EP 5
魂の傷の共有と、究極のケア
帝都の夜は深く、ルナ・スパのプレオープン初日の喧騒は嘘のように静まり返っていた。
施設の最上階に設けられた、ルナミス公爵家専用の完全貸切VIPルーム。
魔導ランプの柔らかな間接照明に照らされたその部屋には、ラベンダーとイランイランの極上のアロマの香りが満ちていた。
「……ふぁぁ」
私は最高級のシルクで設えられたマッサージベッドにうつ伏せになり、とろけるような心地よさに小さく息を吐いた。
「どうだ、コハル。力加減は強すぎないか?」
「はい……レオン様。完璧です……もう、指先から溶けてしまいそう……」
私の背中から肩甲骨、そして首筋にかけて。
レオン様の大きくて熱い両手が、専用の保湿オイルを滑らせながら、絶妙な圧で私の筋肉の強張りを解きほぐしていく。
公爵という帝国最高位の身分でありながら、彼の手技はプロのマッサージ師すら凌駕するほど正確で、かつ私の自律神経を直接撫でるような圧倒的な色気に満ちていた。
「君の首筋から肩にかけて、ひどい張りだ。……今日一日、あの豚(大司教)の相手から、仲間たちの検査の指揮まで、気を張り詰めていた証拠だな」
レオン様の長い指先が、私の凝り固まった肩のツボをゆっくりと押し込む。
同時に、彼の指先からじんわりと温かい微弱な魔力が流し込まれ、細胞の隅々に蓄積された疲労物質が嘘のように消え去っていくのがわかった。
「……君は、本当に働き者だ。私の至宝」
レオン様はマッサージの手を止め、私の背中にそっと自身の頬を寄せるようにして、低く静かな声で囁いた。
「だが……時折、不思議に思うことがある。君は『自分の絶対有給休暇』を謳いながらも、他者の健康やバイタルサインを守ることに関しては、まるで何かに急き立てられるように、自己犠牲すら厭わずに奔走する。……そこには、単なる善意を超えた、強迫観念のような『恐れ』が見え隠れしているように感じるのだ」
レオン様の指摘に、私の心臓がトクン、と小さく跳ねた。
彼の漆黒の瞳は、私のどんな些細な変化も見逃さない。
私がこの異世界で、インフラ作りに執着し、仲間たちの食事や睡眠をやたらと管理したがる理由。
それは確かに、前世からの拭いきれない『恐れ』が根底にあった。
「……レオン様には、隠し事はできませんね」
私はゆっくりと身を起こし、シルクのガウンを羽織って、レオン様と真っ直ぐに向き合った。
これだけ私を愛し、守り抜いてくれる彼になら、私の魂の一番脆い部分を預けてもいいと思えたのだ。
「私の……前世の記憶の話です」
私がポツリとこぼした言葉を、レオン様は驚くこともなく、ただ静かに頷いて受け止めてくれた。
「私の前世は、『限界ブラック病棟』と呼ばれる、常に人手不足で、患者さんの命が絶え間なく行き交う戦場のような場所で働くナースでした」
私は、膝の上で自分の両手をギュッと握りしめた。
思い出すのは、無機質な電子音。漂う消毒液の匂い。そして、終わりの見えない夜勤の連続。
「私はそこで、数え切れないほどの理不尽な死を見ました。もっと早く休んでいれば、もっと早く検査をしていれば助かったはずの患者さんたち。……そして何より、私自身がそうだったんです」
声が、わずかに震える。
「毎日、自分の限界を超えて働き続けました。睡眠時間は削られ、食事はゼリー飲料だけ。自分のバイタルサインが異常を告げているのに、現場を回すためにそれを無視し続けた。……その結果、私は休憩室の冷たい床の上で、たった一人で倒れました。……自分の心臓が止まっていくのを、誰にも気づかれないまま、孤独の中で」
『過労死』という、前世の私の最期。
