EP 6
辺境の村と、ナイチンゲールの無自覚な奇跡
マシロのウサギ耳を道標に歩くこと数時間。
私たちはようやく、目的地の『ポポロ村』へと辿り着いた。
豊かな農地と自然に囲まれたのどかな開拓村――と聞いていたのだが、村の入り口に立った瞬間、私の足はピタリと止まった。
「……何、これ」
村の広場は、目を覆いたくなるような惨状だった。
土気色の顔をしてうめき声を上げる村人たち。血にまみれ、薄汚れた布を傷口に巻きつけただけの兵士らしき男たち。数十人規模の人間が、地面に筵を敷いただけの場所に無造作に寝かされている。
国境付近での小競り合いから流れてきた負傷兵と、彼らが持ち込んだのか、流行り病らしき高熱で倒れた村人たちの姿だった。
「ひでぇ有様やな。魔物か、隣国の小競り合いの巻き添えか……」
マシロが鼻をヒクヒクと動かし、顔をしかめた。
異世界の劣悪な衛生環境が、最悪の形で牙を剥いていた。
回復魔法の使い手など、こんな辺境の村にいるはずもない。傷口には泥や謎の薬草が擦り込まれ、高熱で汗をかいている者たちには、ただ気休め程度の水が与えられているだけ。
このままでは、確実に数日以内に死者が出る。
特に、高熱で脱水症状を起こしている子供や老人たちは、今日明日の命すら危うい。
私の耳の奥で、鳴るはずのないナースコールの幻聴がジリリリリッ! と激しく鳴り響いた。
『あんた、退職(追放)されたんでしょ? もう無理して働く必要なんてないのよ』
脳内のもう一人の私が、スローライフの計画を盾にストップをかける。
だけど。
目の前で苦しんでいる人たちを、見過ごすことなんて、私には絶対にできない。
ナースの魂(ブラックの呪いかもしれないけれど)が、私の背中を強く突き飛ばした。
「マシロ! 手伝って!」
「おん! 何すればええ!?」
「まずは清潔な水! それからお湯を沸かして! マッハでお願い!」
「任せときぃ!」
マシロは文字通り目にも留まらぬ速度で駆け出し、村の井戸から水を汲み上げ、手近な竈で火を起こし始めた。月兎族の身体能力、恐るべしである。
私は広場の中心に駆け込むと、スマホのアプリを開いた。
現在の保有ポイントは、マシロを助けたボーナスの100pt。これを全額投資する!
「賢者君! 【通販】の医療品カテゴリから、『経口補水液(OS-1)』のダース箱と、解熱鎮痛剤、それに滅菌包帯とエタノールをあるだけ出して!」
『……注文を受理しました。在庫を開放します』
シュンッ、シュンッ! と次々に段ボール箱が転がり落ちてくる。
私は医療用ゴム手袋をはめ、まずは高熱で意識が混濁している小さな子供の元へ膝をついた。
「大丈夫、すぐに楽になるからね」
冷やされた経口補水液のパウチを開け、子供の口元にそっと含むように流し込む。
塩分と電解質が計算し尽くされた『飲む点滴』。脱水症状の身体には、魔法以上の速度で吸収されていく。
「あ、あまい……つめたい……」
ごきゅ、ごきゅ、と喉を鳴らして経口補水液を飲んだ子供の顔に、みるみると血の気が戻っていく。
よし、次!
私は立ち上がり、最も出血と化膿がひどい兵士の元へ向かった。
泥だらけの不衛生な布をハサミで切り捨て、エタノールで傷口周辺の汚れと細菌を徹底的に拭き取る。
「ぐっ、ああっ! 痛ぇ!」
「ごめんなさい、ちょっと我慢して! ここでバイ菌を殺さないと、手足を切り落とすことになるわよ!」
私はあえて厳しい声で言い放ち、手早くピンセットで異物を取り除き、清潔な滅菌包帯で患部を圧迫保護した。
「マシロ、お湯は沸いた!? この布を全部煮沸消毒して! それから、意識のある人たちにはこのゼリー飲料を配って!」
「おっしゃ、分かったで! ほらオッサン、これ美味いから一気飲みしいや!」
凄まじい速度で動き回るマシロのサポートを受けながら、私は広場中を駆け回った。
トリアージ(優先度判定)を瞬時に行い、重症者には的確な応急処置を、脱水患者には経口補水液と解熱剤を与えていく。
魔法の光なんて一つもない。ただの物理的な応急処置だ。
しかし、その効果はてきめんだった。
数時間が経過する頃には、うめき声に満ちていた広場は静まり返り、人々の呼吸は穏やかなものに変わっていた。
「……ふぅ」
私は額の汗を手の甲で拭い、その場にへたり込んだ。ゴム手袋を外すと、手はカサカサに乾いていた。
有給休暇の初日から、まさかの野戦病院並みの激務。
残業代も出ないのに、私は何をやっているのだろう。
そう自嘲気味に笑いかけた時だった。
「お嬢様……いえ、聖女様」
村長らしき年老いた男性が、震える足で歩み寄り、私の前で深く膝をついた。
それに続くように、処置を受けた村人や兵士たちも、次々と私に向かって両手を合わせる。
「熱で死にそうだった孫が、あんな美味で冷たい聖水をいただいて、息を吹き返しました……!」
「俺の足も、痛みが引いて嘘のように楽になりました。神の奇跡だ……!」
「ありがとうございます……! 天使様、本当に、本当にありがとうございます!」
口々に向けられる、純粋で、嘘偽りのない感謝の言葉。
涙を流しながら私を拝む彼らの姿を見て、私は胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
前世では、どんなに完璧な急変対応をしても、「もっと早く来られなかったの?」「痛いじゃないか!」と文句を言われるのが常だった。師長からは「それがあなたの仕事でしょ」と冷たくあしらわれ、感謝の言葉をもらうことなど、一年に一度あるかないかだった。
でも、今は違う。
誰も私を搾取していない。私がやりたくてやったことで、こんなにも喜んでくれる人たちがいる。
(……なんだ。仕事って、本当はこんなに温かくて、満たされるものだったんだ)
私はゆっくりと立ち上がり、彼らに向かってふわりと微笑んだ。
「私は聖女なんかじゃありません。ただの、通りすがりの無職よ。だから、そんな風に拝まないで。みんなが元気になってくれて、本当に良かったわ」
『ピロリン♪』
エプロンのポケットで、スマホがかつてないほど激しく鳴り響いた。
【システム通知】
善行ポイント:3000 pt を獲得しました!
