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EP 8

ドレスアップと絶対溺愛。「君以外の女など、私の視界に入らない」

夜の公爵邸。私に割り当てられた客室の鏡の前で、私は小さく息を吐いた。

いよいよ今夜は、皇城で開かれる大夜会だ。

侍女たちに手伝ってもらい、レオン様が用意してくれた深いミッドナイトブルーのドレスに身を包む。夜空の星屑を散りばめたような繊細な刺繍が光を反射し、息を呑むほど美しい。

「さて、仕上げね」

私はエプロンのポケット……ではなく、今日はドレスに合わせた小さなサテンのポーチから、スマホを取り出した。

【通販】アプリの化粧品カテゴリから取り寄せたのは、現代の最高級デパコス(デパートコスメ)一式だ。

異世界の令嬢たちのように、鉛入りの白粉を顔中が真っ白になるまで塗りたくるようなことはしない。

保湿成分たっぷりの化粧下地で肌のトーンを整え、薄付きのファンデーションで本来の肌の艶を活かす。チークは血色を良く見せる程度のコーラルピンクをふんわりと乗せ、目元には上品なパールのアイシャドウ。最後に、潤いのあるローズ系のリップグロスを唇に引いた。

「よし、完成」

鏡に映る自分の姿を見て、少しだけ驚いてしまう。

前世では、夜勤明けの死人のような顔をマスクで隠し、髪は適当にひっつめているだけだった。誰かに「綺麗だね」と言われるために着飾る余裕なんて、一ミリもなかった。

それが今、鏡の中にいるのは、自信に満ちた、透明感のある肌を持つ令嬢だ。

「うおおおおっ!! コハル、めっっちゃ綺麗やんけ!!」

部屋に飛び込んできたマシロが、目を丸くして感嘆の声を上げた。

彼女も今日は、私が通販で取り寄せた可愛いリボンのついたフリルのドレスを着ている。

「ワテ、コハルが世界一可愛いウサギ……いや、女神様に見えるわ! こりゃレオンの奴、気絶するんちゃうか?」

「ふふっ、ありがとうマシロ。気絶はしないと思うけど、似合ってるって言ってくれたら嬉しいな」

私は少しだけ緊張しながら、レオン様が待つエントランスホールへと向かった。

大理石の階段をゆっくりと降りていくと、ホールの中央に立つレオン様の姿が見えた。

今日は軍服ではなく、公爵としての漆黒の最高級礼服に身を包んでいる。金糸の刺繍と、胸元に輝く数々の勲章が、彼の冷徹で知的な美貌をさらに際立たせていた。

「お待たせしました、レオン様」

私が声をかけると、レオン様はゆっくりとこちらを振り向いた。

そして――彫像のように、ピタリと動きを止めた。

「レオン様……?」

彼の漆黒の瞳が、限界まで見開かれている。

階段を降り切って彼の前に立っても、レオン様は無言のまま、瞬きすら忘れたように私を凝視していた。

「あの、変ですか……? やっぱり、私にはこんな豪華なドレス、似合わなかったかも……」

私が不安になって俯きかけると、レオン様はハッとして、慌てたように大きな手で自らの顔を覆った。

「……違う。すまない、コハル。私の脳内の情報処理速度が、一時的に完全にショートしてしまったようだ」

「ショート、ですか?」

「ああ。君が美しいことは、出会った日から完璧なデータとしてインプットされていたはずだった。だが……今の君は、私のあらゆる予測論理を遥かに凌駕している。美しすぎる」

指の隙間から覗くレオン様の耳が、真っ赤に染まっているのが見えた。

いつも冷徹で理路整然としている天才公爵が、私の姿を見ただけでここまで動揺してくれている。

その事実が、たまらなく嬉しくて、私の胸の奥がキュンと甘く鳴った。

「レオン様も……とっても素敵です。その礼服、すごく似合ってます」

「君にそう言ってもらえるなら、この国の全ての仕立て屋に勲章を授けたい気分だ。さあ、行こう」

レオン様は極めて恭しく私の手を取り、馬車へとエスコートしてくれた。

皇城の巨大なダンスホールは、数え切れないほどのシャンデリアの光で真昼のように明るく照らし出されていた。

私たちが会場に足を踏み入れた瞬間、ざわめいていた貴族たちの声が、潮が引くようにピタリと止まった。

『あ、あれは……レオン公爵閣下だ』

『隣にいるのは誰だ? まさか、他国の王女か?』

『なんという美しさだ……。肌が内側から透き通るように輝いているぞ!』

『白粉の不自然な白さではない、あれが本物の美……!』

広間にいる全ての視線が、私たち――いや、私に釘付けになっていた。

数日前のお茶会で、私を「地味で貧相な泥人形」と嘲笑っていた者たちもいるはずだが、誰も私をあの時の「コハル・ルナミス」だと気づいていないようだった。

「コハル様!」

人垣の中から、可愛らしいピンクのドレスを着たリリア令嬢が駆け寄ってきた。その後ろには、先日公爵邸に謝罪に来た二人の令嬢も続いている。

「コハル様、本当に美しいです……! わたくしたち、コハル様に教わった通りにお化粧の道具を洗い、優しく保湿をしてまいりました。そうしたら、お化粧のノリが全然違って……!」