それが、私の魂に深く刻まれたトラウマだった。
「だから……怖いんです。この世界で出会った大好きな仲間たちが、私と同じように、理不尽なシステムや労働で命をすり減らしていくのが。……私が『絶対有給休暇』にこだわるのは、ただ怠けたいからじゃない。……もう二度と、大切な人が孤独に倒れるのを見たくないし、私自身も、あんな冷たい場所で独りぼっちで死にたくないから……ッ」
ポタッ、と。
握りしめた私の手の甲に、自分でも気づかないうちに溢れていた涙がこぼれ落ちた。
次の瞬間。
「――っ、コハル」
レオン様の強靭な腕が、私の身体を壊れ物を扱うように、けれど絶対に逃がさないという強い力で、すっぽりとその胸の中へ抱き込んだ。
「……レオン、様……」
「すまない。君に、そんな辛い記憶を掘り起こさせてしまった」
レオン様の声は、私がこれまでに聞いたどんな声よりも低く、そして、ひどく痛みに満ちていた。
私を抱きしめる彼の腕が、微かに震えているのがわかる。
「君がそんな地獄のような場所で、たった一人で戦い、そして孤独に命を落としたという事実……。もし、その『ブラック病棟』とやらがこの世界のどこかに存在するなら、私が今すぐ軍を率いて、跡形もなく焦土に変えてやりたい」
レオン様は私の背中をさすりながら、私を苦しめた『前世の世界』に対する、身の毛もよだつほどの強烈な怒りと殺気を放った。
しかし、私に触れるその手は、どこまでも優しく、温かかった。
「だが、君はもう、その冷たい部屋にはいない。君は今、私の腕の中にいる」
レオン様は私の顔をそっと上向かせ、親指で私の涙を拭った。
「君が他者の命を救うために奔走するなら、私は君のその尊い意志を、ルナミス家の全権力をもって肯定し、支えよう。……だが、君自身の心臓の鼓動は、私が一生涯、この命に代えても守り抜く」
彼は、私をベッドの上にゆっくりと押し倒し、私の心臓の真上――胸元に、静かに耳を押し当てた。
トクン、トクン、と。
私の早鐘を打つ心音を、彼は目を閉じて、まるで世界で最も美しい音楽でも聴くかのように愛おしそうに聴き入っている。
「この音は、私の宇宙で最も価値のあるリズムだ。……誓おう、コハル。君を二度と、孤独な死の淵などには立たせない。君が疲れた時は私が抱きしめ、君が傷ついた時は私が癒やす。君の『絶対有給休暇』は、この私が完璧な防壁となって永遠に更新し続けてみせる」
【恋愛ラダー・第9段:魂の傷の共有と、極上の精神的治癒】
レオン様は顔を上げ、私の額に、涙で濡れた目元に、そして最後に、私の唇に、魂の傷跡を塞ぐような、深く、甘く、熱いキスを落とした。
「レオン、様……っ」
「さあ、全てを私に委ねなさい。君の細胞の一つ一つに刻まれた過去の恐怖を、私の愛で完全に上書きしてやろう」
その夜。
私は前世から引きずっていた『過労死への恐怖』という重い鎖から、完全に解き放たれた。
レオン様の与えてくれる究極のケアと、揺るぎない絶対の愛。
それはどんな最新医療の機械でも数値化できない、私の魂に対する『完璧な治療』だった。
「……はいっ。私、もう怖くありません。レオン様が、一緒にいてくれるから」
私はレオン様の温かい首筋に腕を回し、心の底からの安心感に包まれながら、極上の微睡みの中へと落ちていった。
明日はいよいよ、あの忌まわしい大司教に『最新人間ドック』という名の現実を突きつける日だ。
でも、今の私には一ミリの不安もない。
完全に心身をチャージされた平民ナースの、権威主義者に対する容赦のない『公開・因果応報』の朝が、静かに、そして確実な足音を立てて近づいていた。




