いやだ、死にたくない! 助けて、賢者様ぁぁっ!!」
「ちょ、ちょっと待ってください! 落ち着いて! それはデマです、全くの嘘です!」
私が必死に声を張り上げても、パニックに陥った群衆の耳には届かない。
平民たちは、自分が着ていた館内着を悲鳴を上げながら引き剥がし、荷物も持たずにルナ・スパから一斉に逃げ出し始めた。
マシロやフェイトが止めようとするが、恐怖に駆られた人々の波を押し留めることは不可能だった。
『フハハハハッ! 愚かな獣どもめ、這いつくばって怯えるがいい! 真実とは、我々エリートだけが独占し、操作するもの! 貴様らはただ、我々の与える情報だけを盲信し、従っていればよいのだ!!』
空からの傲慢な笑い声が響く中、あれほど賑わっていたルナ・スパは、わずか数分のうちに、閑古鳥が鳴くもぬけの殻となってしまった。
「……フェイクニュース」
私は、誰もいなくなったエントランスの床に散らばったタオルを見つめながら、ギリッと強く奥歯を噛み締めた。
前世の限界ブラック病棟時代。
『この水(謎のサプリ)を飲めばガンが治る』『病院の薬は毒だ』という、ネット上の悪質なデマ(フェイクニュース)を信じ込み、治療の機会を逃して亡くなっていった患者さんたちを、私は数え切れないほど見てきた。
医療情報において。
人々の恐怖を煽り、嘘の情報を流して混乱させる行為は、直接刃物で刺すよりも遥かにタチが悪く、絶対に許されない『間接的な殺人』だ。
「……私の至宝を愚弄した大罪。あの魔導学園ごと、跡形もなく灰塵に帰してやろうか?」
レオン様が、漆黒の瞳にこれまでにないほどの底知れない殺気を宿し、腰の剣に手をかけた。
国教の次は、学歴と情報を独占するエリート賢者。
炎上神ワイズの放った次なる刺客がもたらした『情報の暴力』に、平民ナースの静かで、しかし今までで最も激しい怒りの炎が燃え上がろうとしていた。
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