EP 2
情報格差とナースの怒り
「……誰も、いなくなってしまったわね」
ルナ・スパ帝都本店の広大なエントランス。
ほんの数分前まで、血圧測定や無料の健康診断、そして極上のお風呂を求めて詰めかけた平民たちでごった返していたその空間は、今や嘘のようにしじまに包まれていた。
床には、パニックに陥った客たちが慌てて脱ぎ捨てた館内着や、飲みかけのオロポのジョッキが虚しく転がっている。
最高賢者ギデオンが放った突然の魔法放送――「ルナ・スパには赤死病のウイルスが蔓延し、オロポには洗脳薬が入っている」という悪質なデマは、情報の防壁を持たない平民たちの心に、あまりにも深い恐怖の種を植え付けてしまったのだ。
「コハル……。あのエリートのクソ野郎ども、許せへんわ!」
マシロがウサギ耳をピンと逆立て、小さく丸めた両拳をブルブルと震わせている。
「ワテらがどれだけ真面目に、平民の健康を考えてインフラを整えてきたと思っとるんや! それを、遠い安全な学園の塔の上から、都合の良い嘘っぱちで泥を塗りたくるなんて……!」
「ほんまに、最低最悪ですわ!」
リーザもマイクを強く握りしめ、美しい瞳に怒りの炎を宿していた。
「人々の癒やしと笑顔を奪うなんて、アイドルとしても、エンターテインメントを愛する者としても絶対に許せませんのよ! あのメガネのおじさん、今すぐステージに引きずり出して、わたくしの超音波ボイスで鼓膜を破ってやりたいですわ!」
「……あー、姉御。学園の連中が流したあのデマ、すでに下層区の隅々まで拡散しちぎっているっすよ」
フェイトが、窓の外の通りを指差した。
窓の外では、通りを歩いていた平民たちが、恐怖に顔を引きつらせながらルナ・スパの建物を避け、まるで疫病神でも見るかのような目で遠巻きに睨みつけて逃げ去っていく姿が見えた。
「『あそこに行くと血を噴いて死ぬらしい』『オロポを飲むと奴隷になるんだって』……そんな噂があっという間に広まってる。……情報ってのは、暴力よりもタチが悪いっすね」
フェイトが珍しく苦々しい表情で舌打ちをする。
その通りだった。
物理的な暴力や、大司教のような古臭い宗教権威であれば、私たちの持つ圧倒的な武力やエビデンスで物理的・論理的にねじ伏せることができた。
しかし、今回の敵――帝国魔導学園の最高賢者ギデオンが用いたのは、目に見えない『情報』という毒だった。
帝国の平民たちは、高度な魔導通信のインフラを持たない。
彼らにとって、学園のエリートたちが発信する魔法放送は「絶対的な権威と知識の言葉」であり、そこに書かれている内容が真実であるか嘘であるかを、自分たちの手で検証する手段(ファクトチェックの手段)が一切なかったのだ。
情報格差。
知識を持つ者が情報を独占し、持たない者(平民)を恐怖でコントロールする。
それこそが、ワイズの使徒であるギデオンが仕掛けた、最も卑劣で、最も逃げ場のない罠だった。
『――愚かな平民どもよ、思い知ったか! 我々賢者層が与える警告を無視した者には、厳罰が下るのみ! あの不浄な施設に近づく者は、帝国への反逆者とみなす!』
空中に残された魔導通信の残骸から、ギデオンの冷笑的な声の幻聴がまだ響いているような気がした。
「……ふんっ。学園の犬どもが」
重く冷たい静寂を切り裂くように、低く、しかし劇場全体を凍りつかせるような声が響いた。
レオン様だった。
漆黒の軍服に身を包んだ彼は、冷徹な殺気をその漆黒の瞳に宿し、ゆっくりと一歩前に進み出た。
「情報戦などというセコい真似をせずとも、帝国魔導学園の本拠地ごと、私の影の部隊で一晩のうちに跡形もなく更地に変えてやれば済むことだ。……ギデオンめ、私の至宝の創り上げた聖域を汚した罪、その脳髄を抉り出すことで償わせてやろう」
