EP 10
公爵邸のティータイム。そして、魔法院の影
皇城での波乱の大夜会から数日が過ぎた。
公爵邸の裏庭に広がるサンルームには、穏やかで柔らかな午後の陽射しがたっぷりと降り注いでいた。
「うおおおっ! この『フルーツタルト』っちゅうお菓子、なんやこれ!? 上に乗っとる緑の玉、宝石みたいにピカピカやんけ!」
テーブルの上に置かれた純白のケーキ箱を開けた瞬間、マシロがウサギ耳をピンと立てて歓声を上げた。
私が【通販】アプリのポイントを消費して取り寄せたのは、現代日本が誇る『シャインマスカットの贅沢タルト』だ。
サクサクのアーモンドタルト生地の上に、濃厚なカスタードクリーム、そして弾けそうなほど大粒のシャインマスカットが隙間なくぎっしりと敷き詰められている。
「種もないし、皮ごと食べられるから、そのままいって大丈夫よ」
「マジか! いただきまーす!」
マシロは大きな口を開けてマスカットタルトを頬張ると、「んんん〜〜〜っ!!」と目を丸くして身悶えした。
「甘っ! 果汁がブワァッて溢れてくる! カスタードっちゅう甘いクリームと、果物の酸味が最高にマッチしとるで! コハル、お前やっぱり食の女神や!」
「ふふっ、喜んでくれてよかった」
私も自分の分のタルトをフォークで切り分け、上品な香りのダージリンティーと共に口に運ぶ。
サクッとしたタルトの食感と、瑞々しいマスカットの甘さが、疲れた身体の隅々まで染み渡っていく。
(……美味しい。本当に、生きててよかったなぁ)
前世の限界ブラック病棟で働いていた頃は、休日の午後にお茶を飲む余裕なんて一秒たりともなかった。
モンスターペイシェントの理不尽なクレーム対応を押し付けられ、泣きながら謝罪した直後でも、「次、3番ベッドの点滴交換ね!」とお局師長から容赦なく仕事が降ってきた。
心が休まる場所も、私を守ってくれる壁も、あの病棟には存在しなかった。
でも、今は違う。
私を見下し、理不尽に攻撃しようとしたエレノアという『モンスター』は、私が何もしなくても自らの無知と毒に溺れて自滅し、レオン様が完璧な論理と法で社会から排除してくれた。
悪意は去り、ここには美味しいお菓子と、私を心から大切にしてくれる人たちだけが残っているのだ。
「コハル、君の心拍数は今日も極めて安定しているな。素晴らしいことだ」
コツ、コツ、と静かな足音を立てて、レオン様がサンルームに姿を現した。
彼は執務の合間なのか、シャツの袖を少し捲り上げた少しラフな格好だが、その洗練された美貌と冷徹なオーラは相変わらずだ。
「レオン様。お仕事の合間にありがとうございます。お茶、淹れますね」
「ああ、頼む。君の淹れる茶は、どんな高価な精神安定剤よりも私の自律神経を整えてくれるからな」
レオン様は私の隣の椅子に腰を下ろすと、極めて自然な動作で私の肩を抱き寄せた。
夜会のバルコニーでの『独占欲にまみれたキス』を思い出し、私の顔がカッと熱くなる。彼に触れられるたびに、心臓が早鐘のように鳴ってしまうのは、もうどうしようもないことだった。
「……エレノア・ヴァンと、ヴァン伯爵家の処分が正式に決定した」
レオン様は私が差し出した紅茶を一口飲むと、淡々とした声で事の顛末を語り始めた。
「ヴァン伯爵家は、不認可の猛毒を流通させようとした罪、および多額の脱税と横領の罪により、取り潰しとなった。財産は全て没収され、一族は平民へと降格だ」
「平民に……」
「エレノア本人は、毒と不適切な魔法の併発によって顔面組織が完全に崩壊し、帝国のいかなる魔法使いにも治癒不可能と診断された。今は辺境の修道院へ送られ、一生をかけて己の罪を悔いることになったそうだ」
レオン様の報告を聞いても、私の心には一切の『ざまぁみろ』という黒い感情は湧かなかった。
彼女はただ、私を見下すことに執着するあまり、自分で毒を塗りたくり、自分で転んで地獄へ落ちただけだ。私にとっては、もはや「カルテの記録にも残らない、完全に縁の切れた他人の話」でしかなかった。
「……そうですか。彼女が少しでも、清潔な環境のありがたさに気づいてくれるといいですね」
私が完全に他人事としてお茶をすすると、レオン様はふっと口元を和らげた。
「君のその徹底した『興味のなさ』こそが、あの虚栄心に塗れた愚か者に対する最大の罰だろうな。……だが、君が彼女に教えた『清潔とスキンケア』の概念は、今や帝国の社交界を席巻している」
レオン様が言うには、リリア令嬢たちの肌が劇的に美しくなったのを目の当たりにした貴族の令嬢たちが、こぞって『パフの洗浄』や『低刺激の保湿』を実践し始めているらしい。
「魔法で隠すのではなく、清潔に保つことが真の美しさだ」という私の教えが、ブームになりつつあるのだ。
『ピロリン♪』
エプロンのポケットで、スマホが軽快に鳴った。
【システム通知】
善行ポイント:継続ボーナス 300 pt を獲得しました!
