EP 9
崩れ落ちた泥人形。猛毒コスメの結末(合法ざまぁ)
「コハル。私の背中に隠れていなさい。君の美しい視界に、あのような汚物を入れる必要はない」
レオン様の大きな背中に庇われるようにして、私はバルコニーのカーテンの隙間から、ダンスホールの中央へと視線を向けた。
『ひぃっ……!』
『な、なんだあれは……っ! 顔が、顔が溶けているぞ!』
『近寄るな! 異臭がする……! 何かの呪いか!?』
華やかな音楽が完全に止まり、数百人の貴族たちが悲鳴を上げて道を開けていく。
その中心を、扇子を優雅に揺らしながら歩いてくるのは、真紅のドレスを着たエレノア・ヴァン伯爵令嬢だった。
「……うわぁ」
私は思わず、小さく息を呑んだ。
彼女の顔は、まさに『崩れ落ちる泥人形』そのものだった。
赤く爛れた炎症と水ぶくれを隠すために、彼女は不衛生なパフで有毒な白粉を何十層にも塗りたくってきたのだろう。
しかし、シャンデリアの強い光の下では、その誤魔化しは全く通用しなかった。乾燥してひび割れた白粉の隙間から、黄色いブドウ球菌が繁殖した膿が滲み出し、皮膚組織は壊死して赤黒い紫色に変色している。
さらに、炎症と毒素のせいで顔全体がパンパンに腫れ上がり、かつての整った顔立ちは見る影もなくなっていた。
だが、最も恐ろしいのは――彼女自身が、その惨状に全く気づいていないことだった。
「おーほっほっほ! 皆様、わたくしの圧倒的な美しさに見惚れて言葉も出ないようね!」
周囲の悲鳴と恐怖のざわめきを『羨望のどよめき』だと勘違いし、エレノアは高らかに笑い声を上げた。
そして、バルコニーの前に立つレオン様の姿を見つけると、目を輝かせて駆け寄ってきた。
「レオン公爵様! お待ちしておりましたわ! 見てくださいませ、この海外の希少な魔法薬草で仕上げた、わたくしの完璧な白い肌を! あの泥人形のようなコハルなどとは比べ物にならないでしょう!?」
彼女が叫ぶたびに、顔に塗りたくられた分厚い白粉がパラパラと剥がれ落ち、そこからドロリとした血と膿が滴り落ちる。
「……これ以上近づくな、ヴァン伯爵令嬢」
レオン様は、絶対零度の声で彼女を一瞥した。
「貴様の放つ腐敗臭と、極めて不衛生な粉塵が、私の至宝の呼吸器に悪影響を及ぼす。それ以上一歩でも近づけば、不敬罪で即座に斬り捨てる」
「えっ……? ふ、不敬罪……? レオン様、何を仰って……」
エレノアは呆然と立ち尽くした。
その時、彼女の視線が、レオン様の背後に隠れるようにして立っていた私を捉えた。
「あ、あなたは……コハル!? なぜ、あなたがそんなに美しいのよ! なぜそんなに肌が輝いているの!? まさか、わたくしの魔法を……わたくしの美しさを盗んだのね!!」
私が現代のスキンケアで本来の肌の美しさを引き出しているだけだというのに、彼女は狂乱して金切り声を上げた。
その顔の筋肉が激しく動いたことで、さらに皮膚が裂け、激痛が走ったらしい。
「痛っ……! い、痛いぃぃっ! 顔が、焼けるように痛いっ……!」
「エレノア様! 鏡を……! あなたのお顔、大変なことに……!」
見かねた他の令嬢が、手鏡をエレノアの前に突き出した。
そこに映った自分の『崩壊した素顔』を見た瞬間。
「あ、ああああっ!? な、何よこれ! 嘘よ、わたくしは帝国で一番美しいはずよ!!」
エレノアは手鏡を床に叩き割り、パニックを起こして自らの顔を掻き毟った。
「治れ! 回復魔法! 早く治りなさいよ!!」
彼女は自らの顔に強力な魔力を流し込んだ。
しかし、それが致命傷となった。
「ぎゃあああああっ!!?」
限界ナースの私には、痛いほどその原理がわかっていた。
彼女の毛穴の奥には、鉛や水銀といった『重金属(猛毒)』が詰まっている。そこに魔法で細胞の分裂・再生を促せばどうなるか。
