EP 10
極上の湯上がりと、絶対有給休暇の更新
大司教ボルドーによる長年の「医療類似行為を騙った詐欺」が完全なエビデンスの暴力によって論破され、聖神殿が解体されてから一週間。
帝国の平民たちの生活は、劇的な変化を迎えていた。
これまで「病気になったら全財産を叩いて聖水を買い、ひたすら祈る」という非科学的な洗脳の中にいた人々は、今や「体調が悪くなったらまずルナ・スパで人間ドックを受け、バランスの良い食事をしてサウナで汗を流す」という、極めて合理的で健康的なライフスタイルへと移行していた。
国教という名の古い権威は消え去り、平民ナースが構築した「公衆衛生」が、帝都の新しい常識として完全に定着したのだ。
■ 営業終了後の、とある日常
「ふぅ……。今日も一日、たくさんの患者さん――じゃなくて、お客さんが来てくれたわね」
夜の十時。一般営業を終了した『ルナ・スパ帝都本店』の大広間で、私は売上の書類と簡易検診のデータを整理しながら、満足げに溜息を吐いた。
「ほんまやで、コハル! 今日の『タローソン特製・低塩分ヘルシーからあげ弁当』、お昼過ぎには三千個が完売や! 平民の皆さんも、血圧の数値を気にして薄味を選ぶようになってきたな!」
マシロがフロントのカウンターにドカッと座り、冷えたフルーツ牛乳の瓶を肉球で器用に開けながらウサギ耳を揺らした。
「良い傾向ね。前世のブラック病棟では、倒れるまで不摂生を続けた患者さんを数え切れないほど見てきたから……こうやって『予防医療』がエンタメとして根付いてくれるのが、一番の理想だわ」
「おーい、姉御……。本日のノルマ、便所掃除とサウナの薪割り、すべて完了したっす……。もう指一本動かせねえっすよ……」
大広間の入り口から、ゲッソリと頬をこけさせた銀髪の剣士フェイトが、ゾンビのように床を這いつくばりながら入ってきた。その背後からは――
「ひ、ひぃん……! トイレの黄ばみが……『サンポール(【通販】)』の威力ですべて溶けていくよぉぉ……! 私の国教最高権威としてのプライドも、一緒に排水溝に流れていっちゃったよぉぉぉっ!!」
ダボダボのタローマン作業着を着た元大司教ボルドーが、両手にトイレブラシとバケツを持ったまま、大号泣しながらついてきた。
毎日、フェイトの厳しい(パチンコに行きたいストレスをぶつけられた)指導のもとで徹底的に現場の労働を叩き込まれた結果、あの大肥満だった身体は、一週間で驚くほど引き締まり、心なしか痛風の症状も改善しつつあるようだった。
「お疲れ様、ボルドーさん。運動と規則正しい労働のおかげで、尿酸値もだいぶ下がってきているわよ。まさに『現場の兵站』がもたらす最高の治療ね。さあ、夜食の麦飯と具沢山の味噌汁を食べて、早く寝なさい」
「ううっ……平民のナース様、ありがとうございますぅぅっ! 贅沢な肉やワインより、労働の後の味噌汁の方が何百倍も身体に染みるよぉぉっ!!」
元大司教は涙を流して感謝しながら、厨房へと去っていった。かつての宿敵すらも健康的な労働従事者へとトリアージしてしまうのが、我が陣営の恐ろしいところである。
■ 至福の女子会大浴場
「♪仕事の〜後の〜、お風呂は〜最高〜! わたくしの〜美肌も〜、さらにピカピカですわ〜!」
営業終了後の誰もいない贅沢な大浴場『白亜の湯』。
ライトアップされた大理石の湯船に、私はマシロ、リーザと一緒にゆったりと肩まで浸かっていた。
ポカポカとした温かさが、一日の立ち仕事で強張った私のふくらはぎや腰の筋肉を、優しく解きほぐしていく。
「……あぁ、極楽極楽……」
私は湯船の縁に頭を預け、天井から立ち上る湯気を見つめながら、ぽつりと呟いた。
前世の限界ブラック病棟時代。私にとって「お風呂」とは、楽しむものではなかった。
24時間勤務の合間、仮眠室にある狭くて冷たいシャワー室で、三分で全身を洗い流してすぐにナース服に着替える――ただの『衛生維持の作業』に過ぎなかったのだ。湯船にゆっくりと浸かる心の余裕なんて、一ミクロンも持ち合わせていなかった。
(あの頃の私が今の私を見たら、きっと羨ましさで気絶するわね……)
「コハル、顔がふにゃふにゃになってるで? ほれ、ワテのモフモフを枕にして休むとええわ!」
湯船の中で、水を含んで通常の三倍近くに膨れ上がったマシロが、プカプカと浮きながら私の隣に寄ってきた。
「ありがとう、マシロちゃん。でも水を含んだマシロちゃん、ちょっと重いというか……ぬれた絨毯みたいになってるわよ?」
「ギャハハ! 絨毯とは失礼な! これでも最高級の神獣の毛並みやぞ!」
「ふふっ、本当にマシロ様は騒がしいですわね。コハルプロデューサー、見てくださいまし! わたくしの尾鰭、このルナ・スパの『高濃度炭酸泉』のおかげで、鱗の輝きがトップアイドルの衣装並みにツヤツヤですの!」
リーザが、人魚の美しいエメラルドグリーンの尾鰭を水面から出して、パシャパシャと嬉しそうに揺らした。
気心の知れたポンコツで最高の仲間たちと、温かいお湯を共有する時間。
前世で孤独に倒れた私が、ずっとずっと心の奥底で求めていた「誰かと温もりを分かち合う日常」が、今、確かにここにあった。