「皆様も、とっても綺麗ですわ。お肌が呼吸しているのがわかります」

私が微笑みかけると、令嬢たちはパァッと顔を輝かせた。

その光景を見ていた周囲の貴族たちの中で、ひそひそと新たな噂が広がり始める。

『おい、ノイマン男爵家のリリア嬢じゃないか? あの酷い肌荒れが、嘘のように消え去っているぞ』

『彼女たちをあのように美しく変えたのは、もしや公爵閣下の隣にいるあの方なのか……?』

私の「無自覚ナイチンゲール」の成果が、この大夜会という最高の舞台で、目に見える『エビデンス(証拠)』として証明された瞬間だった。

私を見下す者など、もはやこの会場には一人もいなかった。

だが。

「……チッ」

不意に、私のすぐ隣で、レオン様が極めて不機嫌そうな舌打ちを漏らした。

見上げると、彼の漆黒の瞳は氷点下まで冷え切り、私を見つめる周囲の男性貴族たちを、物理的に射殺しそうなほどの鋭い眼光で睨みつけていた。

「レオン様? どうかされましたか?」

「……私の完全な計算ミスだ」

レオン様はそう吐き捨てるなり、私の腰に強く腕を回し、ぐいっと自分の体へと引き寄せた。

「えっ!?」

「こんなにも美しい君を、他の有象無象の男どもに見せびらかすなど……私の自律神経が耐えられない。今すぐ全員の視神経を物理的に遮断してやりたい衝動に駆られている」

過保護を通り越して、もはや危険な暴君の領域である。

レオン様は周囲の視線を完全に遮るように、自らの漆黒の大きなマントで私を包み込み、ホールの隅にある人目につかないバルコニーへと私を連れ出した。

夜風が心地よいバルコニー。

重厚なカーテンが引かれ、ダンスホールの喧騒が少しだけ遠のく。

「あの、レオン様。せっかくの夜会なのに、隠れてしまっていいんですか?」

私が戸惑いながら尋ねると、レオン様はマントで私を包み込んだまま、壁際へと私を追い詰めるように距離を詰めてきた。

ドンッ。

彼の大きな手が、私の頭の横で壁をつく。

いわゆる『壁ドン』というやつだ。前世の少女漫画でしか見たことがないシチュエーションに、私の心臓が爆発しそうな勢いで跳ね上がり始める。

「レ、レオン様……近いです……」

「近い方がいい。君の心拍音が、直に伝わってくるからな」

レオン様は低く甘い声で囁きながら、もう片方の手で私の頬をそっと撫でた。

「今夜の君は、あまりにも美しすぎる。……誰にも見せたくない。君の全てを、私のこの腕の中に閉じ込めて、私だけのものにしたいと、本気で思ってしまう」

「っ……」

普段の冷徹な彼からは想像もつかない、独占欲にまみれた熱い言葉。

彼の漆黒の瞳には、私しか映っていない。

前世では、誰からも必要とされず、「代わりはいくらでもいる」と言われて搾取されるだけの存在だった。

でも今は。この広大で力強い帝国の最高権力者が、私だけを求め、私以外の女など視界に入らないと、全力で溺愛してくれている。

レオン様の顔が、ゆっくりと近づいてくる。

私は逃げることもできず、ただ熱くなる頬を感じながら、そっと目を閉じた。

ちゅっ。

熱く、柔らかな感触が、私の頬に落ちた。

前回のおでこへのキスよりも、ずっと長く、そして甘く、独占欲を刻み込むような口付け。

リップグロスを塗った私の唇の、すぐ隣。あと数センチずれれば、唇が重なってしまうほどの至近距離。

「……っ……レオン、様……」

「君以外の女など、私の視界には一ミリも入らない。君だけだ、コハル」

耳元で囁かれたその言葉に、私の全身の力が抜けそうになる。彼がマント越しに抱きとめてくれなければ、本当に床にへたり込んでいたかもしれない。

これ以上ないほどの、最高のときめきと幸福感。

限界ナースの精神的ダメージは、この致死量の溺愛によって完全にオーバードーズ(過剰摂取)状態に陥っていた。

私たちが甘い二人の世界に浸りきっていた、まさにその時だった。

『ヴァン伯爵令嬢、エレノア様、ご到着!!』

広間から、給仕の甲高い声が響き渡った。

途端に、バルコニーの外から、人々の『ざわめき』とは違う……悲鳴にも似た『どよめき』が巻き起こる。

「……来たようだな」

レオン様は私を抱きしめていた腕をゆっくりと解き、冷徹な『氷の公爵』の顔へと戻った。

「コハル。私の背中に隠れていなさい。君の美しい視界に、あのような汚物を入れる必要はない。……私が、全てを終わらせてやろう」

私を見下した傲慢な令嬢。

自らの無知と虚栄心によって猛毒を塗りたくった彼女の、完全なる自滅(合法ざまぁ)の幕が、今、公衆の面前で無残に切って落とされようとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

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