毒素を皮膚の内部に完全に閉じ込めたまま組織が癒着し、拒絶反応でさらなる激痛と凄惨な炎症を引き起こすのだ。魔法は万能ではない。物理的な『毒』や『汚れ』を取り除かずに魔法をかければ、症状は悪化するだけだ。
「誰か! 誰か魔法でわたくしを治してぇぇっ!!」
床をのたうち回り、血と膿にまみれて絶叫するエレノア。
しかし、周囲の貴族たちは汚物を見るような目で後退りするだけで、誰一人として彼女に手を差し伸べようとはしなかった。
お茶会で彼女の取り巻きだった令嬢たちでさえ、怯えて目を逸らしている。
私は、レオン様の背中からその様子を静かに見下ろしていた。
前世なら、「医療従事者なんだから何とかしろ!」と周りから押し付けられ、嫌味を言ってきた相手のために私が泥まみれになって処置をしなければならなかっただろう。
でも、今は違う。
自ら忠告を無視し、不衛生な猛毒を塗りたくった彼女は、私の業務時間外(トリアージ・黒)だ。
「……憲兵を呼べ」
静まり返るホールの中で、レオン様の冷徹で、よく響く声が下された。
「ヴァン伯爵令嬢、エレノア。貴様は自らの虚栄心のために、鉛や有毒植物の混ざった『未認可の毒物』を顔に塗りたくり、あろうことかそれを社交界で広めようとした」
「ち、ちが……わたくしは、ただ、美しく……」
「黙れ。貴様が使用していたパフは、細菌の温床だったという証言も取れている。魔法に驕り、公衆衛生という概念を著しく軽視した結果がその無様な顔だ」
レオン様は、虫ケラを見るような目で彼女を断罪した。
「貴様の行為は、帝国貴族の健康と安全を脅かす『バイオテロ未遂』に等しい。すでにヴァン伯爵家への家宅捜索は入り、闇商人との不正な取引の証拠も全て押さえた。……貴様ら一族は、二度とこの社交界の土を踏むことはない」
「い、いやぁぁぁっ! 嘘よ! わたくしはヴァン伯爵家の娘よ! レオン公爵様の妻になる女よ!! 離してぇぇぇっ!!」
駆けつけた重武装の憲兵たちに両腕を掴まれ、エレノアは床を引きずられながら会場の外へと連行されていった。
彼女の残した血と膿の跡だけが、大理石の床に無惨にこびりついている。
彼女の完全な社会的死。
私は本当に、何一つ手を下していない。復讐の罠を仕掛けたわけでもない。
ただ、私を見下した傲慢な令嬢が、自らの無知と不衛生さによって勝手に自滅し、レオン様の完璧な法と論理によって社会から抹消されただけだ。
「……私の至宝に、醜いノイズを見せてしまったな。すまない、コハル」
エレノアの絶叫が完全に遠ざかった後。
レオン様は私の方へと振り返り、先ほどまでの氷のような冷酷さが嘘のように、極端に甘く、優しい手つきで私の髪を撫でた。
「いえ……。なんだか、あっけなかったなと思って」
「自滅する愚か者とは、得てしてあのようなものだ。君の美しい心拍数を乱す価値すらない」
誰も、私を責めない。
誰も、私の手柄を奪わない。
私が教えた正しいスキンケアで美しくなった令嬢たちは、私に尊敬の眼差しを向け、私を溺愛する天才公爵様は、私の全てを肯定し、守り抜いてくれる。
「さあ、コハル。もうあの不愉快な事件は終わりだ。……そろそろ、君のあの騒がしい親友が、ビュッフェの料理を食い尽くしてしまう頃だろう。合流しようか」
「ふふっ、そうですね。マシロのことだから、ケーキの山を独り占めしてるかも」
私はレオン様が差し出してくれた腕にそっと手を添え、優雅に歩き出した。
限界ブラック病棟で搾取されていた頃の私は、もう完全に死んだのだ。
ここにあるのは、絶対的な安全と、甘すぎるほどの愛情、そして心を満たす美味しいご褒美だけ。
私の最高に快適な絶対有給休暇は、また一つ不快なノイズを取り除き、さらなる幸福へと向かって進んでいくのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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