(※多数の生命救済および、広域感染症の未然防御による特大ボーナス)
現在保有ポイント:3010 pt
『賢者君(無料版)』より一言:
……予想外の働きです。現代医療品および高級食材のロックが大幅に解除されました。
私はこっそりと画面を確認し、小さくガッツポーズをした。
これでマグローザ漁船の危機は完全に去ったし、マシロに約束した美味しいものを、お腹いっぱい食べさせてあげられる!
「コハル! お前、やっぱすげぇな! マジで神様みたいや!」
マシロが背中からドンッと飛びついてきて、私をぎゅっと抱きしめた。
「マシロがいなかったら無理だったわ。手伝ってくれてありがとう。約束通り、今日は最高のご馳走を奢るからね!」
「うおおおおっ! 一生ついてくで、コハル!!」
夕暮れのポポロ村。
私は親友の温かい体温を感じながら、誰の手柄にもならない、でも私自身の心が最高に満たされる幸福を噛み締めていた。
――同刻。ルナミス帝国、国境最前線の塹壕。
「オエェェェェェェッ……!」
「ダメだ、こんなもん食えるか……! 胃袋が裏返りそうだ……」
泥と血の匂いが立ち込める塹壕の中で、帝国軍の兵士たちが次々と膝をつき、胃液を吐き出していた。
彼らの手元に転がっているのは、無機質な茶色いパック。帝国軍が予算削減のために開発した超圧縮レーション『3型』――通称・ゲロオムレツである。
スライムの凝固剤と廃棄物で固められたソレは、一口かじれば強烈な胃酸の匂いと腐った靴下の風味が鼻腔を突き抜ける、まさに精神破壊兵器だった。
「気合いだ! 貴様ら、帝国兵としての誇りはないのか!!」
泥に塗れた塹壕の中で、一人だけ場違いなほどピカピカに磨かれた鎧を着た男――ゼロスが、白い歯を見せて怒鳴り散らしていた。
「飯が不味い程度で士気を下げるなど言語道断! 気合いで咀嚼し、闘気で消化しろ!」
「し、しかしゼロス隊長! 劣悪な食事で体力が落ち、兵士たちの傷の治りが極端に遅くなっています! このままでは化膿して……!」
副官の悲痛な報告を、ゼロスは鼻で笑って一蹴した。
「甘えるな! 傷など気合いで塞げ! 魔族との戦いに衛生など必要ない!」
「ですが、部隊に配属された回復魔法使いも、魔力切れで倒れました! せめて清潔な布と、お湯を用意して……」
「黙れ! 魔法使いなど闘気のない貧弱な者たちの言い訳だ! 俺のこの研ぎ澄まされた筋肉と、魔闘術さえあれば、魔族など恐るるに足らん!」
ゼロスは自らの二の腕の筋肉を誇示するように叩き、不敵に笑う。
彼には理解できなかった。
兵士の命を支えるのは、気合いや精神論ではない。清潔な環境と、十分な栄養、そして休息であるという当たり前の事実が。
コハルという『無能な令嬢』を追い出したことで、自分がどれほど愚かな道を進んでいるのか、気づく由もなかった。
泥まみれの傷口を放置された兵士たちの患部は、赤黒く腫れ上がり、すでに甘ったるい腐敗臭を放ち始めていた。
破傷風菌という、闘気では決して斬ることのできない死の足音が、ゼロスの部隊を確実に蝕み始めている。
「コハルなどいなくても、俺は完璧だ。俺こそが、帝国の英雄になる男なのだからな! はーっはっはっは!」
悪臭漂う最前線で、ゼロスの空虚な笑い声だけが、虚しく響き渡っていた。
誰も彼を称賛する者はいない。ただ、暗くじめじめとした自滅の泥沼へと、彼は自らの足でずぶずぶと沈んでいくのだった。
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