EP 4
退院おめでとう、私。晴れやかな追放の旅立ち
「あいつ、本気で笑ってるわよ……。ショックで頭がおかしくなったんじゃないの?」
「関わらないでおきましょう。もうこの家の人間ではないのですから」
ヒソヒソと囁き合うメイドたちの冷ややかな視線を背に受けながら、私は小さな革のトランクを一つ提げて、ルナミス男爵家の重厚な門をくぐり抜けた。
トランクの中身は、数着の地味な平服と、少しばかりの路銀だけ。それ以外は何も持たせてもらえなかったけれど、私の心はこれまでにないほど軽く、透き通っていた。
門が背後で重々しい音を立てて閉ざされる。
その瞬間、私は両腕を天高く突き上げ、思い切り背伸びをした。
「……空が、青い!!」
見上げる空は、吸い込まれるほどに深く、澄み切った群青色だった。
胸いっぱいに空気を吸い込むと、土と緑の匂い、そして陽だまりの温かい香りが肺の奥まで満ちていく。
消毒用アルコールのツンとした匂いも、排泄物の臭いも、血の匂いもしない。
ブラック病院の過酷な勤務から解放され、そして今、私を「無能」と蔑んできた実家と婚約者からの『合法的な退職(追放)』を成し遂げたのだ。
一歩、土の道を踏み出す。
私の基礎闘力はわずか2馬力。異世界の基準では信じられないほどひ弱な身体だが、足取りは羽が生えたように軽かった。
前世の記憶が、ふと脳裏をよぎる。
夜勤明けではなく、日勤に向かう朝の通勤電車。すし詰め状態の車内は、汗と香水が混ざり合った地獄のような『スメルハザード』だった。
誰もが死んだ魚のような目をして、揺れる車内でスマホを見つめ、ただ会社という名の屠殺場へ運ばれていく家畜のようだった。
『電車が止まってくれればいいのに』『いっそ、病院に隕石が落ちないかな』。そんな叶わぬ現実逃避を頭の中で繰り返しながら、重い鉛のような体を引きずってタイムカードを押していた。
それに比べて、今のこの自由はどうだ!
誰に急かされることもなく、自分の意思で、自分の足で歩く喜び。
ナースコールに怯えることもなく、医師の理不尽な怒号にペコペコと頭を下げる必要もない。
「退院おめでとう、私!」
私は誰もいない街道で、自分自身に向けて元気よく声をかけた。
そう、これは退院なのだ。搾取され、精神をすり減らしてきた『限界ブラック病棟』という名の過去からの、輝かしい退院。
今日から始まるのは、私の、私による、私のための絶対有給休暇だ。
エプロンのポケットで『ピロリン♪』と音が鳴った。
取り出した画面の割れたスマホには、見習い女神リリスの使い魔であるAI『賢者君(無料版)』からの通知が表示されていた。
【システム通知】
現在地:ルナミス帝国 辺境街道
目的地:ポポロ村(推奨バッファゾーン)まで残り約10km。
※警告:現在、無職(追放状態)のため、収入見込みゼロ。マグローザ漁船への乗船リスクが『40%』に上昇しました。
「……相変わらず水差してくるわね」
溜息をつきながらも、私は歩みを止めない。
目的地は『ポポロ村』。実家のメイドたちが「あそこは辺境の開拓村で、身分を問わず色んな人間が出入りしている」と噂していた場所だ。静かなスローライフを送るにはうってつけだし、何より人が集まる場所なら、私の『現代の衛生知識』で人助けをして、善行ポイントを稼げるチャンスがあるかもしれない。マグローザ漁船へのドナドナだけは、なんとしても避けなければならないのだ。
「でも、10kmをこの2馬力の体力で歩くのは、ちょっとしんどいわね……」
日差しが高くなるにつれ、じんわりと汗が滲んできた。
そこで私は、昨夜の残りのポイント(70pt)を使って、【通販】アプリを開いた。
『食料品』のカテゴリから、30ptを消費して見慣れた銀色のパウチ飲料を購入する。
シュンッ、と音を立てて手元に現れたのは、現代日本でお馴染みの『ゼリー飲料(マスカット味・エネルギー補給用)』だった。
冷たく冷やされたパウチのキャップを捻り、口にくわえて一気に吸い込む。
「んんっ……! 染みる……!!」
冷たいゼリーが、乾いた喉を滑り落ちていく。
爽やかなマスカットの風味と、急速に吸収されていくブドウ糖が、疲労し始めた2馬力の身体にみるみる活力を与えてくれた。
前世では、忙しすぎて食事をとる時間すらなく、ナースステーションの隅で隠れるように10秒で流し込んでいたゼリー飲料。それが今、こんなにも美味しく、贅沢な味わいに感じられるなんて。
青空の下、自分のペースで歩きながら味わうゼリー飲料は、三ツ星レストランのフルコースにも負けない至福の味がした。
「ふふっ。ゼロス様たちは今頃、あの『ゲロオムレツ』を食べてるのかしらね」
私は歩きながら、昨日私を捨てた元婚約者の姿を思い浮かべた。
『傷など闘気と気合いでどうにでもなる!』と豪語し、嬉々として最前線へと向かっていった傲慢な魔闘騎士。
帝国軍の超圧縮レーション『3型』――通称ゲロオムレツは、スライムの凝固剤と骨粉でできた、タイヤのような弾力と強烈な胃酸の匂いを放つ代物だ。そんな劣悪な食事で胃腸を壊し、ろくに手洗いも消毒もせず、不衛生な泥水に浸かりながら戦うのだ。
いくら闘気が20馬力だろうが100馬力だろうが、細胞レベルで増殖する破傷風菌や感染症には勝てない。
清潔な環境と栄養補給。その『当たり前』を知らない彼らは、私が手を下すまでもなく、その傲慢さゆえに勝手に自滅の道を辿るだろう。
「ご愁傷様。でも、もう私の担当患者(業務)じゃないから」
完全に他人事として割り切り、私は空になったパウチをスマホの『ゴミ箱機能』で消去した。
誰も恨まないし、復讐なんてするつもりもない。彼らが勝手に落ちぶれていく横で、私は私の幸せを全力で追求するだけだ。
太陽が少し西に傾き始めた頃。
ポポロ村まであと少しというところで、街道の脇に広がる深い草むらが、ガサガサと不自然に揺れた。
「……えっ? モンスター?」
私はビクッと立ち止まり、身構えた。2馬力の私では、スライムにすら勝てるか怪しい。
しかし、草むらから飛び出してきたのは、恐ろしい魔獣などではなかった。
「あぅ……もう、ダメ……。お腹、すいた……」
倒れ込んできたのは、長い銀色の髪を持った、まだあどけなさの残る少女だった。
驚くべきことに、彼女の頭には、真っ白でフワフワとした『ウサギの耳』が生えている。獣人族――それも、ひときわ美しい月兎族の少女だ。
「ちょっと、大丈夫!?」
私は慌てて駆け寄り、ナースの条件反射で彼女の頸動脈に指を当て、バイタルを確認する。
脈は少し速いが、しっかりしている。呼吸も乱れていない。外傷も見当たらない。
ただ一つ、異常な音が彼女の腹部から鳴り響いていた。
ギュルルルルルゥゥゥゥッ!!
「……お、おいしいもの……よこせ……」
涙目で私を見上げる少女。
どうやら、ただの極度の空腹(ガス欠)らしい。
限界ナースの絶対有給休暇は、開始早々、とんでもなく騒がしくて愛おしい「出会い」によって、新たな展開を迎えようとしていた。
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