レオン様が私の過去のトラウマを丸ごと抱きしめ、肯定してくれたからこそ、私はこうして自分の身体を労ることを、罪悪感なく受け入れられるようになったのだ。
■ VIPラウンジと、公爵様の究極の甘やかし
お風呂から上がり、私はルナ・スパ特製の最高級シルクで作られた『VIP専用館内着(薄ピンク色)』に身を包み、最上階の専用ラウンジへと向かった。
ガラス張りの窓からは、帝都の美しい夜景が一望できる。
その中央、ふかふかの特大ソファに、優雅に脚を組んで座っていたのは――。
「――待っていたよ、私の至宝」
漆黒のVIP専用館内着を着こなした、レオン様だった。
湯上がりであるため、いつもは完璧に整えられている黒髪が、わずかに無造作に額に落ちており、その隙間から覗く漆黒の瞳が、昼間よりも何倍も妖艶で危険な色気を放っている。
「レオン様、お待たせしました」
「いや、君の美しい湯上がりの姿を待つ時間すらも、私にとっては至高の娯楽だ。……だが、コハル」
レオン様はすっと立ち上がると、私の元へ歩み寄り、私の濡れた髪の毛先を細長い指先でそっと摘んだ。
「髪がまだ濡れているな。自分のバイタルサインを後回しにする悪癖が、まだ抜けていないようだ」
「あ、すみません。早く書類の続きをやろうと思って……っ」
「書類など、明日の私がすべて処理しておくと言ったはずだ。君はただ、私に甘やかされていればいい」
レオン様は私の手首を優しく掴むと、ソファへと連れて行き、ご自身の膝の上に私をすとんと座らせた。
「れ、レオン様っ!? ここ、一応ラウンジですから……っ!」
「完全貸切だ。誰一人として、私たちの『特等席』の邪魔をすることは許さない」
レオン様は私の抗議を極上の微笑みで受け流すと、どこからか最高級コットンの大判タオルを取り出し、私の頭の上にそっと被せた。
そして、大きな、熱い両手で、私の頭を包み込むようにして、優しく、丁寧に私の髪の水分を拭き取り始めた。
タオルの隙間から、レオン様の甘い香水の匂いと、お風呂上がりの清潔な肌の匂いが混ざり合って漂ってくる。
「……気持ちいい……」
「そうか。ならば、もっと力を抜いて、すべてを私に委ねなさい」
レオン様の長い指先が、タオルの上から私の頭皮を優しくマッサージしていく。昨夜、私の前世の悲しい記憶(過労死)をすべて吐き出したことで、レオン様と私の間には、言葉を超えた**【揺るぎない絶対の信頼(恋愛ラダー第9段)】**が完成していた。
彼の手から伝わってくるのは、強大な帝国公爵としての力ではなく、ただ一人の女性(私)を、絶対に失いたくないという、どこまでも深い、底知れない愛の温もりだった。
「はい、コハル。湯上がりの水分補給だ」
髪を拭き終えたレオン様が、テーブルの上からキンキンに冷えたグラスを差し出してきた。中に入っているのは、私が【通販】でレシピを教えた、ルナ・スパ特製の『オロポ』だ。
「ありがとうございます!」
グラスを受け取り、一気に喉に流し込む。
ビタミンの爽快感と水分が、お風呂上がりの火照った身体に染み渡っていく。
「ぷはぁっ! やっぱりお風呂上がりのオロポは世界一ですね!」
私が満面の笑みでグラスを置くと、レオン様は私のその表情を、まるで世界で最も美しい奇跡でも見るかのように、愛おしそうに見つめていた。
「君の創り上げたこの世界は……本当に温かいな、コハル」
レオン様は私の腰をグッと引き寄せ、私の耳元に唇を寄せて、低く響く声で囁いた。
「神の奇跡という不確かなものではなく、ただ『温かいお湯』と『正しい数値』だけで、民の心と身体を救い、古い洗脳を解き放った。君という平民ナースのロジスティクスは、国教の権威などという陳腐な概念を完全に過去のものにしたのだ」
レオン様の手が、私の館内着の隙間から覗く鎖骨をそっと撫でる。その触れ方は、どこまでも過保護で、しかし強烈な独占欲に満ちていた。
「君が他者の日常を守る女王であるならば、私はその女王を、この腕の中で永遠に溺愛し続ける唯一の騎士であり、夫(予定)だ。君が前世で味わった孤独も、疲労も、これからの私が、生涯をかけて完璧な『絶対有給休暇』で完全に上書きしてあげよう。……二度と、あの冷たい床の上には戻らせない」
レオン様の漆黒の瞳に、私だけが映っている。
前世のトラウマを乗り越え、最高にポンコツな仲間たちと、私を宇宙一過保護に愛してくれるヒーローに包囲された今。
私の心には、もう一ミクロンの不安も、寂しさも残っていなかった。
「……はいっ。レオン様、これからも私の隣の特等席で、ずっと私を見守っていてくださいね」
私が両腕をレオン様の首筋に回し、心の底からの幸福感に満ちた笑顔を浮かべると、レオン様は堪らなくなったように目を細め――。
周囲の美しい夜景すらも背景に変えてしまうほど、深く、甘く、そして誰にも渡さないという独占欲を込めた口づけを、私の唇へと落としたのだった。
古い権威主義の洗脳を完全なエビデンスで論破し、帝都に新しい「健康のインフラ」を創り上げた平民ナース。
因果の請求書は完璧に執行され、私たちの『絶対有給休暇』は、さらなる盤石な愛と、最高の仲間たちとの温かい夜の中で、どこまでも甘く更新され続けていくのだった。