現在保有ポイント:9610 pt
『賢者君(無料版)』より一言:
……帝国の衛生観念が少しだけマシになりましたね。この調子でポイントを稼ぎ、有給休暇を満喫してください。
「ふふっ、みんなのお肌が綺麗になるなら、私としても嬉しいわ」
「コハルが教えてくれたやり方、最高やもんな! ワテも最近、顔洗うのサボらへんようになったで!」
口の周りをタルトのクリームだらけにしたマシロが、誇らしげに胸を張る。
「マシロはまず、そのクリームを拭きなさいな」
私が笑いながらマシロの口元をハンカチで拭ってやると、レオン様が私の髪にそっと触れた。
「コハル。君は私の誇りであり、帝国の至宝だ。これからもずっと、君のその美しい笑顔を、私の傍で守り続けさせてくれ」
「はい、レオン様……」
サンルームは、この上なく甘く、穏やかな空気に包まれていた。
私の絶対有給休暇は、マシロという親友と、レオン様という最強の過保護なパートナーを得て、完全に安泰なものになった……かに思えた。
――だが、光あるところには、必ず影が落ちる。
同刻。帝都の中心にそびえ立つ、重厚な石造りの塔――『帝国魔法院』の地下深く。
薄暗い蝋燭の火だけが照らす円卓を、ローブを深く被った数人の老人たちが囲んでいた。
「……聞いたか。ヴァン伯爵家が取り潰されたという話を」
「ああ。あの無能な男爵令嬢……コハルとかいう女が広めた『清潔』だの『スキンケア』だのという、魔法を冒涜する邪道のせいだ」
皺枯れた声が、暗い会議室に反響する。
彼らは、帝国魔法院の『保守派』の重鎮たち。魔法こそが至高であり、貴族の特権であると信じて疑わない、既得権益の亡者たちだった。
「傷や肌荒れを、ただの水や泡で治すなど……。そのようなものが普及すれば、我々『治癒魔法使い』の権威は地に堕ちてしまう」
「レオン公爵は、あの魔力を持たぬ泥人形を『聖女』などと持ち上げているそうだが、笑止千万! 魔法の恩恵を否定する者は、帝国の秩序を乱す『異端の魔女』に他ならん!」
ダンッ! と、一人の老人が杖を床に突き立てた。
「我々魔法院の力を見せつける時だ。あの女の『物理的な医療』が、いかに無力で非力なものか……。魔法の病には、魔法しか効かぬということを、思い知らせてやらねばならん」
暗闇の中で、老人たちの目が不気味な光を放つ。
「近々、皇城で『聖星祭』が開かれる。……あの女を異端審問にかけ、公爵の庇護から引き剥がし、火あぶりにしてくれるわ。魔法こそが絶対であると、帝国全土に再認識させるのだ」
不穏な陰謀が、地下深くで黒く渦を巻き始めていた。
私を見下し、私の知識を「異端」と断じる新たな理不尽な悪意。
しかし、彼らはまだ気づいていない。
限界ナースとしての地獄を生き抜き、現代知識と通販スキル、そして『最強の公爵と神獣』を味方につけた無自覚ナイチンゲールにとって、老害たちの陰謀など、単なる『後味の良い合法ざまぁ』のための極上のスパイスでしかないということを。
私の最高で無敵なスローライフ。
その波乱と胸キュンに満ちた第三章の幕が、静かに、そして確実に上がろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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