レオン様の言葉は決して誇張ではない。彼がその気になれば、学園のエリートたちなど数分で歴史の闇に葬り去ることができる。
だが――私は、ゆっくりと首を横に振った。
「ダメです、レオン様。ここで彼らを暴力で排除してはいけない」
「……なぜだ、コハル。あのような悪質なデマを放置すれば、君の積み上げてきた信用が……」
「わかっています。でも、ここで学園を武力で潰してしまえば、平民たちの間には『やっぱりルナ・スパの裏には裏の顔(暴力組織)があったんだ』『賢者様たちの言っていたことは本当だったんだ』という新たな誤解が生まれてしまうわ」
私は、エントランスの冷たい床に落ちていた、客の落とした小さな手帳をそっと拾い上げ、胸に抱きしめた。
私の胸の奥で、静かな、しかしマグマのような熱い怒りが、音を立てて渦巻いていた。
「武力で口を封じても、情報の独占構造が変わらなければ、彼らはまた別の嘘をついて、いつか別の形で平民たちを洗脳する。……それは絶対に許さない」
前世の記憶が、鮮明に脳裏によみがえる。
私が勤めていた限界ブラック病棟の時代。
ネット上には「この怪しげな健康食品を飲めば、現代医学の治療など受けなくてもガンが治る」「病院のワクチンは遺伝子を書き換える毒だ」という悪質なフェイク医療の情報が、毎日のように氾濫していた。
知識や情報を持たない患者さんやその家族が、その巧妙な嘘に惑わされ、正規の治療を拒否し、手遅れの状態で病院に担ぎ込まれていくのを、私は何度見ただろうか。
「お医者さんの言うことなんて信じられない、ネットにこう書いてあったから!」と、涙を流しながら命を落としていった患者たちの無念の顔を、私は一生忘れない。
人の恐怖を煽り、嘘の医療情報で弱者から金を巻き上げたり、正常な判断力を奪ったりする行為。
それは、病魔そのものよりも遥かに残酷で、悪質な『殺人』だ。
「……許せないわね」
私はポツリと呟いた。
その声は震えていなかったが、私の全身から放たれたナースとしての静かなる殺気は、傍らにいたレオン様すらもハッと息を呑ませるほどに鋭く、冷徹だった。
「私の創ったインフラを傷つけ、平民たちの健康と平穏な日常を『フェイクニュース』という毒で踏みにじった。……その罪の重さ、エリート様の脳みそに、徹底的な『事実』を刻み込んで教えてあげないと気が済まないわ」
「コハル……その顔、だ。私が世界で一番愛してやまない、君のその冷徹で気高い美しさは」
レオン様は私の背後に回り、その強靭な両腕で私を力強く、けれど優しく包み込み、私の耳元に唇を寄せた。
「いいだろう。君が暴力ではなく『知略』で奴らの鼻を明かすと言うなら、私はそのためのすべてのリソースを君に捧げよう。金庫の鍵も、帝国の全権力も、すべて君の掌中にある。……さあ、その学園の傲慢なエリートどもを、どのように料理してやろうか?」
レオン様の絶対的な庇護の温もりを感じながら、私は冷たく、そして美しく微笑んだ。
「暴力を使わない代わりに……もっと残酷で、現代的な方法を使いましょう」
私はポケットから【善行ポイント通販】のスマホを取り出し、画面に浮かび上がった『次なる進化のアイコン』をじっと見つめた。
「情報の独占が彼らの武器なら、すべての平民に『真実を共有するネットワーク(通信インフラ)』を持たせればいい。……エリート様たちだけの特権だった魔法通信を、これからは『平民全員のスマホ』にアップデートするわ」
情報格差の完全破壊。
フェイクニュースを瞬時に論破し、エリートたちの足元をすくい取る、異世界最大の『情報革命(SNSインフラ計画)』の幕が、今まさに静かに上がろうとしていた。




